第29話:時計のない日常
あの一夜から、数日が過ぎていた。
俺たちは、以前みんなで作った温泉に朝から向かっていた。そして湯船に浸かりリフレッシュしていた。温泉には定期的に足を運ぶようにしていた。
そして、今は洞窟そばのテラスに戻って来ていた。お風呂上がりの一杯として、ミーにお願いして浄化してもらったミルクを飲む。
ギガントリーフの屋根ができたテラスの下で、ぼんやりと空を眺める時間は、何物にも代えがたい贅沢だ。時間を忘れて景色を眺めていた。
時間に追われていた生活だったよなと、しみじみ思う。前の世界では、常に何かに追い立てられていた。
朝、アラームが鳴って起こされ、支度をして家を出る。仕事では、メールの山、数分おきに飛んでくるチャットの通知に、会議の連続。積み上がるタスクを消化するそばから新しいタスクが放り込まれる日々。
「今、何時だっけ?」と常に時計の針を気にしながら、時間に縛り付けられていた。
だが、ここには時計がない。
代わりに、空を横切る太陽の高さが、静かに時を教えてくれる。朝に差し込む鋭い光が、一日の始まりだ。
そういえば、高級リゾートなんかだと、あえて時計は置かれていないみたいな話も聞く。時間を忘れてリラックスできるようにという配慮だったと思う。今の俺は、そんな日常を享受していた。
そんなことを思っていると、静寂を破るように、遠くから蹄鉄の音が響いてきた。
(この音は……)
そう、騎士団長オルドランだ。
「ヤマダ殿、良い天気ですな!」
馬から降りるなり、オルドランが鼻息荒く駆け寄ってきた。その手には、ずっしりと重そうな籠が抱えられている。
「おはようございます、オルドランさん」
「今日は王都の市場で採れた、新鮮な食材を持ってまいりましたぞ!」
そう言って渡された籠の中には、見事な野菜や果物が詰まっていた。いつもこうして食材を差し入れてくれるおかげで、俺たちの食卓は以前よりもずっと豊かになっている。
「いつもありがとうございます。助かります」
「いえいえ! さて、本日は少しご報告があるのです」
「何かあったんですか?」
オルドランは表情を引き締めると、騎士団としての近況を語り始めた。
「王国が、周辺の凶暴化したモンスターへの対応を、一部ギルドに『依頼』することになったのです」
「……依頼、ですか?」
「そうです! 今までは騎士団がその対応のすべてを担っておりましたが、今後はその実務を一部ギルドへ委託し、成果に対して報酬を支払う形となります。これで騎士団の負担も軽減されるのです! ひいては、私もここへ通いやすくなるというもの!」
最後の私的な理由は聞き流すとして、俺は、その仕組みを脳内で変換していた。
(なるほど、いわゆる『外部委託』ってやつだな。行政が民間リソースを活用し、公的機関の業務を効率化する。前の世界でもよく見られた、リソースの最適化だ)
「ギルドの強みを活かすのは良い判断ですね」
「全くです! 特に、最近頭角を現している『ダリオスの翼』と名乗る集団などは、それはもう凄まじい勢いでモンスターを掃討しておりましてな!」
(……ダリオスの翼? この世界にも、異名を名乗るみたいな文化があるんだなあ。なんだか『イカロスの翼』みたいなネーミングだなと思った。イカロスという男が、蝋で固めた羽で太陽を目指すが、蝋が溶けて墜落してしまうという話のことだ)
俺は、その聞き慣れない言葉に思いを馳せた。
名前の響きから受ける印象は、どうにも物騒だった。あまり関わりたくないなと思ったが、それは胸の中に留めておいた。
「それはすごいですね」
「そうですな、私もいつか手合わせ願いたいものです」
「そうですか、はは……」
流石、騎士団長らしい発想だ。戦いは騎士団長やギルドの人たちにお任せして、俺はここで平和に暮らしたい。
そんな話を聞きながら、オルドランが真剣な眼差しをこちらに向けた。
「ところで、ヤマダ殿。常々この素晴らしい環境を提供いただいているお礼がしたいと思っておるのです。何か、騎士団の総力を挙げ用意できるもの、欲しいものなどはございませんか?」
「いえいえ、とんでもないです。いつも食材などをくださっているので十分ですよ」
「そう言わず! 何でもおっしゃってください」
うーん、お礼か。そう言われて、改めて俺は少し考えた。
そこで、俺は思い出したことがあり、『あるもの』についてオルドランに伝えてみた。
俺の話をじっと聞いていたオルドランは、やがて深く、重々しく頷いた。
「……承知した。ヤマダ殿がわざわざ私にお命じになるのです。その真意、このオルドラン、全身全霊をもって受け止めましたぞ」
「あ、いや、そんなに意気込まなくても大丈夫ですよ。もしあればで大丈夫ですから!」
「このオルドラン、しかと承った!」
俺の声かけも耳に入っていないようで、オルドランは「それでは!」と嵐のように去っていった。
(相変わらずだな⋯⋯)
遠ざかっていく姿を眺めながら、俺は静かに残りのミルクを飲み干した。




