あなや、われは待つ ─雪明かりの鬼─
汽車の窓を雪が叩いていた。
昭和十一年の冬であった。
その年の東北は例年になく雪が深く、十二月を待たずに線路の端が白く埋もれたという。
鷺原紫乃が黒塚村へ向かう汽車に乗ったのは、そんな吹雪の朝であった。
彼女は民俗学を修める学徒であり、恩師・国東博士の助手を務めていたが、数か月前、博士が突如として行方を絶った。最後に残した手紙の一片には、こう記されていたという。
──「安達ヶ原の黒塚にて、人のかたちをした鬼に逢うかもしれぬ。」
警察は病による失踪と片付けた。だが紫乃には、あの言葉がただの譫言ではないように思えてならなかった。
師は生涯、鬼と人との境を探り続けた人である。彼の言葉には、何か確信にも似た響きがあった。
汽車の窓外を見やると、雪に埋もれた原野が果てしなく続いている。
車内は凍てつくように冷え、石炭の煤がかすかに漂っていた。乗客はまばらで、皆、口を閉ざしている。
紫乃は膝の上に置いた古風なトランクをそっと撫で、ひとつ息をついた。
──黒塚。
古記録には「安達ヶ原の鬼婆」とある。
人の子を喰らい、夜ごと屍を漁る女の話。
だが、紫乃が興味を抱くのは、怪異そのものではない。
なぜ人は、鬼の名を借りてまで、誰かを憎み、断罪しようとするのか。
──それを確かめに行くのだ。
驛に降り立った時、雪はすでに肩を覆うほどに降り積もっていた。
駅舎の柱には「黒塚村」と墨書されている。
辺りに人気はなく、風の音だけが鳴っていた。
駅長らしき男がひとり、古いランプを手にして近づいてきた。
「……あんた、東京からかね?」
「ええ。鷺原と申します。国東博士の調査で参りました」
男は目を細めた。「博士さん、また来られたのかと思ったが……そうか、弟子さんか」
「博士を、ご存じなのですか?」
「去年の春だったか……黒塚の庵に行ったきり、戻らなんだ。村では、鬼に喰われたと言う者もおる」
紫乃は微かに眉をひそめた。「鬼に……?」
男はうつむき、唇を噛んだ。「夜な夜な、女の声がするという。泣くような、笑うような……」
風が唸り、駅舎の古い窓ががたりと鳴った。
紫乃はコートの襟を正し、雪の道へと歩みを進めた。
遠く、白い原の果てに、黒々とした森が見えた。
その奥に、鬼の棲む庵があるという。
彼女は足を止め、胸の内で呟いた。
──師よ、あなたは何を見たのですか。
雪は静かに降り続いていた。
雪を踏みしめるたび、足もとから鈍い音がした。
白一面の原野には、踏み跡ひとつなく、紫乃の影だけが長く伸びていた。
道と呼べるものは既に絶え、凍りついた川を渡ると、黒ずんだ杉の森が口を開けて待っていた。
村の入口に、煤けた祠があった。
小さな地蔵が並び、どれも首が欠けている。雪に埋もれたその足もとには、干からびた花束がひとつ。
紫乃は無意識に手を合わせた。
そのとき、背後から掠れた声がした。
「旅のお方かえ」
振り向くと、そこにひとりの老婆が立っていた。
年の頃は七十を過ぎていよう。顔は皺の深みに埋もれ、眼だけが異様に澄んでいた。
「黒塚の庵へ行くのかえ」
紫乃は頷いた。「はい。鷺原紫乃と申します。国東博士の足跡を追って参りました」
老婆は、ふと唇の端を歪めて笑った。
「博士……あの方も、ここを通ったよ。春の初めだった。風が生暖かくてねえ」
「ご存じなのですね?」
「ええ。庵に泊めてやったのさ。夜半に出て行かれて、それきり……」
老婆の声は妙に湿っていた。
「私は岩屋という者だよ。黒塚の守りをしておる。……おや、寒いだろう、来なされ」
案内されるままに、紫乃は森の奥の小屋へと入った。
土壁は剥がれ、隙間風が容赦なく吹き込む。
囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、赤い炭が妖しく揺れていた。
岩屋は小柄な身体を丸め、紫乃の方へと顔を寄せた。
「博士はね、ここで奇妙なことを話していたよ」
「奇妙なこと……?」
「人は鬼をつくるのだと。罪をひとりに押しつけ、安らぎを得るために」
その言葉に、紫乃は思わず息を呑んだ。
それは、師が常に語っていた信念だった。
──“鬼とは、共同体の鏡である”
岩屋は、紫乃の表情を読み取ったようにうすく笑った。
「おまえさんも、鬼を見に来たのだろう」
「……見に、というより、確かめに」
「ならば、夜を待ちなされ。あの丘の向こうに、黒塚がある。夜になると、白い女が出るよ。泣いているようでもあり、笑っているようでもある」
囲炉裏の火がぱち、と爆ぜた。
外では、雪がさらに激しくなっていた。
紫乃は黙して炎を見つめた。
頭の片隅で、国東博士の声が微かに響く。
──紫乃、鬼とは人の心の闇だ。
だが、人はその闇を外に追いやり、名を与えねば生きられぬ。
「岩屋さま」
紫乃は、そっと問いかけた。
「もしその“白い女”が、人の罪を背負わされた者だとしたら……?」
老婆はゆるやかに首を傾げた。
「ならば、その女こそ、いちばん人らしい鬼じゃろう」
その夜、庵の外で、かすかな歌声が聞こえた。
雪の降る音に混じって、哀しい旋律が流れていた。
──“あなや、あなや、われは待つ……”
紫乃は胸の奥が凍るのを感じた。
耳を澄ますと、その声は森の奥、黒塚の方から確かに響いていた。
岩屋は静かに火をかき回し、低く呟いた。
「ほら、もう始まった。あの方は、今夜も誰かを呼んでおるのだよ」
紫乃は、震える手で膝を握りしめた。
窓の外では、雪明かりに照らされて、白い影が一瞬、揺れたように見えた。
翌朝、雪はやみ、空は鉛のように曇っていた。
紫乃は岩屋の庵を出て、黒塚の丘を目指した。
森の奥へ踏み入るほど、空気は湿り気を帯び、匂いが変わってゆく。
腐葉土と血のにおいが、混じり合ったような生臭さ。
それは、ひとが長く閉ざした記憶の底に沈む匂いであった。
丘の中腹に、古びた塚があった。
苔むした石塔がいくつも並び、その中央にひときわ大きな石碑が立っている。
碑面には、風雪に削られながらもなお判読できる古い文字。
──『逆修之墓』
紫乃は息を呑んだ。
それは、罪を負った者が己の魂を鎮めるため、生前に建てる墓。
人の世で最も深い悔恨の印であった。
石碑の脇に、古びた布の切れ端が落ちていた。
拾い上げると、それは血に染まった手帳の一部だった。
ページの端には、国東博士の筆跡で書かれた文字があった。
鬼とは、人の記憶の形である。
忘れられぬ罪が形を持つとき、それを人は“鬼”と呼ぶ。
紫乃の手が震えた。
頁を繰ると、そこには博士自身の自白めいた記述があった。
私は十七年前、この地で一人の女を葬った。
名を阿夜という。
彼女は村人に“鬼”と呼ばれ、石を投げられ、井戸に沈められた。
だが、彼女はただ、人の子を産みたかっただけなのだ。
風が吹き、雪が塚の上に舞い降りた。
紫乃は目を閉じた。
胸の内で、ある記憶が疼いた。
──あの夜、東京の下宿で、博士が酒に酔って語ったことがある。
「紫乃、鬼とは女なのだよ。──生き延びようとしただけで、鬼にされる女がいる」
そのとき、紫乃は微笑んで聞き流した。
だが今、博士の声がまざまざと甦る。
彼の言葉は、この地で血となり、現実になっていた。
丘の向こうから、誰かの足音がした。
振り向くと、若い村人が立っていた。
まだ二十そこそこの男で、頬は凍え、眼は怯えている。
「……あんた、あの博士の知り合いか?」
「ええ。先生をご存じなの?」
男は頷いた。「あの人は、阿夜婆の墓を掘り返そうとしたんだ」
「掘り返す?」
「夜な夜な、塚の土を掘って……何かを探してた。村の者が見て怒ってな。その夜から、あの人は行方をくらました」
紫乃は、胸の奥で冷たいものが走るのを感じた。
──師は、阿夜という女の墓を暴いたのか。
なぜ?
何を求めて?
村人は、怯えたように続けた。
「婆さまが言ってた。阿夜は村の男たちに弄ばれて子を孕んだ。それを知られて殺されたって。そいでも、夜になると赤子を呼ぶ声がするんだ。“あなや、あなや”ってな」
その言葉に、紫乃の背筋が粟立った。
昨夜、庵で聞いた歌声。
──あれは、母が子を呼ぶ声だったのか。
雪明かりの中、石碑の影がゆらめいた。
紫乃は、手帳を胸に抱きしめた。
頁の最後には、博士の震える筆跡でこう記されていた。
私は彼女を救えなかった。
ならばせめて、鬼として語り継ごう。
鬼こそ、人の哀しみの形である。
紫乃の頬に、熱いものが伝った。
それは涙であったのか、あるいは雪の冷たさであったのか、自らにもわからなかった。
そのとき、遠くから、微かな笑い声がした。
風ではない。
女の声。
かすかに、優しく、そして絶望的な調べ。
──あなや、あなや、われは待つ。
紫乃は目を閉じた。
その声が、師とあの女、そして自分自身の記憶をひとつに溶かしてゆくのを感じた。
その夜、紫乃は庵に戻ると、炉の火を見つめたまま動けなかった。
岩屋の姿はなく、庵はひっそりと沈黙している。
闇が重く、呼吸さえも音を立てぬほどの静寂だった。
手にした手帳の頁を開くと、博士の最後の言葉が滲んでいた。
私は彼女の声を聞いた。
それは赦しではなく、呼び声であった。
鬼とは、われらを赦さぬ記憶である。
紫乃は、火の赤に照らされた頁を指で撫でた。
その指先がかすかに震えている。
──赦さぬ記憶。
それは、彼女自身にもあった。
三年前、学生の頃、紫乃はひとりの女性研究者を師の研究を盗んだとして告発した。
若さゆえの潔癖さと自身の正義感から。
研究者は無実を訴えていたが、その研究姿勢や、普段の態度から疎まれており、確たる証拠は出なかったが、女は学界を追われた。
それが直接の原因かはわからないが、一月後ひそかに命を絶った。
あの女性は最後まで、紫乃を恨むような目では見なかった。ただ、悲しそうに微笑んでいた。その微笑みこそが、紫乃の胸に杭となって残っている。
──赦されぬのは、私のほうだ。
その瞬間、火の中で何かがはぜた。
ふと顔を上げると、庵の入口に白い影が立っていた。
雪明かりを背に、ゆらゆらと揺れるその姿は、まるで煙のようであった。
「……阿夜、なの?」
声を出すと、影はかすかに首を傾けた。
顔は見えぬ。
ただ、白い衣の裾が、静かに揺れている。
「あなたは、博士を……?」
影は答えず、ゆるやかに手を伸ばした。
その掌が紫乃の頬に触れた瞬間、世界が反転した。
暗闇の中に、ざわめきが渦を巻いた。
村人たちの怒号、石を投げる音、女の悲鳴。
視界の中で、裸足の女が逃げ惑っている。
血に濡れた手で腹を抱え、「子を返せ」と叫んでいる。
その顔は、紫乃自身の顔だった。
──私は誰なのか。
──これは夢なのか、記憶なのか。
次の瞬間、彼女は丘の上に立っていた。
月は凍りつき、雪の野は紅に染まっている。
足もとには、博士の死体が横たわっていた。
胸に杭のような枝が刺さり、血が黒く凍っていた。
紫乃は膝をつき、震える声で呼びかけた。
「先生……どうして……」
博士は、笑っていた。
死者の笑い。
その唇が、ゆっくりと動いた。
「おまえも、見たのだな。鬼を」
風が吹いた。
その風の中に、あの歌が混じっていた。
──あなや、あなや、われは待つ。
紫乃は叫び声をあげようとしたが、喉が凍りついたように動かない。
足も腕も、自分のものではない感覚。
見下ろすと、白い手が、博士の頬を撫でている。
その手は、自分のものではなかった。
「やめて……やめて……!」
声にならぬ叫び。
だが白い手は、微笑むように血を拭い、そのまま博士の胸を抱いた。
頬を伝う涙は、雪とともに凍りつき、光の粒となって消えた。
世界が白に溶ける。
耳の奥で、誰かが囁いた。
──紫乃、鬼はもういない。
──だが、おまえの中に生きておる。
その声は、博士の声でもあり、阿夜の声でもあった。
紫乃は闇の底に沈みながら、ふと思った。
──もし、鬼が人の罪の形であるなら。
──その罪を知る者こそ、鬼の末裔なのではないか。
その思考が途切れると同時に、視界が再び炎に戻った。
庵の囲炉裏の火が、静かに燃えている。
紫乃は畳の上に倒れ、冷たい汗にまみれていた。
外では、雪が再び降り始めていた。
庵の戸口に、岩屋が立っていた。
その眼は、まるで最初からすべてを知っているように、淡く光っていた。
「見たのだね。鬼の夢を」
紫乃は唇を噛んだ。
「夢……だったのですか?」
岩屋は首を振った。
「夢と現は、人の心が分けるものだよ。あんたの中で、どちらが真かは、もうわからんのじゃ」
庵の外で、風が吹きすさび、雪片が闇を舞った。
紫乃の胸の奥には、もう消えぬ声が残っていた。
──あなや、あなや、われは待つ。
翌日の夕刻、風が変わった。
雪はやみ、かわりに細かな風花が空を舞っていた。
その光のひとひらひとひらが、落日の赤を映して、血のようにきらめいていた。
紫乃は、庵をあとにした。
岩屋の姿は、もうどこにもなかった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。
戸口には小さな紙片が残されており、そこにはたった一行、墨の跡があった。
“鬼は、見た者のかたちに化ける。”
紫乃はその紙を懐にしまい、黒塚の丘を目指した。
森は凍てつき、木々の枝が折れるたび、乾いた音が響いた。
塚の上には、すでに夜の帳が降りている。
雪面が月光を返し、あたり一面が青白く光っていた。
丘の中央に立つ石碑の前に、誰かがいた。
白い衣の女。
風に髪をなびかせ、じっと空を見上げている。
その姿は、昨日夢で見た“阿夜”そのままであった。
「……阿夜……」
呼びかける声は、自分でも驚くほど静かだった。
女はゆるやかに振り返る。
その顔は、紫乃自身の顔であった。
「あなたは、私?」
問いかけに、影は微笑んだ。
風花が舞い、その輪郭をかすめる。
「違わぬよ。われはおぬしの中に眠りおりた声。博士が見たのも、このわらわであろう」
「博士を……あなたが?」
「殺したのは、わらわではない。己の罪を見て、壊れたのは博士のほうじゃ。」
声は風に溶け、やがて静かに続いた。
「わらわは、ただ問うたのだ。なぜ、女ばかりが鬼と呼ばれるのか、と」
紫乃の胸の奥で、なにかが崩れた。
それは憐れみでも恐怖でもない。
長く閉ざされていた自らの声が、ようやく形を持った感覚だった。
「阿夜……もし、あなたが生きていたなら……」
女は微笑んだ。
「生きておれば、鬼にはなれぬ。──だが、鬼でなければ誰も聴いてはくれぬのだよ」
風が一陣、丘を吹き抜けた。
雪が舞い上がり、世界が白く霞んだ。
紫乃は手を伸ばしたが、指先は虚空を掴んだだけだった。
阿夜の姿は、風花とともに溶けてゆく。
ただ、淡い声だけが耳の奥に残った。
──あなや、あなや、われは待つ。
その声が消えたとき、紫乃は膝を折り、石碑に額をつけた。
雪が肩に降り積もり、衣の白が夜に溶けた。
ふと、足もとに紙片が落ちているのを見つけた。
拾い上げると、それは博士の手帳の最後の頁だった。
風に濡れ、文字は掠れていたが、かろうじて読み取れる。
紫乃へ。
おまえは、鬼を探すな。
鬼はいつも、おまえの中にいる。
それを赦すことが、人を人たらしめる唯一の道である。
紫乃は、長い息を吐いた。
その吐息が白く夜に溶けてゆく。
丘の上を、風花が舞っていた。
まるで、誰かの魂が空に還るように。
紫乃の胸の奥に、冷たい風の音がびょうと鳴った。
夜明け前、空がかすかに朱を帯びた。
紫乃は黒塚をあとにし、雪原を歩き出した。
足跡はすぐに消えていく。
それでも彼女は、一歩ずつ確かに前へと進んだ。
遠くで、鴉がひと声鳴いた。
その声が、まるで誰かの祈りのように響いた。
──鬼とは、人の記憶のかたち。
──赦されぬものを赦そうとする、その意志こそ、人の証。
紫乃は振り返らなかった。
風花の夜の中、彼女の姿はやがて白に溶け、
黒塚の丘には、静かな光だけが残った。
雪が、やさしく降りしきっていた。




