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あなや、われは待つ ─雪明かりの鬼─

作者: 真野真名
掲載日:2025/10/28




 汽車の窓を雪が叩いていた。


 昭和十一年の冬であった。

 その年の東北は例年になく雪が深く、十二月を待たずに線路の端が白く埋もれたという。

 鷺原紫乃さぎはらしのが黒塚村へ向かう汽車に乗ったのは、そんな吹雪の朝であった。


 彼女は民俗学を修める学徒であり、恩師・国東くにさき博士の助手を務めていたが、数か月前、博士が突如として行方を絶った。最後に残した手紙の一片には、こう記されていたという。


 ──「安達ヶ原の黒塚にて、人のかたちをした鬼に逢うかもしれぬ。」


 警察は病による失踪と片付けた。だが紫乃には、あの言葉がただの譫言ではないように思えてならなかった。

 師は生涯、鬼と人との境を探り続けた人である。彼の言葉には、何か確信にも似た響きがあった。


 汽車の窓外を見やると、雪に埋もれた原野が果てしなく続いている。

 車内は凍てつくように冷え、石炭の煤がかすかに漂っていた。乗客はまばらで、皆、口を閉ざしている。

 紫乃は膝の上に置いた古風なトランクをそっと撫で、ひとつ息をついた。


 ──黒塚。

 古記録には「安達ヶ原の鬼婆」とある。

 人の子を喰らい、夜ごと屍を漁る女の話。

 だが、紫乃が興味を抱くのは、怪異そのものではない。

 なぜ人は、鬼の名を借りてまで、誰かを憎み、断罪しようとするのか。

 ──それを確かめに行くのだ。


 驛に降り立った時、雪はすでに肩を覆うほどに降り積もっていた。

 駅舎の柱には「黒塚村」と墨書されている。

 辺りに人気はなく、風の音だけが鳴っていた。


 駅長らしき男がひとり、古いランプを手にして近づいてきた。

「……あんた、東京からかね?」

「ええ。鷺原と申します。国東博士の調査で参りました」


 男は目を細めた。「博士さん、また来られたのかと思ったが……そうか、弟子さんか」

「博士を、ご存じなのですか?」

「去年の春だったか……黒塚の庵に行ったきり、戻らなんだ。村では、鬼に喰われたと言う者もおる」


 紫乃は微かに眉をひそめた。「鬼に……?」

 男はうつむき、唇を噛んだ。「夜な夜な、女の声がするという。泣くような、笑うような……」


 風が唸り、駅舎の古い窓ががたりと鳴った。

 紫乃はコートの襟を正し、雪の道へと歩みを進めた。

 遠く、白い原の果てに、黒々とした森が見えた。

 その奥に、鬼の棲む庵があるという。


 彼女は足を止め、胸の内で呟いた。

 ──師よ、あなたは何を見たのですか。

 雪は静かに降り続いていた。




 雪を踏みしめるたび、足もとから鈍い音がした。

 白一面の原野には、踏み跡ひとつなく、紫乃の影だけが長く伸びていた。

 道と呼べるものは既に絶え、凍りついた川を渡ると、黒ずんだ杉の森が口を開けて待っていた。


 村の入口に、煤けた祠があった。

 小さな地蔵が並び、どれも首が欠けている。雪に埋もれたその足もとには、干からびた花束がひとつ。

 紫乃は無意識に手を合わせた。

 そのとき、背後から掠れた声がした。


「旅のお方かえ」


 振り向くと、そこにひとりの老婆が立っていた。

 年の頃は七十を過ぎていよう。顔は皺の深みに埋もれ、眼だけが異様に澄んでいた。

「黒塚の庵へ行くのかえ」

 紫乃は頷いた。「はい。鷺原紫乃と申します。国東博士の足跡を追って参りました」

 老婆は、ふと唇の端を歪めて笑った。

「博士……あの方も、ここを通ったよ。春の初めだった。風が生暖かくてねえ」

「ご存じなのですね?」

「ええ。庵に泊めてやったのさ。夜半に出て行かれて、それきり……」

 老婆の声は妙に湿っていた。

「私は岩屋いわやという者だよ。黒塚の守りをしておる。……おや、寒いだろう、来なされ」


 案内されるままに、紫乃は森の奥の小屋へと入った。

 土壁は剥がれ、隙間風が容赦なく吹き込む。

 囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、赤い炭が妖しく揺れていた。

 岩屋は小柄な身体を丸め、紫乃の方へと顔を寄せた。


「博士はね、ここで奇妙なことを話していたよ」

「奇妙なこと……?」


「人は鬼をつくるのだと。罪をひとりに押しつけ、安らぎを得るために」

 その言葉に、紫乃は思わず息を呑んだ。

 それは、師が常に語っていた信念だった。


 ──“鬼とは、共同体の鏡である”


 岩屋は、紫乃の表情を読み取ったようにうすく笑った。

「おまえさんも、鬼を見に来たのだろう」

「……見に、というより、確かめに」


「ならば、夜を待ちなされ。あの丘の向こうに、黒塚がある。夜になると、白い女が出るよ。泣いているようでもあり、笑っているようでもある」


 囲炉裏の火がぱち、と爆ぜた。


 外では、雪がさらに激しくなっていた。

 紫乃は黙して炎を見つめた。

 頭の片隅で、国東博士の声が微かに響く。


 ──紫乃、鬼とは人の心の闇だ。

 だが、人はその闇を外に追いやり、名を与えねば生きられぬ。


 「岩屋さま」

 紫乃は、そっと問いかけた。

「もしその“白い女”が、人の罪を背負わされた者だとしたら……?」

 老婆はゆるやかに首を傾げた。

「ならば、その女こそ、いちばん人らしい鬼じゃろう」


 その夜、庵の外で、かすかな歌声が聞こえた。

 雪の降る音に混じって、哀しい旋律が流れていた。


 ──“あなや、あなや、われは待つ……”


 紫乃は胸の奥が凍るのを感じた。

 耳を澄ますと、その声は森の奥、黒塚の方から確かに響いていた。


 岩屋は静かに火をかき回し、低く呟いた。

「ほら、もう始まった。あの方は、今夜も誰かを呼んでおるのだよ」


 紫乃は、震える手で膝を握りしめた。

 窓の外では、雪明かりに照らされて、白い影が一瞬、揺れたように見えた。




 翌朝、雪はやみ、空は鉛のように曇っていた。

 紫乃は岩屋の庵を出て、黒塚の丘を目指した。

 森の奥へ踏み入るほど、空気は湿り気を帯び、匂いが変わってゆく。

 腐葉土と血のにおいが、混じり合ったような生臭さ。

 それは、ひとが長く閉ざした記憶の底に沈む匂いであった。


 丘の中腹に、古びた塚があった。

 苔むした石塔がいくつも並び、その中央にひときわ大きな石碑が立っている。

 碑面には、風雪に削られながらもなお判読できる古い文字。

 ──『逆修之墓ぎゃくしゅうのはか


 紫乃は息を呑んだ。

 それは、罪を負った者が己の魂を鎮めるため、生前に建てる墓。

 人の世で最も深い悔恨の印であった。


 石碑の脇に、古びた布の切れ端が落ちていた。

 拾い上げると、それは血に染まった手帳の一部だった。

 ページの端には、国東博士の筆跡で書かれた文字があった。



 鬼とは、人の記憶の形である。

 忘れられぬ罪が形を持つとき、それを人は“鬼”と呼ぶ。



 紫乃の手が震えた。

 頁を繰ると、そこには博士自身の自白めいた記述があった。



 私は十七年前、この地で一人の女を葬った。

 名を阿夜あやという。

 彼女は村人に“鬼”と呼ばれ、石を投げられ、井戸に沈められた。

 だが、彼女はただ、人の子を産みたかっただけなのだ。



 風が吹き、雪が塚の上に舞い降りた。

 紫乃は目を閉じた。

 胸の内で、ある記憶が疼いた。


 ──あの夜、東京の下宿で、博士が酒に酔って語ったことがある。


「紫乃、鬼とは女なのだよ。──生き延びようとしただけで、鬼にされる女がいる」


 そのとき、紫乃は微笑んで聞き流した。

 だが今、博士の声がまざまざと甦る。

 彼の言葉は、この地で血となり、現実になっていた。


 丘の向こうから、誰かの足音がした。

 振り向くと、若い村人が立っていた。

 まだ二十そこそこの男で、頬は凍え、眼は怯えている。

「……あんた、あの博士の知り合いか?」

「ええ。先生をご存じなの?」


 男は頷いた。「あの人は、阿夜婆の墓を掘り返そうとしたんだ」

「掘り返す?」


「夜な夜な、塚の土を掘って……何かを探してた。村の者が見て怒ってな。その夜から、あの人は行方をくらました」


 紫乃は、胸の奥で冷たいものが走るのを感じた。

 ──師は、阿夜という女の墓を暴いたのか。

 なぜ?

 何を求めて?


 村人は、怯えたように続けた。

「婆さまが言ってた。阿夜は村の男たちに弄ばれて子を孕んだ。それを知られて殺されたって。そいでも、夜になると赤子を呼ぶ声がするんだ。“あなや、あなや”ってな」


 その言葉に、紫乃の背筋が粟立った。

 昨夜、庵で聞いた歌声。

 ──あれは、母が子を呼ぶ声だったのか。


 雪明かりの中、石碑の影がゆらめいた。

 紫乃は、手帳を胸に抱きしめた。

 頁の最後には、博士の震える筆跡でこう記されていた。



 私は彼女を救えなかった。

 ならばせめて、鬼として語り継ごう。

 鬼こそ、人の哀しみの形である。



 紫乃の頬に、熱いものが伝った。

 それは涙であったのか、あるいは雪の冷たさであったのか、自らにもわからなかった。


 そのとき、遠くから、微かな笑い声がした。

 風ではない。

 女の声。

 かすかに、優しく、そして絶望的な調べ。


 ──あなや、あなや、われは待つ。


 紫乃は目を閉じた。

 その声が、師とあの女、そして自分自身の記憶をひとつに溶かしてゆくのを感じた。




 その夜、紫乃は庵に戻ると、炉の火を見つめたまま動けなかった。

 岩屋の姿はなく、庵はひっそりと沈黙している。

 闇が重く、呼吸さえも音を立てぬほどの静寂だった。


 手にした手帳の頁を開くと、博士の最後の言葉が滲んでいた。



 私は彼女の声を聞いた。

 それは赦しではなく、呼び声であった。

 鬼とは、われらを赦さぬ記憶である。



 紫乃は、火の赤に照らされた頁を指で撫でた。

 その指先がかすかに震えている。


 ──赦さぬ記憶。

 それは、彼女自身にもあった。


 三年前、学生の頃、紫乃はひとりの女性研究者を師の研究を盗んだとして告発した。

 若さゆえの潔癖さと自身の正義感から。


 研究者は無実を訴えていたが、その研究姿勢や、普段の態度から疎まれており、確たる証拠は出なかったが、女は学界を追われた。


 それが直接の原因かはわからないが、一月後ひそかに命を絶った。


 あの女性は最後まで、紫乃を恨むような目では見なかった。ただ、悲しそうに微笑んでいた。その微笑みこそが、紫乃の胸に杭となって残っている。


 ──赦されぬのは、私のほうだ。


 その瞬間、火の中で何かがはぜた。

 ふと顔を上げると、庵の入口に白い影が立っていた。

 雪明かりを背に、ゆらゆらと揺れるその姿は、まるで煙のようであった。


「……阿夜、なの?」

 声を出すと、影はかすかに首を傾けた。

 顔は見えぬ。

 ただ、白い衣の裾が、静かに揺れている。


 「あなたは、博士を……?」

 影は答えず、ゆるやかに手を伸ばした。

 その掌が紫乃の頬に触れた瞬間、世界が反転した。


 暗闇の中に、ざわめきが渦を巻いた。

 村人たちの怒号、石を投げる音、女の悲鳴。

 視界の中で、裸足の女が逃げ惑っている。

 血に濡れた手で腹を抱え、「子を返せ」と叫んでいる。

 その顔は、紫乃自身の顔だった。


 ──私は誰なのか。

 ──これは夢なのか、記憶なのか。


 次の瞬間、彼女は丘の上に立っていた。

 月は凍りつき、雪の野は紅に染まっている。

 足もとには、博士の死体が横たわっていた。

 胸に杭のような枝が刺さり、血が黒く凍っていた。

 紫乃は膝をつき、震える声で呼びかけた。

 「先生……どうして……」


 博士は、笑っていた。

 死者の笑い。

 その唇が、ゆっくりと動いた。

 「おまえも、見たのだな。鬼を」


 風が吹いた。

 その風の中に、あの歌が混じっていた。


 ──あなや、あなや、われは待つ。


 紫乃は叫び声をあげようとしたが、喉が凍りついたように動かない。

 足も腕も、自分のものではない感覚。


 見下ろすと、白い手が、博士の頬を撫でている。


 その手は、自分のものではなかった。


「やめて……やめて……!」

 声にならぬ叫び。


 だが白い手は、微笑むように血を拭い、そのまま博士の胸を抱いた。


 頬を伝う涙は、雪とともに凍りつき、光の粒となって消えた。


 世界が白に溶ける。

 耳の奥で、誰かが囁いた。

 ──紫乃、鬼はもういない。

 ──だが、おまえの中に生きておる。


 その声は、博士の声でもあり、阿夜の声でもあった。


 紫乃は闇の底に沈みながら、ふと思った。

 ──もし、鬼が人の罪の形であるなら。

 ──その罪を知る者こそ、鬼の末裔なのではないか。


 その思考が途切れると同時に、視界が再び炎に戻った。

 庵の囲炉裏の火が、静かに燃えている。

 紫乃は畳の上に倒れ、冷たい汗にまみれていた。

 外では、雪が再び降り始めていた。


 庵の戸口に、岩屋が立っていた。

 その眼は、まるで最初からすべてを知っているように、淡く光っていた。


「見たのだね。鬼の夢を」

 紫乃は唇を噛んだ。

「夢……だったのですか?」

 岩屋は首を振った。

「夢と現は、人の心が分けるものだよ。あんたの中で、どちらが真かは、もうわからんのじゃ」


 庵の外で、風が吹きすさび、雪片が闇を舞った。

 紫乃の胸の奥には、もう消えぬ声が残っていた。


 ──あなや、あなや、われは待つ。




 翌日の夕刻、風が変わった。

 雪はやみ、かわりに細かな風花が空を舞っていた。

 その光のひとひらひとひらが、落日の赤を映して、血のようにきらめいていた。


 紫乃は、庵をあとにした。


 岩屋の姿は、もうどこにもなかった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。


 戸口には小さな紙片が残されており、そこにはたった一行、墨の跡があった。


 “鬼は、見た者のかたちに化ける。”


 紫乃はその紙を懐にしまい、黒塚の丘を目指した。

 森は凍てつき、木々の枝が折れるたび、乾いた音が響いた。

 塚の上には、すでに夜の帳が降りている。

 雪面が月光を返し、あたり一面が青白く光っていた。


 丘の中央に立つ石碑の前に、誰かがいた。

 白い衣の女。

 風に髪をなびかせ、じっと空を見上げている。

 その姿は、昨日夢で見た“阿夜”そのままであった。


「……阿夜……」

 呼びかける声は、自分でも驚くほど静かだった。

 女はゆるやかに振り返る。

 その顔は、紫乃自身の顔であった。


「あなたは、私?」

 問いかけに、影は微笑んだ。

 風花が舞い、その輪郭をかすめる。

「違わぬよ。われはおぬしの中に眠りおりた声。博士が見たのも、このわらわであろう」


「博士を……あなたが?」

「殺したのは、わらわではない。己の罪を見て、壊れたのは博士のほうじゃ。」

 声は風に溶け、やがて静かに続いた。

「わらわは、ただ問うたのだ。なぜ、女ばかりが鬼と呼ばれるのか、と」


 紫乃の胸の奥で、なにかが崩れた。

 それは憐れみでも恐怖でもない。

 長く閉ざされていた自らの声が、ようやく形を持った感覚だった。


「阿夜……もし、あなたが生きていたなら……」

 女は微笑んだ。

「生きておれば、鬼にはなれぬ。──だが、鬼でなければ誰も聴いてはくれぬのだよ」


 風が一陣、丘を吹き抜けた。

 雪が舞い上がり、世界が白く霞んだ。

 紫乃は手を伸ばしたが、指先は虚空を掴んだだけだった。

 阿夜の姿は、風花とともに溶けてゆく。

 ただ、淡い声だけが耳の奥に残った。


 ──あなや、あなや、われは待つ。


 その声が消えたとき、紫乃は膝を折り、石碑に額をつけた。

 雪が肩に降り積もり、衣の白が夜に溶けた。


 ふと、足もとに紙片が落ちているのを見つけた。

 拾い上げると、それは博士の手帳の最後の頁だった。

 風に濡れ、文字は掠れていたが、かろうじて読み取れる。



 紫乃へ。

 おまえは、鬼を探すな。

 鬼はいつも、おまえの中にいる。

 それを赦すことが、人を人たらしめる唯一の道である。



 紫乃は、長い息を吐いた。

 その吐息が白く夜に溶けてゆく。

 丘の上を、風花が舞っていた。

 まるで、誰かの魂が空に還るように。


 紫乃の胸の奥に、冷たい風の音がびょうと鳴った。


 夜明け前、空がかすかに朱を帯びた。

 紫乃は黒塚をあとにし、雪原を歩き出した。

 足跡はすぐに消えていく。

 それでも彼女は、一歩ずつ確かに前へと進んだ。


 遠くで、鴉がひと声鳴いた。

 その声が、まるで誰かの祈りのように響いた。


 ──鬼とは、人の記憶のかたち。

 ──赦されぬものを赦そうとする、その意志こそ、人の証。


 紫乃は振り返らなかった。

 風花の夜の中、彼女の姿はやがて白に溶け、

 黒塚の丘には、静かな光だけが残った。


 雪が、やさしく降りしきっていた。







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