婚約破棄された悪役令嬢ですが、辺境で第二の人生を満喫します
わたくしの名はセリーヌ・ド・ラクロワ。王都で五指に入る名門の娘でございました――ええ、過去形ですの。本日、王太子殿下から婚約破棄を賜りました。「君の冷たさには耐えられない」。寒さに弱いのは殿下のほうでしょうに、よく通る声でしたこと。
殿下の腕に絡むのは、新たな「真実の愛」を名乗る聖女殿。涙は真珠、言葉は蜂蜜。拍手と溜め息の間で、わたくしは扇を畳み、一礼いたしました。「ごきげんよう、殿下。わたくしはあなたの脚本に出演する意思を失いましたの」
王城の階段を下り切るころには、噂は風になっていました。残ったのは、ひやりとした空気と、自由という名の熱だけ。
追放先は北方のルフロワ辺境伯領。かつては薬草温室と香料で栄えた地ですが、嵐で温室の屋根が飛び、香草畑は塩風に焼かれ、目録と配合書は散逸したと聞きます。役割を問われれば、王太子の元婚約者は役割でなく職能で生きるもの――そうお答えしましょう。
迎えに現れたのは、灰外套の青年騎士。名はアラン。「道中、護衛いたします」「前だけでなく、左右も見なさい。風は正面からばかり吹きません」短い言葉が通じる相手は貴重です。彼は無言で頷き、馬車の速度は穏やかに上がりました。
辺境伯は壮年、目の底に夜明け前の色を宿した方でした。「助けてくれ」と最初に言えた誠実さは、信頼の初手にふさわしい。「温室を立て直したい。だが人手が薄い。王都は助けぬ」机の上には割れたガラス片、潮で波打つ帳簿、風にめくられる白紙。わたくしは手袋を外し、散らばった紙を束ねました。「まずは目録の再建から。香りは記憶で立ち上がりますの」
翌朝、崩れた温室に線を引き直しました。柱の傾き、床面のひずみ、塩の浮き。材木は港の古桟橋を解体して転用、屋根はガラスから麻紙と油膜の積層に変更。職人は足りず、費用はもっと足りない。そこでわたくしは工房組合の長に会い、条件を出しました。「支払いの半分は今季の香油で。残りは学び舎の授業で帳消しに」組合長は鼻で笑い、やがて笑みを堪えきれなくなって頷きました。
学び舎の準備は同時並行。館の空き部屋を開け放ち、机と板と砂消し。読み書きと数を、夕刻一刻だけ徒弟に。代わりに彼らは温室の梁上げと枠の塗り、香草の苗床づくりを手伝うのです。最初に来たのは港の樽職人見習いニコ。次に薬師見習いメイ。指先に塩と染料がこびりついた子ども達は、数字が並ぶたびに背筋を伸ばしました。
日中は温室と畑、夕刻は学び舎、夜は領政の帳簿。騎士のアランは見回りと運搬、老執事は湯と軽い食事を忘れません。王都での社交に比べれば、ここでは会釈一つにさえ意味がある暮らし。
最初の芽吹きは、思ったより早く訪れました。潮で焼けた畝に、塩に強い砂草を植え、その影に香草の苗を忍ばせる。堆肥は港の海藻、灰は鍛冶場から。香りは弱くとも、混ぜれば輪郭を取り戻す。わたくしは配合書の余白に、今日の風向きと湿度を書き足しました。誇りは装飾ではなく、背骨を立てる道具ですもの。
そんな折、王都から封蝋の重い手紙が届きました。宰相の筆。「託宣に誤りがあった。王太子は体調を損ね、政務に支障。至急参内されたし」わたくしは封を閉じ、扇で軽く叩きました。「開講式は明後日。わたくしが抜ければ、未来の背筋に皹が入りますわ」辺境伯は困った顔で笑い、「式を終えてから行けばよい」と言いました。「風は急かしても変わらぬ」
開講式の日、温室の麻紙が陽を柔らかく濾しました。ニコは樽の容積計算を暗算でやってのけ、メイは薬草の浸出時間を板に書き出した。子ども達の声は、香りより早く町に広がります。アランが静かに告げました。「目録第一冊、完成です」「よろしい。背を伸ばして歩きなさい。瓶の首は曲げずに」
式の翌日、勅命。今度は退けられません。わたくしは旅装を整え、学び舎の名簿と新配合の試料瓶を懐に忍ばせて王都へ。瓶の栓には、温室の麻紙を細く裂いて巻きました。風の匂いは誰にも偽れません。
大広間は、あの日と同じ煌めき。違うのは、わたくしの足取りと連なる視線の温度だけ。王は玉座にあり、王太子は衝立の陰で青褪め、聖女殿は目を伏せて祈りの形。宰相が進み出る。「セリーヌ・ド・ラクロワ、名誉は回復する。望みを述べよ」
わたくしは頭を垂れ、顔を上げました。「望みは二つ。第一に、ルフロワ温室の再建に王家の保護を。第二に、学び舎を公認の初等教習所とし、身分によらぬ入学を許す勅を」ざわめき。誰かが笑い、誰かが硬くなる。王は問いました。「なぜ婚姻や地位ではなく、温室と学を望む」
わたくしは懐から小瓶を取り出し、栓を少しだけ緩めて空気に触れさせました。弱いが確かな香り。潮の陰、砂草の青、セージの背骨。「これは嵐明け初日、辺境の風を封じた香です。礼として、王都の混乱を鎮める式典に供しましょう。風は命令に従いませんが、記憶にはよく従いますの」宰相の瞳が揺れ、王はわずかに笑いました。「よい。保護を与える。教習所も許す。……王太子については」
扇を畳み直し、ゆるやかに言いました。「謝罪も復縁も必要ございません。わたくしは明朝、温室の乾燥棚を裏返さねばなりませんから」視線が幾つか、するりと落ちました。虚飾は実務の前で沈むものです。
回廊で、聖女殿に呼び止められました。「どうか、許して」わたくしは首を振りました。「許しはあなたの救いにはなりませんわ。あなたが救うべきは、言葉の重さと、祈りの向きです」彼女は泣き、わたくしは歩みを緩めませんでした。
帰路の馬車で、アランが珍しく問いを投げました。「王都に残れば、楽でしょうに」「楽は退屈と紙一重。わたくしが欲しいのは、眠る香りを起こす仕事よ」彼は少し笑って、窓を半分だけ開けました。春の前触れが、麻紙の匂いに混ざる。
新しい季節は忙しさと共に来ました。温室は朝から蒸気に満ち、学び舎は静かな喧噪。ニコは数字を間違えず、メイは時間を守るようになり、港の女達は乾燥棚の具合を見に来て、配合の端数で石鹸を作る術を覚えました。辺境伯は夜の灯りをひとつ減らし、「よく眠れる」と笑います。
ある夕刻、わたくしは温室の隅で小瓶の栓を替え、帳面に今日の湿度を記した。ガラス片を磨いて日差しを曲げ、苗木に当て直す。アランが呼びに来る前に、わたくしはひとつ深呼吸をしました。「ごきげんよう、過去のわたくし。おはよう、明日のわたくし」
断罪は物語の終わりではありませんでした。あれは、背筋を正す合図。ただそれだけ。だから今日も、わたくしは温室の扉を開け、風を招き入れます。誇りは静かに、しかし確かに香りを立て、未来へ広がっていくのです。




