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最終章 君を忘れる僕のために

 春は、何もなかったようにやって来た。 早瀬美奈がこの世界からいなくなってから、三年が経っていた。

 あの日から、怜央は何度も夢を見た。 桜の下で笑う彼女の夢。 それは、記憶なのか、願いなのか、もうわからなかった。


 大学の講義が終わった午後、怜央は駅前のカフェでコーヒーを飲んでいた。 窓の外には、学生たちの笑い声。 春の風が吹き抜けるたびに、あの季節の匂いが胸に刺さった。

 ポケットの中には、今でも持ち歩いている一冊のノート。 表紙の角はすり減って、色も褪せている。 けれど、怜央にとってそれはまだ“今”だった。

 ふと、ページをめくる。 最後の一行は、三年前のまま。

 > 「ありがとう。今日も、あなたが覚えていてくれるなら、それでいい。」

 怜央は指先でその文字をなぞりながら、微笑んだ。 あの頃の痛みが、もう“悲しみ”じゃなくなっていた。


 その帰り道、ふとした風に桜の花びらが舞った。 怜央は立ち止まり、空を見上げた。 今年も、同じ場所で桜が咲いている。 あのとき、美奈が「最後に見たい」と言っていた景色。

 ふと、背後から声がした。

「すみません、それ……落としましたよ」

 振り返ると、ひとりの女性がノートを差し出していた。 長い髪が風に揺れ、少しだけ、美奈に似ていた。

「あ……ありがとう」「いえ」

 その女性が去ったあと、怜央は立ち尽くした。 “ありがとう”――その言葉の響きが、美奈の声と重なった。


 夜、怜央はノートを開いた。 最後のページに、小さな花びらが挟まっていた。 その下に、薄く文字が浮かんでいる気がした。

 > 「ねえ、怜央くん。私、ちゃんと春を見たよ。」

 怜央はそっと目を閉じた。 涙がこぼれる前に、笑った。


 次の日、怜央は桜並木を歩いた。 昔と同じ道。 でももう隣に彼女はいない。 それでも、不思議と寂しくなかった。

「なあ、美奈」 誰もいない空に向かって呟く。「俺、まだお前を覚えてるよ」

 風が吹いた。 桜の花びらが一斉に舞い上がる。 その中に、彼女の笑い声が混ざったような気がした。


 怜央は空を見上げたまま、ゆっくりと目を閉じた。 “忘れる”という言葉が、こんなにも優しいものだと、今ならわかる。

 彼は静かに息を吸い込み、微笑んだ。

「――ありがとう。俺はもう、大丈夫だよ。」

 春の風が吹き抜ける。 桜の花びらが舞い、白い光の中で一枚だけ、彼のノートに落ちた。

 その瞬間、怜央は確かに感じた。 美奈は、まだこの世界にいる。 彼の記憶の中で、生きている。


 そのノートの最後のページに、新しい文字が増えていた。 怜央が、震える手で書いた言葉。

 > 「3月25日 君を忘れる僕のために、今日も生きていく。」

 風が静かに吹いた。 そして世界は、春に包まれた。




この物語を書いている間、ずっと「記憶」について考えていた。 人の記憶は儚く、いつか必ず薄れていく。 でも、消えてしまうことは決して「無かったこと」になるわけじゃない。

 思い出は、形を変えて残る。 誰かの声、匂い、音、癖、言葉。 そうした“断片”が、確かに生きた証なのだと思う。

 この小説のタイトル――『君を忘れる僕のために』には、 一見矛盾するような想いを込めた。 “君”を忘れることは、“君”を手放すことじゃない。 “僕”が生きるために、“君”を静かに心に還すこと。 それが、きっと本当の「さよなら」なんだと思う。

 もし、読み終えたあとに胸の奥が少し温かくなったなら、 それだけで、この物語は救われます。


ここまでお読みいただきました皆様に、心より感謝申し上げます。

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