第6章 さよならの練習
3月の風は、少しだけ春の匂いがした。 でも、それを感じるたびに、怜央の胸は痛んだ。 春が来るということは、彼女との“季節の終わり”が近いということだった。
その日、美奈の病室は陽射しで満たされていた。 白いカーテンの向こうで、風が小さく揺れる。 怜央はベッドの横に座り、彼女のノートを膝の上に置いていた。
「ねえ、藤堂くん」「うん」「今日、私……朝起きたら、お母さんの顔がわからなかった」 そう言いながら、美奈は笑った。 怜央は言葉を失った。
「でも、あなたのことは覚えてたの。不思議だよね」 その言葉に、怜央の胸の奥が強く鳴った。 救いのようで、呪いのようでもあった。
「ねえ、藤堂くん。私、夢を見たの」「また?」「うん。今度は、桜の下で誰かが泣いてる夢。 その人の顔が見えなかったけど……きっと、あなた」「……そうかもな」「うん。でもね、その人が泣いてるの、悲しくなかった。 なんか、嬉しそうだったの。 “ありがとう”って言ってた」
美奈はそのまま目を細め、窓の外を見つめた。 その横顔があまりに穏やかで、怜央は息をすることを忘れそうになった。
昼過ぎ、美奈が小さな声で言った。
「ねえ、藤堂くん。あのノート……私に返して」「でも、それは――」「ううん、返して。最後まで、私が書きたいの」
怜央はためらいながらノートを渡した。 美奈はペンを持ち、少し震える手でゆっくりと書き始めた。
> 「3月12日 藤堂くんが笑ってくれた」 > 「3月13日 桜の匂いがした」 > 「3月14日 今日も、私、生きてる」
そして、しばらく止まったあと―― もう一行、ゆっくりと書いた。
> 「3月15日 私、あなたに出会えてよかった」
その文字は、まるで祈りのように静かだった。
夕方。 病室の光がゆっくりと薄れていく。 怜央が立ち上がろうとしたとき、美奈が彼の手を握った。
「ねえ、藤堂くん」「……なに?」「“ありがとう”って言いたかったの。 私ね、忘れていくのが怖かったけど…… 今はちょっとだけ、怖くない」
怜央は何も言えずに、美奈の手を強く握り返した。
「……藤堂くん」「うん」「もし私が消えたら、お前はどこに行くんだ?」
その問いが、あまりに静かだった。 怜央は答えられず、ただ、震える声で言った。
「どこにも行かない。 お前がいた場所に、ずっといる」
美奈は微笑んだ。 その微笑みが、春の光みたいに淡かった。
その夜、怜央は一人で桜並木を歩いた。 まだ咲きかけの花が、冷たい風に揺れている。 ポケットの中には、美奈のノート。 最後のページは、真っ白のままだった。
怜央はペンを取り出し、震える手で書いた。
> 「3月16日 早瀬美奈は、生きていた。」
書いた瞬間、涙がこぼれた。 彼女の命を記すように、文字が滲んでいった。
その夜の夢の中で、美奈が笑っていた。 桜の下で、春の風に包まれながら。
「藤堂くん、もう大丈夫だよ」「……どこに行くんだよ」「ううん、どこにも行かない。 だって、あなたの中にいるから」
そう言って、光の中へ消えた。
翌朝。 怜央は目を覚まし、ノートを開いた。 白紙だった最後のページに、見覚えのない文字が浮かんでいた。
> 「ありがとう。今日も、あなたが覚えていてくれるなら、それでいい。」
怜央は静かにノートを閉じた。 外では、桜が静かに咲き始めていた。




