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第5章 春が訪れる前に

3月に入ると、雪はもう残っていなかった。 けれど校庭の隅には、まだ冷たい風が吹いていた。 その風の中を、怜央と美奈はゆっくり歩いていた。

「ねえ、藤堂くん。桜って、咲く前の方がきれいだと思わない?」「……つぼみのときってこと?」「うん。咲く前って、“希望”みたいな匂いがするじゃん」

 彼女の言葉はいつも、少しだけ詩みたいだった。 そしてそのたびに、怜央はどう答えればいいのかわからなくなった。


 最近、美奈の記憶の消え方は早くなっていた。 授業の最中に、急にノートを見つめて黙り込むことがある。 休み時間には、怜央の名前を何度も確かめるように呼んでいた。

「藤堂くんって、“れお”って読むんだよね?」「ああ」「いい名前。光みたい」「俺のは“(れい)”の“怜”だから、どっちかっていうと暗い方だよ」「ううん。そういうのも、私は好き」

 そう言って笑う彼女の声が、春の風にまぎれて消えた。


 その日の放課後。 怜央は美奈を病院まで送っていった。 診察室の前で待っていると、彼女の母親が静かに声をかけてきた。

「……怜央くん、いつもありがとうね」「いえ……そんな」「最近、記憶が一日の中でも飛ぶようになってるの。 朝と夜で、まるで別の人みたいに」

 怜央は、何も言えなかった。 ただ、ポケットの中でノートの角を握りしめた。


 帰り道。 バスの中で美奈が言った。

「ねえ、私さ、最近“夢”見るようになったんだ」「夢?」「うん。知らない街。知らない人。 でも、その中で、私が“何かを忘れていく”の。 それがすごく、悲しい夢」「……」「でもね、夢の中で誰かが言うの。“忘れてもいいよ”って。 その声がね……なんか、藤堂くんに似てる」

 怜央は胸の奥が少し痛んだ。 それが嬉しさなのか、恐怖なのか、わからなかった。


 翌朝。 怜央が教室に入ると、美奈の机の上に封筒が置かれていた。 封筒には彼の名前が、少し震えた文字で書かれていた。

 中には一枚の紙が入っていた。

 > 「私の記憶が消えても、今日をあなたに覚えていてほしい。 > 今日の空は、少しだけ春の色をしていました。」

 怜央はその紙を胸ポケットにしまい、窓の外を見た。 まだ咲ききらない桜の枝の先で、小さな蕾が風に揺れていた。


 その日の放課後、美奈は校門の前で待っていた。 いつもより少しだけ背伸びをして、怜央の方を見た。

「藤堂くん。今日さ、私、ずっと覚えていたい一日なんだ」「どうして?」「なんとなく。たぶん、“最後の普通の日”な気がするから」

 怜央はその言葉を否定できなかった。 彼女の笑顔が、あまりに穏やかだったから。


 日が沈むころ、二人は帰り道の坂の上で立ち止まった。 街の明かりが遠くで瞬いている。

「ねえ、怜央くん」「ん?」「もし私が全部忘れちゃっても――」 言葉が途切れる。 美奈はゆっくりと目を閉じて、微笑んだ。 その微笑みが、まるで“別れの練習”みたいだった。

「そのときは、君が私の代わりに春を見て」

 怜央は何も言えずに頷いた。


 次の日。 美奈は学校に来なかった。 彼女の席には、昨日までの温もりだけが残っていた。

 怜央は机の引き出しを開けた。 そこには、もう一冊のノートがあった。

 表紙には、柔らかい文字でこう書かれていた。

 > 「藤堂くんへ。 > 春になったら、また一緒に歩こう。」


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