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第2章 ノートの意味

その日から、早瀬美奈(はやせ みな)と話す機会が少しずつ増えた。 といっても、特別なことは何もない。 朝、昇降口で軽く会釈して、 昼休みに廊下で少し言葉を交わすくらい。 でも、不思議とその“少し”が一日の印象を変えていた。

 彼女はいつもノートを持っていた。 カバーの角が少しめくれていて、 ページの隅には小さなシールや日付のメモ。 まるでそれが彼女の“もう一つの記憶”みたいだった。

「それ、日記?」 怜央が訊いたのは、三日目の昼休みだった。 窓際のベンチで、彼女がノートを開いていたときだ。「うん。忘れちゃうから」「全部?」「大事なことだけ。……たぶん」 美奈はそう言って笑った。 その笑い方は、どこか“今この瞬間を必死に焼きつけようとしている人”のようだった。


 授業の終わり、廊下を歩いていると、 後ろから声をかけられた。

「藤堂くん、今日帰り、ちょっと寄り道しない?」「寄り道?」「図書館。駅の近くの。あそこ、静かで好きなの」

 彼女がそう言ったとき、怜央は少しだけ戸惑った。 誰かと放課後を過ごすなんて、久しぶりだった。 でも、美奈が微笑んだ瞬間、断る理由を見失った。


 図書館は、放課後の光の中で静まり返っていた。 窓の外に沈む夕陽(ゆうひ)が、床に長い影を落としている。 美奈はその中をゆっくり歩きながら、本棚に指を滑らせた。

「ねえ、藤堂くん」「なに」「人ってさ、何かを忘れるとき、どこにそれが行くんだろうね」

 唐突な問いだった。 怜央は少し考えてから答えた。

「消えるんじゃない? どこにも行かない。ただ、なくなる」「……そう思う?」「思うよ。だって、思い出せない時点で存在しないじゃん」「でも、私はそうじゃない気がする」「どういう意味?」 美奈は笑って首を振った。

「たとえばね、今日あなたと話したこと。 もし私が明日それを忘れても、 “どこか”にその記憶の欠片は残る気がするの。 私の中じゃなくても、あなたの中とか、世界のどこかに」

 怜央は、何も言えなかった。 ただ、彼女の瞳の奥に映る光を見つめていた。 その光は、何かを懸命に掴もうとしているように見えた。


 帰り道、雪がまた少し降り始めた。 街灯の明かりが、降るたびにぼやけて滲む。 美奈はコートのポケットからノートを取り出し、 小さく呟いた。

「今日、図書館で藤堂くんと話した。 “忘れる”って、たぶん、なくなることじゃないって思った。」

 怜央はそれを聞きながら、 胸の奥に何か温かいものが灯るのを感じた。 それが何なのかは、まだわからなかった。


 夜、家に帰ると、怜央は机の上に一枚の紙を見つけた。 “早瀬美奈”と書かれたメモ。 学校で、彼女が落としたのかもしれない。 その裏には、小さな文字でこう書かれていた。

 > 「もし私があなたを忘れても、 > それは、あなたがいなかったことにはならない。」

 怜央はその紙をじっと見つめた。 言葉の意味は、簡単なはずなのに、 なぜか心の奥に重たく沈んでいく。


 その夜、夢を見た。 雪の中に立つ美奈が、ノートを抱えて微笑んでいた。 でも、近づこうとすると、彼女の輪郭がゆっくりと霞んでいく。

「ねえ、怜央くん。 もし私が全部忘れても、それでも、私のこと、覚えててくれる?」

 その声だけが、鮮明に残った。


怜央はまだ気づいていない。そのノートが、彼女の「記憶」ではなく、やがて彼の「心そのもの」になっていくことに。


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