第1章 溶けかけた冬のはじまり
人は、誰かを「忘れる」ことに怯える。 けれど、本当に怖いのは――誰かの中から“自分”が消えていくことかもしれない。
この物語は、そんなふたりの話だ。 何も特別じゃない高校生と、少しだけ特別な病気を抱えた少女。 出会いは偶然で、日々は何気なくて、言葉はどれも短い。 でも、だからこそ痛くて、だからこそ優しい。
“忘れられる”ことと、“生き続ける”こと。 その二つが交差したとき、きっと誰もが泣く。 この物語の涙は、悲しみのためじゃない。 ――希望のために流す涙だ。
春の手前で立ち止まるように、静かに読んでほしい。 そして、もしもあなたの中に“誰かの名前”が残っているなら、 その記憶を、少しだけ優しく抱きしめてほしい。
雪が消えかけていた。 アスファルトの黒と、道端に残る白がまるで線引きされたみたいにくっきりしていて、その境目を踏むたび、靴底に冷たい水がにじむ。二月の空は、まだ春を許していない。 藤堂怜央は、登校途中の交差点で立ち止まって、信号が青になるのをただ待っていた。耳にはイヤホン。音楽も流れていない。 無音の世界に、遠くの除雪車の音がぼんやり混じっている。
——この街は、何も起こらない。 怜央はそう思っていた。 起きて、学校に行って、誰とも深く関わらずに帰る。 同じような日々を、同じような顔で繰り返す。 “何かを失う”ということも、“何かを得る”ということも、この街ではあまりない。
その日は、ただの月曜日だった。 でも、そういう“何も起こらない日”に限って、人生は少しずつ狂い始めるのかもしれない。
昇降口の前で、クラスメイトたちがわいわいと騒いでいた。 雪解け水が溜まったコンクリートの上に、ひとりしゃがみ込んでいる女の子がいた。 小さなノートを拾おうとしている。風に煽られて、ページがぱらぱらとめくれる。 その瞬間、ノートの間から紙が一枚、ふわりと舞い上がって、怜央の足元まで転がってきた。
拾い上げた紙には、柔らかい字でこう書かれていた。
> 「今日の朝、藤堂くんに会った。たぶん初めて話した。」
怜央は、一瞬、呼吸を忘れた。 まだ誰にも話していない。 その日、怜央は誰とも言葉を交わしていなかった。
「それ、ありがとう」 顔を上げた彼女が言った。 黒い髪に小さな白い雪片が乗っていた。 名前も知らない。だけど、その目はどこか遠くを見ているようで、焦点が合っていない気がした。
「……これ、君の?」「うん。私、よく落とすの」「でも、まだ会ってないよな、俺と」「え?」 彼女は少し笑って、ノートを抱きしめた。「ごめん。忘れちゃうの、そういうこと」
冗談みたいに軽い口調だった。 でも、怜央の胸のどこかがざわついた。 忘れる、という言葉が、妙に現実味を持って響いた。
「早瀬美奈。——あなたは?」「藤堂。藤堂怜央」「ふうん。……書いとこ」 美奈はノートを開き、さらさらと“藤堂怜央”と書き込んだ。 その筆跡は整っているのに、どこか震えていた。
「覚えられないの?」「ううん、覚えたいんだけどね」 その言葉には、明るさと同じだけの“諦め”が混ざっていた。
チャイムが鳴る。 昇降口の外の雪が、すっかり溶けていた。 怜央は、その日の授業の内容を何ひとつ覚えていない。 でも、あのときの光景だけは、妙に鮮明に頭に残っていた。
放課後。 帰り道、バス停のベンチに美奈が座っていた。 手の中には、またあのノート。 怜央が近づくと、美奈は顔を上げた。
「今日ね、数学の授業で寝ちゃってたら、先生に当てられたの。 でも、何を聞かれたか忘れちゃってさ」 笑いながら言う彼女の声は、かすかに震えていた。
「……それ、笑いごとじゃないだろ」「そうだね。でも、もう慣れたの」
そのとき、怜央は何も言えなかった。 彼女の言葉が、なぜか“死”を遠くに連想させたからだ。 まだ何も知らないのに。 まだ何も始まっていないのに。
「ねえ、怜央くん」 名前を呼ばれて、怜央は少し驚いた。「君のこと、忘れたくないな」 美奈はそう言って、ノートを閉じた。 その仕草が、なぜかとても丁寧で、美しかった。
夜、怜央は眠れなかった。 窓の外で、風が薄い雪を運んでいる。 スマホの画面を見ても、何も変わらない。 ただ、あの紙切れの文字が頭から離れなかった。
> 「今日の朝、藤堂くんに会った。たぶん初めて話した。」
初めて話したのに、彼女はすでに“それを記録していた”。 その事実が、妙に胸の奥を締めつけた。
その夜、怜央はまだ知らない。“忘れる”ということが、どれほど静かに人を壊していくかを。そして——その中で誰かを“覚えている”ことが、どれほど苦しいことなのかも。




