【第56話】「うまくなりたい」って何?
雨の音が、昼休みの静けさを濡らしていた。
窓の外では、グラウンドに立ち込めた水煙が揺れている。
その日、真理子はノートを開いたまま、手を止めていた。
――“うまくなりたい”。
この一ヶ月で、何度も自分の中で繰り返した言葉だった。
でも、それを声に出すとき、自分が誰と比べて“うまくなりたい”のかが、わからなくなる。
あすかは、自由に書く。豪快に、楽しそうに。
志津香は、構成を計算し、線を研ぎ澄ます。
自分は――?
放課後の書道室。
あすかが半紙を大胆に斜めに使い、文字を大きく崩していた。
「これ、見てみ? “流れる”って文字なんやけど、うち、もう書くっちゅうより“走る”に近い感じでやってみてん」
笑いながら見せてきた紙には、たしかに“走り抜けた”ような線が刻まれていた。
「……自由すぎて、うちには難しいな」
真理子は苦笑いした。
一方、志津香は部室の奥で静かに墨を摺っていた。
筆先の毛を、何度も整えるように撫でながら。
その動きに、寸分の迷いもない。
「真理子、この間の“結”の文字、もう一度書いてみない? 線をもう少し細く、リズムを意識して」
「……うん、わかった」
でも、筆を取る手は、重かった。
(どっちの方向も、自分には向いていない気がする)
(私の“うまくなる”って、なんなんだろう)
書き上げた「結」は、少し上手くなったように見えた。
でも、その分だけ、自分らしさが遠ざかっていく気もした。
「“うまくなりたい”って、なんなんやろな」
不意に、あすかが呟いた。
真理子と志津香が顔を上げる。
「志津香みたいにうまく書けるようになりたいって、ずっと思ってた。
でも、うちが“志津香の字”になっても、それは“うちの字”やないやん」
「……それは、そうだけど」
志津香が応じた。
「でも、“うまくなる”って、“誰かのように”なることじゃないと思うで。
自分の線を磨くことなんちゃうかな」
あすかはそう言って、自分の半紙を指差した。
「こんな暴れた字、志津香には書けへんし。
でも、“これが天童あすかの字”やって言われたら、うちはそれ、めっちゃ誇れる」
真理子はその言葉を、胸の奥で反芻した。
(“うまくなりたい”って、誰かみたいになりたいんじゃなくて、
自分を、自分のまま“強く”したいってこと、なのかもしれない)
その夜、真理子は小さな紙に、一文字だけ書いた。
〈探〉
かすれ、ゆらぎ、揺れながらも、紙に残ったその文字に、
彼女はほんの少しだけ、目を細めた。
“自分の字”を探すこと。
それが、彼女にとっての「うまくなる」第一歩なのかもしれない。
外では、雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夏の夕日が、静かに机を照らしていた。




