八章 「将棋盤の碁石」 -2-
途端、八田の兄の顔色が変わる。
綺麗な顔が動揺して歪む様は、僕を興奮させた。
これであの傲慢な態度はもうとれまい。
しかし、僕の予想は外れる。
八田の兄はすぐに冷徹な仮面をつけ直すのだった。
「弟は今何処に?」
「・・・八田はあんたが閉じ込めたあの穴の近くで、神谷さんと一緒にいるよ。きっと今頃あんたが捕まるのを今か今かと待っているだろうさ」
面白くない。
けれど、そんな余裕をかましていられるのも今のうち。
もう一度警察を呼び出し、こいつを牢屋にぶち込んでやる。
さっきの通報を悪戯だと思われているから、多少手こずるかもしれないが何とかしてみせる。
「そうか」
まるで僕のことなど眼中にないとばかりにそっけない返事をした八田の兄は桐嶋老人を呼びだす。
そして、こそこそと二人で話し始めた。
平静を装っているが、内心穏やかでないだろう。
きっと二人でどうしたものかと相談しているのだろう。
無駄な事を、僕はそう心の中で嘲り笑っていた。
だが、そんな気持ちもすぐに消えてしまう。
八田の兄と話を終えた桐嶋老人が奥から取り出したもの。
それは・・・猟銃だ。
甘かった。
カラスさえいなければ手を出せない。
そんな慢心が僕にはあったのだ。
逃げ出さねばいけないと思うが、足がすくんで動けない。
いや、逃げ出したところで一体何処に逃げると言うのだ。
後ろからズドンとやられてお終いではないか。
僕は悔しさに拳を震わせ、目をつむり覚悟を決める。
ぎりりと奥歯を噛みしめ、来るであろう痛みに備えた。
死とはどれほどの苦痛なのだろうか。
思い起こされるのは加藤の無残な死に様である。
出来ればいっそ楽にと思ってしまう僕は、死してもきっと加藤に顔向けできない。
不意に僕の腕が引っ張られた。
「何をしている?君も行くのだろう?」
はっと顔を起こすと、至近距離に八田の兄の美しい顔があった。
僕の腕を掴む手は男らしく大きいが、その身から発せられる香は女性のような甘いにおいがした。
こんな状況で僕は何を考えているのだろう。
きっと恐怖で僕の頭はおかしくなったのだ。
「一体何処に?」
当然の質問である。
そんな当然の質問に八田の兄は苦悶の表情で、僕の腕を力強く握る。
「弟の所だ。このままでは一緒にいる彼女が危ない」
神谷さんが危ない?
それはどういう意味だと問う前に八田の兄は急ぎその場を後にする。
見渡すと桐嶋老人の姿も無い。
しばし呆然としていたが、僕は慌てて八田の兄の後を追うのだった。
また山道を行くのかとうんざりするが、追わない訳にもいかない。
とは言え、慣れぬ道を行くのは大変だ。
急ぐ八田の兄の歩みの速度は速い。
それに比べて懐疑心を拭いきれていない僕は明らかに後れを取っていた。
そんな僕の様子を見て、八田の兄は立ち止まる。
「腑に落ちないと言った風だな」
「当然だ。一体何がしたいのか知らないが、無警戒についてくるなんて真似出来る訳ないだろ。あんたは怪しすぎるんだよ」
「やはりか。正直時間が惜しい。私を信用しろとは言わないが、このままのらりくらりとついてくるつもりなら置いていくぞ」
「よく言う。何の説明もなしに信用も何もないだろ」
「君を殺そうと思えば、先程殺せていただろ」
「人目を気にしただけかもしれない」
八田の兄は大きくため息をつく。
「だから、時間が惜しいと言っているのに。融通の利かない」
仕様がないと八田の兄は語る。
彼の大きな黒い瞳は僕をじっと捕らえ、そして僕の向こう側に過去を見る。
まるで紅を引いたような、その薄桃色の唇がゆっくりと動く。
「五年前の事だ。私は加藤君が死んだあの場所で父を殺した。私はカラスに父を襲わせた」
「やはりあんたが加藤も・・・」
にやりと八田の兄は笑うのだった。




