おじいちゃんのはんてん
「お母さん、おじいちゃんのはんてん着たいんだけど。」
陽子が夕食の食器を洗い終えるタイミングを見計らったように、後ろでアキが遠慮がちに言いました。
「そうね、寒くなってきたもんね。」
濡れた手を拭きながら陽子はアキに笑顔を向けました。アキと一緒にたんすの前に行き、引き出しから父が生前着ていた青い格子柄の綿入れはんてんを取り出して広げ、アキに着せかけてやると、
「わあ、おじいちゃん!」
アキは嬉しそうに手がすっぽり隠れてしまう長い袖をパタパタ振りながら大きな姿見のほうへ走って行きました。そして鏡の前でくるくる回りながら何やらひとりごとを言っています。
去年の丁度今くらいの時期に、ずっとしまい込んでいたはんてんを思い出して陽子が着るつもりでたんすから出しておいたらアキが気に入ってしまい、アキ専用の部屋着として袖を大きく折り返して冬の間じゅう羽織られることになったのでした。何がそんなにいいのか尋ねると、
「だっておじいちゃん優しいんだもん。」
とアキは答えます。
(あったかいから優しいって感じるのかしら。でも本当に優しい人だったんだよ。お父さんが生きていたらアキのことどんなに可愛がってくれたかしら。お父さん、アキ大きくなったでしょ。半年前ははんてんの裾が床につきそうだったのにあんなに足が見えるようになってる。それに随分活発になったのよ。)
アキが生まれる少し前に病気で他界した父がなんだかそばにいるような気がしました。
たんすから取り出されたはんてんに宿っていた正男の魂はアキに羽織られて目を覚ましました。
「わあ、おじいちゃん!」
「お、アキちゃんか? ちょっと見ないうちに大きくなったな。」
「うん、アキぶどう組だもん。4月になったら1年生になるんだよ。」
「そうか、小学生になるのか。楽しみだなあ。」
「うん。でもね、ちょっと心配なの。ちゃんとお友達できるかなあ。それに算数とか難しそうだし……」
「うんうん、いつもにこにこしておいで。それで大丈夫だ。みんなと仲良くできるぞ。勉強だって先生のお話をちゃんと聞いていれば大丈夫。アキちゃんは賢い子だからな。」
正男は半年前よりも確実に背が伸びて成長したアキに会えたのが嬉しくて、おかっぱ頭を何度もなでてやりました。
保育園から帰って来たアキが自分の手のひらを見つめています。
どうしたんだろうと正男が覗き込むと小さな手にまめが幾つもできています。
「やや、アキちゃん、これはどうしたんだ?」
「あのね、今鉄棒で逆上がりの練習してるんだけど、アキできないの。」
「そうか、逆上がりか。こう鉄棒を握ってだな、腕がだらんと伸びないようにしっかり力を入れて、おへそを鉄棒にくっつけるつもりで思いっきり脚を振り上げてごらん。大丈夫だ、きっとできるぞ。」
「うん、やってみる。」
「おじいちゃん!」
アキが保育園から頬を紅潮させて帰って来ました。
「おじいちゃんに言われた通りおへそを鉄棒にくっつけるみたいにしたら、アキ逆上がりできたよ。あっくんやちいちゃんやゆうちゃんにも教えてあげたらみんなできるようになったの。」
「おおそうか、そりゃよかった。みんな頑張ったんだな。」
「うん、おじいちゃんありがとうね。」
いつも 大丈夫、大丈夫 と励ましてくれるおじいちゃんがアキは大好きです。陽子が仕事で疲れているのがわかっているし、うちにいる時も何かと忙しくしているので、アキは 遊んで と言えません。つまんないな と思ってはんてんを羽織った時におじいちゃんは現れました。おじいちゃんはいつもアキの話をうなずきながら聞いてくれます。絵を描くと 上手だなあ と目を細めてほめてくれます。転んでできた膝のすり傷をなでて、はやく治るおまじないをかけてくれます。アキは自分のことを全部認めてくれるおじいちゃんに会って元気な女の子になっていきました。
今日は珍しくアキがクスンクスンと泣いています。
「おや、アキちゃんどうした?」
正男が尋ねると、
「あのね、朝ご飯あんまり食べたくなかったからテーブルに牛乳でねずみさんの顔描いてたら、お母さんが怒ったの。」
「そうか、叱られちゃったか。」
涙を拭いてやろうと手を伸ばした正男は、アキの様子が普通ではないことに気が付きました。
「おい陽子、ちょっと来てくれ。アキちゃん変だぞ!」
洗面所の規則的なリズムを刻んで動き続ける洗濯機の前で、陽子は冷静な心を取り戻していました。
(あんなに怒るんじゃなかった。)
急いでいるのにご飯をちっとも食べようとしないでテーブルにこぼした牛乳を指で広げているアキを怒鳴りつけてしまったことを後悔していました。
「え?」
誰かに呼ばれたような気がして振り向いた陽子の目に、はんてんを着て柱に寄りかかり、今にも崩れそうな姿勢で座っているアキの姿が飛び込んできました。
「アキ!」
慌てて駆け寄った陽子が声をかけると、
「あ、お母さん、アキ頭が痛いしなんだか苦しいの。」
辛そうに答えます。支える陽子の腕にはんてんを着ていてもわかるほどの熱が伝わってきます。
「お医者さん行こ。すぐに支度するからね。」
頬に残る涙のあとに陽子の胸は痛みました。
布団に横たわり荒い息づかいで眠るアキの顔を見つめる陽子の目から涙がこぼれました。具合の悪いことに気づかず怒ってしまった自分を責める気持ちに、普段から仕事と家事に追われて寂しい思いをさせていることをすまなく感じる心が合わさって、どうしようもなく沈み込んでしまいました。
「ごめんね、私って駄目なお母さんだね。」
うつむいて泣いている陽子の頭に何かがふんわりかぶさりました。大きくて温かくて懐かしい感触でした。
「お父さん!」
顔を上げるとそこには昔と変わらない正男の優しいまなざしがありました。
正男は陽子の頭をなでながら、
「陽子はちっとも駄目なお母さんじゃないぞ。ちゃんとひとりで頑張ってるじゃないか。アキちゃんだってあんなにいい子に育ってる。心配しなくてもアキちゃんすぐよくなるから大丈夫だ。どうだ、気晴らしに散歩にでも行くか?」
そう言って正男は左手の人差し指を陽子の顔の前に差し出しました。
(そうだわ、私の手が小さすぎてうまく手が繋げないからいつもお父さんの人差し指を握って歩いてたのよ。子どもの頃お父さんと川べりを散歩するのがどんなに楽しかったことか。)
「うん。」
うなずいて正男の指をつかんだ陽子は、小さな女の子になって正男と歩き出していました。
(あら、私お父さんのはんてん羽織ったままいつの間にか寝ちゃったんだわ。)
目を覚ました陽子がアキを見ると荒かった息づかいが普通に戻っています。額にあてた手には昨日のような熱さは感じられません。
(よかった。)
正男が治してくれたような気がしました。頭に置かれた手の感触や差し出された人差し指に染みついた茶色いタバコのヤニは、夢とは思えないほど鮮明に残っています。
(お父さん、ありがとう。)
日曜の午後、取り込んだ洗濯物をたたむ陽子の耳にアキの笑い声が聞こえてきます。
(何をしてるのかしら。)
アキのいる隣の部屋の窓際に視線を向けた陽子は、ひだまりの中であぐらをかいた脚の上にはんてんを着たアキを乗せ、絵本を見ながら相好を崩す正男の姿を一瞬捉えてはっとしました。
(・・・そうだったの。)
アキが、おじいちゃんは優しい と言って正男のはんてんを着たがる理由がはっきりわかりました。
「さあ、これでよし、と。」
袖のほころびを繕い終えて陽子ははんてんを軽くはたきました。
「お父さん、冬になったらまたお願いね。」
たたんでたんすにしまおうとした陽子はアキの視線を感じて、
「おじいちゃんのはんてん、ハンガーに掛けて出しっぱなしにしとこうか。」
と言うと、アキは嬉しそうに大きくうなずきました。
(私、お父さんに心配かけないようにもっとしっかりしなくちゃね。)
「あっ、おじいちゃんのはんてんにお花!」
開け放しておいた窓から桜の花びらが1枚、はんてんの肩にふわり舞い降りました。