彼女の怒り
彼女は扉を開けた。
そして、僕を見て固まった。
「あ、あ、あ、」
僕も何も言わないもんだから、たっぷり十秒は見つめ合っていた事になる。
「い、いまさら来て、なんのつもりよ!」
声が裏返って語尾が弾んでいた。彼女は僕に抱きついて、肩に顔を埋めた。
「死んだかと思ってたのよ。あんた連絡くらい寄越しなさいよ」
彼女の声は震えていて、泣いているのか怒ってるのか、判断がつかなかった。
「ごめん、あとお願いがあるんだよ」
なに? と、抱きついたまま彼女が言う。
僕は彼女を優しくほどいて、少し引き離す。彼女を真っ直ぐ見て、微笑んで言う。
「僕を、忘れて欲しいんだ」
え? 彼女の顔が固まった。予想外、と言うよりは、理解したく無いように。
「僕をね、忘れて欲しい」
もう一度言った。彼女は数秒時間を空けて、みるみる顔を引きつらせた。
「あんたねぇ……」
「うん、ちょっといろいろあるんだよ。だから、」
忘れて欲しいんだ。
彼女が口を大きく開く。何かを叫ぼうと、息を吸い込む。
「へぇ、この子なんだ。可愛い子だね」
それを遮ったのは、ドールの素っ頓狂な声だった。
僕の足下に人形が立って、彼女を見上げていた。
「うわっ、出てくるなって言っただろう。ややこしいんだから」
「いいじゃん。君が好きな子、見たいんだ」
案の定、彼女は驚いた顔をしていて、叫ぶのも忘れて、震える指で人形を指した。
「それなに?」
聞かれ、僕はなんと答えて良いか迷った末に、
「えっと。姉さん、かな」
と言ってしまった。
彼女の顔は再び固まって、そして叫ぶ代わりに、全力で僕を殴った。
グーでストレートだった。
僕は数メートル後ろに吹き飛んで、扉の閉まる音を聞いた。
「よぅ、アネさんからは聞いているぜ。良く来たじゃねぇか、何? どうしてそんなポッペタ真っ赤なんだ? 虫歯でも出来たか」
「うるふぁい」
「まぁ、いいや。入れよ」
医師はドアを開けて、中に招き入れてくれた。そこは相変わらず散らかっていて、病院には見えない。
「これだろう? 預かっていた腕」
医師は左手の義手を差し出していった。たぶんそうだよ、と僕は言う。
「保管してんの、結構苦労したんだぜ。完全非合法だし」
「それはすまなかったよ」
「まぁ、アネさんの頼みならしかたないよ。アレは良い女だった」
だった? 過去形に引っかかって聞き返すと、医師は残念そうに目を伏せる。
「死ぬんだろう? アネさん」
僕はびっくりして、医師の顔を凝視した。
「まぁ、長年裏市場にいると分かるんだよ。アネさんから電話もらった時から、あぁコレは死ぬ覚悟をしてるんだな、てな。もちろん――」
――お前も、な。
ニィ、と医師は笑った。
「最高の仕事してやるから、冥土のみやげにしやがれ」
ありがとう。僕は笑顔でそう言った。上半身を剥き出しにして、手術台に寝る。両手を固定されながら、ふと姉の事を思う。
「麻酔かけるかい?」
僕もきっと、死ぬ事を幸せに出来る。
「いいや、いらないよ。痛感神経はすでに死んでる」
「いいのか? あんなに嫌がってたじゃないか」
「たぶん、全部精神的な物なんだ。だから、いらない」
精神も強くならないと、きっと出来ない。何も出来ない。
そうか。と、医師が左肩に触れる。彼女が枕にした、生身の腕、もうすぐ無くなる僕の腕。
「そうそう、一つお願いがあるんだけどさ」
ん? 医師は僕に顔を向ける。僕は天井を見ながら、それを告げる。
「できる?」
医師は顔を歪めて、出来ない事は無いが……と言った。
「じゃあ、頼むよ」
「簡単に言ってくれる。まぁ、冥土のみやげか。乗りかかった船だ」
よろしく、と僕は言った。
「覚悟は良いな。左腕に別れを言うこった」
僕は小さく息を吸い込んで、そして目を瞑った。水が弾ける音がして、まぶたの裏が真っ赤に染まった。
顔に液体が飛んできた。
僕は静かに、彼女の事を思い出していた。