恋に恋する物語 前
初投稿につき、どうぞよろしくお願い致します。
はぁっ、はあ、はあ、はっ、は、
嗅ぎ慣れない濃い土の匂い、背の高い気が作り出す闇のように深い影の合間を一人の女性が走っていた。
とにかく、何かから逃げ出すように。何度もぬかるんだ足元に足を滑らせながら、追いかけているもの等何も無いのに必死で逃げていく。
まだ早朝で水の気の多い時間帯は、ただ鳥も泣くこともせず。女性の呼吸音と足音、そして葉擦れ音だけが森に響いていた。
しかしなれない足取りで獣道を走るのも限界がある。彼女は、大きな木の出っ張った根にとうとう足を取られ盛大に転んでしまった。そこに響いたゴッという重い音は、彼女がどれだけ勢いよく頭をぶつけたのかを明確に語っている。
しばらく彼女は蹲っていたが、思い出したようにはっと顔を上げると、そこには。
鬱蒼とした木々の代わりに、大きな大きな図書館が広がっていたのだ。
耳に残る虫の音や葉擦れの音はなくなり、ぱちぱちとした小さな音――暖炉の音に変わり。
肌を冷やす風は柔らかな温度を保った空気に変わり。
森独特の濃い土の匂いや植物の匂いは、どこか甘く優しい香りに変わり。
そして、彼女を逃がさんとするように囲っていた青々とした木々や植物は、1面見上げるほどに高い本棚へと姿を変えていた。
先程まで必死で森の中を走っていたはずの女性――アルーシャは呆然と座り込んでいた。自分の身に起きた変化に理解出来ず、ただ自分の手を見下ろす。
それは正に今まで森にいた事を証明するようにどろどろに汚れていて、そこの視界の隅に見える磨きあげられた床と自分のボロボロの姿に異様なものを見ているような気になった。
「ここは……、どこ?なんで、あ、私…」
と意味も成さないような言葉を呟くが、勿論返事が帰ってくるはずもなく。
とりあえず、とアルーシャは手を着いて立ち上がり、周りを見渡す。
彼女がいつの間にか居た部屋は、どこか古びた教会を思わせるような風貌だった。壁一面に古びた本棚が備え付けられており、天井はありえないほど高い。上の方は燭台も着いていないのか、暗くて天井が見えないほどだった。所々に立てかけられたハシゴはせいぜい2m半くらいの長さしかなく、どう考えても1番上までは届かないことが分かる。その一つ一つが異様な神聖さを感じさせる。
それから正面に視線を移すと、白い木の丸いテーブルに繊細な飾りが施された椅子が三脚囲むように置いてある。その素朴な様でいてこだわりの強そうな家具のセレクトにどこか違和感を感じる。
右手側には扉と奥に暖炉があり、その前にも濃い赤色のソファが置かれている。左手側と奥にも同様に扉が設置されている。但し、本来壁紙があるような部分は全て本棚で埋めてあり、どこか非現実的な部屋だと直感的に感じる。
そして、彼女の背後は何も無かった。ただ壁は本で埋めてあるだけ。
どう考えても非現実的で可笑しいのに、ここにあるのが当たり前であるかのような言いようのない違和感を感じる自分に怯える。
何も出来ずに困り果て、ただ本の背表紙を見つめるだけになってしまったアルーシャに、あるはずのない声がかかった。
「あら、お客さま?」
はっ、と振り返ると、さっきまでは誰もいなかったはずの椅子の上にその人物は腰掛けていた。
その人は、一言で表すならば「人形」というのが正しい。それ程に人間離れしたどこか畏怖さえも感じさせる美貌を持つ少女は、それをするのが当たり前であるかのようにゆったりと寛いでいた。
淡いブロンドの髪は愛しい子猫を思わせるように柔らかく、彼女の腰までを隠している。こちらを楽しそうに見つめる瞳は、夏の青空のように親しみ深いような、それでいて見つめる者を麗しい湖の底を覗きこむ時のように底知れない恐怖を植え付ける。
白く透き通る肌は陶器を想起させ、極めつけに彼女は「少女」と言うよりも「女の子」と言った方が正しいほどに小さかった。だが彼女が纏っている服は誰が見ても一級品のもので、気品をより一層際立たせている。
女の子の登場にアルーシャはさらに自分の置かれている状況が理解出来ず、目を白黒させていたが、声をかけられたのだ。答えないわけにはいかない。
「え、えぇと、お嬢さん…貴方はここがどこだか知っているかしら……??お姉さん迷っちゃったみたいで、出来れば早く戻りたいのだけれど…」
困惑のせいか、少し吃りつつも声をかけるとその女の子は目を見開いて驚いてみせる。っえ?と思った瞬間、弾かれたように笑いだした。
「あははははははははははは!!
ここがどこだか知っているか、ですか?んふふ、ええ、えぇ勿論知っていますわ!他の誰よりも、ええ!
まさか迷い込んだ事に気がついていないだなんて!ねえ、『迷い子』のお姉さん? ふふふ…」
狂ったように笑い声を上げ、楽しそうに目を細める姿に突然笑われた怒りよりもこの世のものでは無いような恐ろしさの方が勝ってしまう。
言い終わった後も耐えきれないかのように笑いを零す姿はどう見てもお人形のように愛らしい女の子なのに、そうと思わせない違和感がある。
狂ってる。
自分がただただ震えていると、さらに驚くべきことに彼女の傍に人が『現れた』。
アルーシャには空気が歪み、人が形作られたように見えたが、そうとしか表現出来ないほど非現実的な光景であったと理解して欲しい。
「ひっっ――――…………っっ!?!?」
堪えきれずに引きつった悲鳴をあげると、座っていた女の子はゆったりとそちらを見やる。
現れたその人は一見すると若い従者のようだ。
背は高く細身である彼は、きっちりと黒いベストとズボンを着こなしており、女の子と同様にどこか浮世離れした気品を感じる。
襟足が長く伸ばされた髪は深い深い藍色で一見すると黒にも見える。だが、部屋の照明が彼を照らすあたりは鮮やかなシアンに変わっていることで、ようやく青だと分かった。
つり目がちで利己的に細められた瞳の色は濃い黄色に淡い青を滲ませており、その視線は女の子へと注がれている。どこか親しみの籠った輝きなのは勘違い、だろうか。
そんな彼――突然現れた男性は呆れたように軽くため息をつく。
「そんなに笑ってしまわれては『迷い子』が可哀想ですよ。それに、彼らがそう反応するのはいつもの事でしょうに。つい一ヶ月前にも同じように大笑いされていたのをお忘れなのですか?」
男性とは思えない綺麗な声で紡ぎ出される言葉はよく分からない。きっと座っている彼女に語りかけたのだろう。「そう反応する」というのはさっきまでの自分の挙動不審な行動か、それとも吃った言動か。
あまりにも異質で、意味のわからない事が起きすぎて、限界を迎えたアルーシャはへなへなと座り込んでしまった。
その男性はやっと気が付きましたとばかりにこちらに顔を向け、手を差し伸べる。
「さあ、『迷い子』のレディー。おもてなし致しますのでお手をどうぞ。」
ただ意味もわからないまま促されるがままに、導かれるように、アルーシャは彼の手を握りしめた。