無神論者の夢
そこは真っ白な空間だった。
ジェリック・マイヤー二等兵は、自分が金属でも木製でもない真っ白な地面に大の字に寝転がっていることに気がついた。首を何度か振り、頭をはっきりさせる。上体を起こして辺りを見ると、空も地面もただ白く、地平線だけがその境界と分るほどに、何もない空間にいた。
「気がついたかね」
老人独特の、落ち着いて、それでいて皺枯れているがはっきりとした声が、若者の後ろから聞こえた。振り返るとそこには長い白髪に純白のローブのみをまとった、皺だらけの老人が立っていた。
「ここはどこだ。あんたは誰だ」
ジェリックはゆっくりと立ち上がりながら質問した。
「私は神で、ここは私のいる場所だ」
老人は微笑みながらゆっくりと答えた。
「って、ことは俺は死んだのか」
ジェリックは自分の姿を確認した。短く刈り上げた金髪に土埃にまみれた軍服。意識を失う前と同じだ。戦場で受けた左腹の傷は治っていなかったが、不思議と痛みはなかった。汗と泥で汚れた服からも不快さは感じられなかった。
「おぬしは無神論者だったな。どうじゃ、実際に神にあった感想は」
「お前さんが神だったら、おれはジーザスだ」
「お前さんは、彼ほど苦労はしてないぞ」
目の前の老人はテーブルに着くように勧めた。横を見ると、いつの間にか白いテーブルと椅子が二脚、もとから置かれていたかのように、そこにあった。
「で、神様が俺なんかに何の用だい」
「おぬしと話がしたくて呼んだんじゃ。まあ、座りなさい。何か飲むかね」
若者は言われるがままに腰を下ろした。すると目の前に白い陶磁器でできているであろうティーセットが姿を現した。老人にコーヒーが飲みたいというと、あんなものは苦くて飲めたもんじゃないとぶつくさ文句をいい、ティーポットから湯気を立たせた紅茶を若者の前にあるカップに注ぎはじめた。
「話ってなんだい。これでも忙しい身でね。敵はもう防衛線を突破してきている。ここで俺がのんきにティータイムを過ごしている内に、やつらこっちの発電所を爆破しようとキスカ片手に突っ込んでくるんだ。それとも、死んじまった俺にはもうどうしようもないってことか」
「まあ、いいから飲みなさい。冷めると味が落ちるぞ」
ミルクを入れ終えた老人は、ゆっくりと自分のカップを持ち上げ口をつけた。
「うむ、我ながら見事じゃ」
「俺はあんたに付き合ってお茶を飲む暇はないんだ!」
ジェリックは怒鳴って立ち上がった。だが、ここがどこで、どうやって戻るかもわからず憮然として老人を睨みつけることしかできなかった。
「少しは落ち着いたらどうじゃ。心配せんでも元いた場所にちゃんと戻してやる。それよりもせっかく神と話す機会を得たのじゃ。色々聞きたいことがあるのではないか」
老人の落ち着いた態度に、ジェリックも少し落ち着きを取り戻した。席に着きなおし、紅茶をすすると、懐かしい、母親の好きだったダージリンの香りがした。
*
「あんたが神様だって証拠はあるのか」
目の前の老人は、姿こそモノのそれで、貫禄もあるがそれで神と決め付けるにはいささか難があるように若者には思えた。
「さて、どうすればお前さんは納得するのかな」
「神なら全知全能だろ。俺を納得させる方法だって知ってるし、できるはずだ。なんなら神の力で俺があんたを神だと思うようにすればいいだろ」
「わしは人の心を勝手に変えるような真似はせんよ」
「じゃあ、俺の曾ばあさんでも出してみろ。とっくに死んじまったがな。もし天国にいるならここに連れてきてみな」
「よかろう」
老人は人差し指をぴんと立てた。すると若者の後ろで人の動く気配がした。驚いて振り返ると、そこには老婆が一人立っていた。来ているものは時代を感じさせ、いかにも老婆のそれであった。老眼鏡をかけ、肩に黒いレースの肩掛けをかけた老婆は驚いた様子でジェリックを見ていた。
「あなたは誰なの。ここはどこ」
老婆は困惑気味にジェリックに訊ねてきた。ジェリックも驚いた。曾祖母に会ったことはないが、写真で見たことはある。だが、まだそれほど年をとる前のもので、似ているとも似ていないとも目の前に立つ老婆を判断はできなかった。
「ミセス・メアリー、あなたは死んだのです。そして今目の前にいるのは貴女の曾孫のジェリック・マイヤー君です。彼があなたに会いたいというので、こうして貴女をここに呼びました。そして私は神です」
後ろから老人が説明する。老婆は突然のことらしく、驚いて声も出ないようだった。
「でも、私、ミリックの家に行くためにガウンを取ろうとしてたのよ。そしたら急に大きな音がして」
「ガス爆発ですよ、ミセス。貴女の住んでいたアパートの2階は貴女と一緒に爆発して、もう残っていません。お気に入りのラジオも残念ながら一緒に無くなってしまいました」
老人は沈痛な面持ちでメアリーに告げた。老婆はそれでもなお、あたふたと何か言っていたが、若者の耳には聞こえていなかった。
「もういいから、俺のばあさんを天国に送ってくれ!」
とうとうジェリックはいたたまれず、そう大声で怒鳴った。
「そうか、もういいのか。それではミセス・メアリー、そろそろお別れです」
老人がパチンと指を鳴らすと、そこにはもう誰も立ってはいなかった。
「おい、お前が神であろうとなかろうと、こんなこと許されるもんじゃないぞ」
ジェリックはすごんで目の前に座る老人をにらんだ。
「そんなに怒ることはあるまい。お前さんが呼べというから呼んだだけだ」
確かにその通りなので、ジェリックは押し黙った。老人は動じず、二杯目のミルクティーに取り掛かり始めた。
「なあ、俺のばあさんは天国に行ってたんじゃないのか。死んだ直後に突然ここに来たように見えたが」
「それはそうじゃ。天国など無いからの」
当然のように目の前の老人は答えた。
「じゃあ、人間は死んだらどうなるんだ。全員地獄行きなのか」
「そんなことはない。お前さんが考えているように、人間は死んだらそれで終わりじゃ。人間だけじゃない。生きとし生けるものは全て、生の終わりこそあれ、その続きはない。体は残るが死んでしまってはなにも考えることも感じることもできんからの。お前さんの曾祖母も死んだ跡の記憶が無いのは当然じゃ。いまのいままで何も感じもせず、存在すらしていなかったのだから」
それで、あんなに困惑していたのか。ジェリックは合点がいった。
「じゃあ、死んだあと、いい人間は天国に行き、悪い人間は地獄に行くってのは嘘か」
「わしはそんなこと一度も言った事はないんじゃが、世間一般ではそういわれているみたいじゃの」
「訂正すればいいだろ。天国行きは真っ赤な嘘です、と」
「天国は希望じゃ。赤ん坊からオシャブリを取り上げるような真似は、わしはせんよ」
釈然としないままジェリックは押し黙った。
「ぬう、また黙ってしまいおって。せっかくこうして呼んだのだから、少しは気を使って楽しい会話をしようという努力ぐらいせんか。おぬしは昔からそうやって、初対面の人間には人見知りする性質だったがの。ハイスクール時代だって、キャシーと教室で二人っきりになった時にもう少し楽しい会話ができていれば、その後アランに持っていかれることもなかったろうに」
高校時代の憧れのマドンナの話に、しかし若者は乗ってこなかった。
「なにをそんなに怒っているのじゃ。ずっとそうやって黙って時間を無駄にする気か」
「時間だろうがなんだろうが、神様なら関係ないだろ」
「確かにそうじゃな」
老人は笑ってカップを口に運んだ。
「じゃあ聞くが、なんで俺を呼んだんだ」
「おっと、その前に。おぬしはわしを神だと認めたか」
「いいや。あんたが胡散臭くいけ好かないジジィだとは認めてやるが、それ以上じゃない。不思議な力があったとして、それが神の条件か。そんなことはない。悪魔だってできるだろうが」
「悪魔とな。悪魔とわしを一緒にするとは心外じゃの。じゃが、残念なことを言うと悪魔など存在せんよ。それを作り出したのは人間の心じゃ」
老人の言葉に、若者は呆れ顔で答えた。
「天国も悪魔もなしか。じゃあ、救世主のジーザスも無しってことか」
「あれは実在の人物じゃ。まあ、奇跡などはなかったがな。革新的なラビじゃった。それに、弁の立つ男での。志もよかったが、食い物の好き嫌いが多かった」
「その言葉を聴いたら、世界中の神父にぶち殺されるぞ」
「おぬしのそういう所が大好きじゃ」
老人は笑って、若者のカップに二杯目の紅茶を注いだ。
*
「天国もジーザスも眉唾ってことは、聖書に書かれていることは大嘘ってことか」
あらためてジェリックは聞いてみた。にこやかな老人に段々と親しみがわいてきた。
「嘘というわけではないが、所詮人間の書いたものじゃからの。コピー機も無いのに昔の話を同じように伝えようとするのには、やはり無理があったようじゃ」
「モーゼも嘘なのか」
「海が干ばつで道のようになったことはあったが、そこを通った奴隷もいないし、わしも石版を雷で彫ったことはない」
「じゃあ、アダムとイブは」
「それっぽい猿ならいたのう。林檎も食べてたようじゃ。話せる蛇はいなんだ」
「じゃあ、あんたはいったいなんなんだ。この世界に何をしたんだ。神は人間を見守っているんじゃないのか」
「難しい質問じゃの。確かに見守ってはいる」
「見てるだけだろ」
「そうとも言う」
ジェリックは頭を抱えた。とんだ神様だ。これまで神を信じてはいなかった。積極的に神を信じる者をなじったこともある。だが、目の前の老人は自分より明らかに性質が悪い。
「そんなあんたを何億という人間が敬い、毎日祈りを捧げているんだぜ。それについてどう思う」
「非常に興味深く思っておる。人間は神の姿をあれこれ想像し、あるものは巨大な蛇だ、あるものは太陽だなどと考えている。神が複数いる多神教という考えを持つ人間もいる。じゃが、わしは一人だし、蛇でも太陽でもない。実に興味深い。わしは本来姿かたちなどないんじゃ」
「じゃあ、なんで老人の姿をしてるんだ」
「お前さんの前に8歳の夢見がちな少女が現れたとしたら神と信じるか。しゃべる亀だったらどうじゃ。かといって光り輝くその光そのものが声も出さずにおぬしの頭に直接意識を伝えたら、それではこうやってお茶を飲みながら話すことはできんじゃろ」
そうだろと言いたげに老人は二等兵を見た。ジェリックもその言葉には同意した。確かに、目の前にプレイボーイに載るような美女がいたとしたら、女神かもしれないが神とは思えないだろう。
「まあ、そう落ち込むな。現実とは一見つらいものに思えるが、しかし克服してこそ真の安らぎが得られるというものじゃ」
「しった風な口をきくな。それにな、人間の信じる神は人間を守り導く存在だ。たとえ全知全能だろうが人間を助けない神を人間は神と認めない。ただ力のある存在としては認識するだろうがな」
「そうか、そうかもしれんな。じゃがの、人間の祖先を作ったという話は本当じゃよ。アダムとイブではないが、とある猿に他とはちょっと違う考えをさせるようにしたりはした。それ以前にもちょくちょくその種の中で特定のものを、他のものより若干賢くしたり強くしたりしてきはしたのじゃ。そういう介入はここしばらくずっとやっておる」
老人はしれっとした口調で言った。
「どうして」
「わしは寂しがり屋での。誰かとこうして話していたいのじゃ。だからより賢いものの登場を待っておる。人間は進化のスピードが速い。あと一万年もすればきっと の方程式にもたどり着くじゃろう」
老人の言った言葉はジェリックには理解できなかった。
「あんたの暇つぶしに付き合う気にはなれそうにない。俺をもといた場所に戻してくれ」
「なんじゃ、もう行くのか。他に何か聞きたいことでもないか」
老人は残念そうに若者を見た。ジェリックはしばらく考えてからこう切り出した。
「そうだな、全知全能って自分で言う奴がいたとしたら一度聞いてみたい事があった」
「ほお、おぬしはわしを神とは認めてくれなんだが、それでも全知全能ではある事は認めてくれたようじゃの。よかろう、なんでも聞いてくれ」
老人は嬉しそうに顔をほころばせた。
「昔どこかの本で読んだんだがな、全知全能の神は自分の持ち上げられない石を作ることができるのかってやつだ。どうだ、できるか」
ジェリックはしてやったりといった意地悪そうに老人に聞いた。老人は少し困った風な顔をしたが、ジェリックにはそれがあからさまに作った表情だとわかった。暫く考え込んだフリをしてから老人は言った。
「残念じゃがそれに答える訳にはいかん。それこそ『神のみぞ知る』ということじゃ」
意地悪そうなニヤけ顔の老人にジェリックは苦笑した。
「で、いま俺がこの質問をすることすら、あんたは知っていた、と」
「わしはお主のその聡明なところも大好きじゃ」
ジェリックは老人の言う『お主』という言葉が、不思議と人間全体を指しているかのように感じた。親が子供の成長を見守っているような、そんな暖かさに触れた気持ちがした。
ジェリックはゆっくりと右腕を前につき出すと、中指を一本上に立て、こう言った。
「あばよ」
*
気がつくと、ジェリックは野戦病院のベットで寝ていた。隣では、包帯を右足に巻いた黒人兵が寝ていた。左腹の痛みがひどい。ポケットにあったタバコを一本抜いて、火をつけた。国に帰ったら、久しぶりに教会にでもいこうか。
タバコの紫煙を眺めながら、ジェリックは静かに息絶えた。
了
文学のジャンルでいいのだろうか。