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第06話 もう何も

「あなたは……もう何もしないでください」


 星野は上がった息を整えもせずそう告げた。

 その相手はなんと、休日の寝ぼけ眼を擦る日向、その人であった。


「……は?」


 日向は何のことだかわからずに訝し気な表情を星野に向ける。


「ですから、もう……何もしないでください」


「どういうことですか? 何もって? 私何か悪いことしましたか?」


 星野は一瞬表情を歪ませ何かを言いかけたが、その言葉を飲み込み、絞り出すように告げる。


「何もかもです。この社会に関わること、その全てをやめていただきます」


 日向は目の前の金髪碧眼が何を言っているのかわからないまま聞き返す。


「仮にそれを私が受け入れたとして、私はどうなるんですか?」


「どうにもなりません。あなたの生活は私が保証するだけです」


「保証するって、どうやってですか?」


「あなたの衣食住、その他生活に関わる全てについて私が面倒を見るということです」


「いや、やっぱり何を言ってるのかわからないんですが……」


「とにかく! ……あなたはもう何も、もう何もしないで……しなくていいんです……もう何も」


 何かを必死にこらえる星野の顔に、日向は不信感と恐怖を覚えていた。


「……と、言われましても、私には仕事がありまして、ほら、明日も平日ですし」


「仕事も辞めてもらいます。大丈夫、収入が無くても私が生活費を出します。

 私の収入には結構な余裕がありますので」


 実際、星野は声優の仕事が軌道に乗って、若手女性声優屈指の人気者となり、かなり高額な収入を得ていた。


「いやいや、そんな話、乗る人がいると思います? 私だって仕事を辞めて誰かに養ってもらえるならそうしますけど、他人にそんなことをする人いませんよ。

 まして、私はあなたに養ってもらっても返せるものがありません」


「見返りなんて求めていません。あなたを不幸や災厄から守り、そして社会をあなたから守るためです」


「社会を? ……あー、以前のあの……いや、あれは偶然でしょう。あなたは大袈裟に考えすぎですよ。

 人間一人が社会に及ぼせる影響なんてたかが知れてます。まして私のような何の取り柄もない人間が。

 あと、何で私を守るんですか?」


「そんなこと、どうでもいいでしょう! あなたが今までしてきたことと、社会現象に何の因果関係もないとわかるまでは、私が責任を持つだけです」


「責任? なんであなたが責任を? いやもうさっきから何言ってるか全然わからないんですが。

 大体、因果関係が無いことなんてどうやっても証明できませんよ。それは悪魔の証明ってやつです。

 そんなに私が憎いんですか? いい加減、私だって怒りますよ」


「……ところでそのメガネ、無くても日常生活には支障ないんですよね」


「急に何ですか? そうですけど何か? これは仕事をするために必要なんです!

 情報処理というのは膨大なデータを扱うんです……」


「じゃあ、それはもうあなたに必要ないですね」


 星野は日向の話が終わらないうちに口を挟み、日向の顔からメガネを取り上げた。


「なにするんですか! 返せ! この、妖怪メガネトリオンナ!」


 その時星野は明らかに感情を露にした。


「っ……! なんでそんなことだけ覚えてるんですか!? 私のことは……忘れた癖に!」


「何を、言ってるんですか? 私には……全然わかりません……あれ……? なに……これ?」


 日向の目から一筋の涙がこぼれ落ち、ポタリと地面に落ちた。

 彼女はその理由がわからず、激しく困惑する。


「あの……これって…どういう……」


「あなたは最近、単語とその意味を入力する仕事をしていませんでしたか?」


 星野が唐突に尋ねる。その表情は冷静な口調とは裏腹であった。


「……あ、そうですけど……ちょっと、待ってください……え、何これ……」


 日向の訴えを聴くことなく星野は続ける。


「その仕事の中で、その、『メガネトリオンナ』という単語を入力しましたね」


 日向は涙を流し続け何も答えられない。星野は更に続ける。


「その他にも、『カホゴウーマン』、『ウェルダンなおせっかい』その他もろもろ……これらが何を意味するかもわかっているんですよね。

 ……だって、あなたが……私のことを表現するために創った言葉なんですから」


「……あ、え? まさか、いや……私、そんな……」


「そして、あなたが入力した他の言葉たち、『ヘイトのアウトソーシング』、『正論のユニクロ化』、『NO品質納品』、『無ジムバッジ管理職』、『逃げ遅れ精鋭部隊』、『もったいないオマケ』、『常連化キャンセラー』、『セルフダイエット食品』、『レジ前セーブ小銭厳選勢』、『人生RTA勢』、『これ以上は増えるまい棒』、『俺紀元懐古厨』、『無制服主義者マトワナーキスト』、『みなごろしのバラード』、『重歩行者』、『中家電製品』、『逆ログインボーナス』……それは、この社会の不条理を表現するために創られた言葉。

 その身を襲う理不尽から自分を守るための悲観的な言葉。そう、それは思いがけない形で私の前に現れた……」


「なぜ……それを? どうして?」


「わからなくていいんです。あなたはもう、もう何もしなくていいんですから……」


 日向の記憶の扉が開き、そこから溢れてくる何かが彼女の感情を激しく揺さぶる。


「……私の……延命装置……」


「なんですか……? それは」


「私が、心の中で……あなたを……星野さんを…………ミオリをそう呼んでたの……」


 日向がそう言いながら顔を上げると、低下した視力と涙で滲んだ視界に懐かしさを覚える顔があった。

 しかし、それは込み上げる想いを必死にこらえている顔であった。


「ぐっ……あああああ!」


 目を固く閉じ下を向き、喉の奥から絞り出すように声を上げる星野。

 日向はそれを、たじろぎながら目を丸くして見ているしかなかった。


「あなたは! 私が居なくなっても平気だった癖に! よくもそんなことを! ああああああああ!!」


 今まで蓋をしていた心からとめどなく溢れ出す感情を震えながら日向にぶつける星野。


「……ミ……ミオリ……ごめん……私、忘れてた……」


「私だって……忘れたかった!」


 そう言うと星野は、日向の顔を自分の胸にうずめるように強く抱きしめた。

 暖かい春の雨のような雫が日向に降り注ぐ。その雫は日向の心を潤すように染みわたっていった。


「ミオリ……ごめん……許してなんて言えないよね……」


「……」


 その後、ふたりは一言も交わすことなく無言のまま夕食を摂り、同じ部屋で眠った。

 次の日の朝の光が、昨日のことが夢ではなかったのだと日向に教える。


「おはよう」


「おはようございます」


 目を覚ましたふたりは朝食を共にする。

 日向が起きるまでの間に星野が用意した朝食だ。

 時間はすっかり出勤時間を超えていたが、昨日の出来事の衝撃により、日向はそのことに気付いていない。

 そして彼女は沈黙を破る。


「昨日のことなんだけどさ……本当?」


「……本当です」


「本気なの?」


「……本気です」


「信じられない」


「……そうですか」


 すると星野はスマートフォンを取り出し、おもむろにいずこかへと電話を掛ける。


「星野です、お世話になっております。

 ……はい、先程ご連絡した件です。

 ……はい、開始していただければと……お願いします。

 ……はい、それではよろしくお願いします」


 星野が電話を切ると、何が起こっているか理解できない日向が訪ねる。


「何? どこに電話したの?」


「退職代行業者です」


「え? 何それ?」


「言ったでしょう。 仕事は辞めて貰いますと」


「私の? 何で? 勝手に? いや、そんなことできないでしょう」


「できます。なにせ退職代行も振興会で運営しているので」


「えー……」


 淡々と食事を摂る星野に、日向は唖然とする。


「……ごちそうさまでした。さて、私は仕事に行って来ます。

 日向さん、あなたは今日は外出しないでください。まあ、外出しても何もできませんけどね」


「……?」


 首を傾げる日向に星野は平然と答える。


「財布、カード類は全て私が預かっています。電話などの連絡手段も全て断ちました。

 メールアドレスも凍結してあります。あなたの身分を証明する物も全て没収しました」


「な……なんで」


「言いましたよね。何もしないでくださいって」


 星野はそう言いながらにっこりと微笑んだ。


「では行って来ます。くれぐれも、外出はしないように。

 あ、お昼ごはんは冷蔵庫にありますので、チンして食べてくださいね。

 説明は帰ってきてからします」


「はい……行ってらっしゃい。って、私の家に住むの?」


「通うだけですよ」


「火曜だけ?」


「時間があればいつでも。では、大人しくしててくださいね。大人なんですから」


 星野はそう言い残すと扉を閉じた。


「……とは言っても、ちょっと外に出るくらいは……」


 日向は星野の足音が消えると、玄関のドアノブに手をかける。


「え、なんで? 外から固定されてる?」


 回らないドアノブを諦めてよく見回してみると、窓も全て固定されている。

 外出を控えるどころか、外出する権利すら奪われていたのだ。


「そうか……それでも、ここからなら外の世界に繋げることができるよね」


 日向はPCの電源を入れ、インターネットブラウザを開いた。


「見られる見られる、これなら……」


 しかし、SNS、メールなどの通信は全て遮断するように設定されている。

 これらは全て、日向が寝ている間に星野が施したものだった。


「……こりゃあ、クリーンインストールか……」


 しかしネットが見られる状態なら暇潰しには困らないため、彼女にクリーンインストールするような気は起らなかった。

 日向は言われたとおりに昼食を摂り、星野の帰りを待つ。日も暮れた頃、何の前触れもなく扉が開いた。


「お邪魔します」


「いや、チャイムとかノックとか……遠慮とか」


「はぁ……じゃあ、『ただいま』で良かったですね。次からそうします」


 前日からの星野の言動に、日向はすっかり翻弄されていた。


「大人しくしてたみたいですね。すぐにお夕飯の支度をします」


「大人しくって、何もできなかったんですけどぉ……」


 日向のぼやきを気にかけずに我が物顔でキッチンを使用する星野。

 ほどなくして夕飯ができあがり、食卓に暖かい料理が並ぶ。

 腹を空かせていた日向は、無言で箸を持ち、その料理に手を付ける。


「いただきますは?」


 急に険しい顔をした星野が日向をたしなめる。


「……いただきます」


「はい、では私も……いただきます」


 ふたりはその後、無言のまま夕食を食べ終えた。


「ごちそうさまでした」


「……ごちそうさま……でした」


 すると星野は当然のように食器を洗い始め、日向に背を向けたまま口を開く。


「さて、どこから話しましょうか」


「はーい、あの」


「なんですか?」


「なんでミオリはずっとですます調なのかなーって……ほら、もう思い出したんだし……」


 星野は無言のまま振り返り、日向を睨みつけた。


「あ、はい、わかりました……すみません」


「……まあ、これからあなたの生活は全て私が面倒を見ます。それだけです」


「いやー、たまには外出したいなーって……」


「そうですね。

 外出できなければ健康な生活もできませんし、許可します。

 あと、諸々の通信機器、カード、身分証明書もお返しします。PCの制限も解除します。

 すみません、準備をするまでの間にあなたが何か起こさないかと不安になったもので。これからはある程度の自由は保証します。

 ……その代わり、できる限りあなたを監視させてもらいます。また余計なことをされると面倒ですから」


「余計なことって……そんな……それに、何で私は監視されなければいけないの?」


「まぁ、全ては社会幸福のためですよ。

 あれだけのことをした責任はとってもらいます。

 あなた一人の犠牲なら安いものです」


 日向は、目をそらし遠くを見つめながらそう答える星野に反論することができなかった。

 社会を混乱させている自覚はないので、その責任は感じていなかったが、星野を忘れていたということが彼女の心を重く支配していたのだ。

 かくして、その日から日向の生活は星野に管理されることとなった。


「またお菓子ばっかり買って」


 決済情報はリアルタイムで星野に通知されるようになり――


「ゲームばっかりしてないで運動しないと、ちょっと増えてますよ」


 身体情報、体調は常に把握され――


「またこんないかがわしいサイト見て……いくら我慢できないからって……」


 通信の履歴は全て監視された。

 ついには部屋に監視カメラが設置され、日向の自由は大きく制限された。

 もっとも、元々引きこもり体質であった日向にとってそれは、監視されていることを気にしなければ何不自由ないものであった。

 買い物も通販サイトを使って部屋に届くのを待つだけであった。


「昔この会社のサイト作ってたんだよなー。

 あれはミオリと再会した頃か……私は覚えてなかったけど……何で覚えてなかったんだろう。

 しかしあのちっぽけなお茶屋さんのサイトが今や巨大通販サイトに成長するとは、感慨深いものがあるね……ん? 新機能?」


 株式会社 月葉げつようの運営する通販サイト、抹茶味まっちゃあじは規模を急激に拡大して「Matcharge」(マッチャージ)へと改名し、国を超えジャンルを問わず商品を扱うようになっていた。

 その通販サイトにこの度実装されたのは会員を評価する機能であった。

 日向が何気なくつけたTVのニュースでも、社長をゲストに迎え、その機能が大々的に取り上げられていた。


「本日はMatchargeを運営する株式会社 月葉の社長、葉月はづき 真玄まくろさんにお越し頂きました」


「株式会社 月葉の社長をしております、葉月真玄です。

 皆さま、いつもご利用ありがとうございます。あ、本日はよろしくお願いします」


「よろしくおねがいします。

 さて、早速ですが、この度話題を呼んでいるMatchargeの新機能について、ご説明をお願いします」


「はい、その機能は『Qスコア』(きゅーすこあ)と言いまして、急須とスコアのダジャレなのですが……

 会員である『Tcharger』(チャージャー)の皆さまのクオリティ……と言うとちょっとおこがましいのですが、器を数値化する機能となります」


「Matchargeさんでは今までも『Tchash』(チャッシュ)という会員にポイントを付与する機能がありましたが、それとの違いは?」


「はい、Tchashはお金の代わりに利用できるポイントのことで、流通している通貨と大体同じような価値になっていますが、Qスコアはユーザーの方のランクのようなもので、1~1024の中で設定されます」


「Tchashはお金の代わりになるとのことですが、Qスコアはどのようにして使うのでしょうか?」


「スコアが高ければ高いほど、商品の割引率が上がり、分割払いの金利が安くなります。

 それ以外にも便利な特典をご用意しております。お客様ご優待のための機能と言えるでしょう」


「なるほど、そのスコアはどのようにして決まるのでしょうか?」


「お客様には会員になっていただく際に個人情報を入力していただくのですが、利用目的を明示して同意頂いた方にはより詳細な情報を入力して頂くこととなります。

 学歴、ご職業、お勤めの会社、年収、家族構成、SNSのアカウントなど、その頂いた情報といくつかの質問への回答をもとにスコアを決定します。

 勿論、情報を更新していただくことや、Matchargeのご利用状況で、ランクが上下することもあります」


「質問ですか、となると、虚偽の情報が入力されることもあるのでは?」


「それについては、我が社が最近開発したAI、いわゆる人工知能によって情報の真偽を判断しています。

 虚偽であった場合、スコアが大きく下がることになりますね。

 AIはネット上のあらゆる情報を学習し、常に公正な判断ができるように調整されています。実はスコアを算出するのもこのAIが行っているのです。

 我々はこのAIに『モルフォ』という愛称を付けました。

 モルフォはブラジルに生息する美しい蝶の名前ですね。私は昆虫が好きなのでそうしました」


「なるほど、そんなところにも人工知能の技術が利用されているとは、驚きですね」


「人工知能はまだまだ発展途上の分野ですが、人間よりは公正で無難な判断ができると、そう断言できるだけの性能を既に持っています。

 勿論我々は今後も常に研究を続け、モルフォを成長させ、お客様のお役に立てるよう、努めて行く所存です」


「ありがとうございます。

 最後に、Matchargeの今後の展望を語っていただけますでしょうか」


「はい、今後の目標は荷物運搬用のドローンを開発することですね。

 操縦するための人工知能も開発を進めておりますし、幸い我が社にはプロペラの開発に一日の長がありますので、それを活かせればと思います」


「して、その狙いは?」


「それは、現在各所で起きている、運送会社関連の社会問題を解決することにあります。

 運送会社の職員の方々は、決して通りやすいだけではない道路で事故のリスクを抱えながら、素早く荷物を目的地に届けなければならないという、とても難しい仕事をなさっています。

 そういった方々の代わりを空を飛ぶ機械が担うことになれば、交通問題、労働問題は解消されると、そう考えております」


「なるほど、しかしそれは運送会社の職員の職を奪うことにもなると思われますが、そちらについてはどうお考えになりますか?」


「そういった方々を私の会社で採用して、安全な環境で更なる社会貢献に努めていただけるよう、努力する次第であります。

 定型化できる仕事については機械に肩代わりしてもらい、人類はその頭脳をフルに活用して行ける社会こそが、理想的な未来像なのではないでしょうか。

 これら全ては人類社会が更なる発展を遂げるために必要なことであると、そう考えております」


「いやー、さすが、そこまでお考えになっているとは、頭が下がりますね」


 このように、ニュース番組を宣伝に利用できるのも、急成長したMatchargeが数多くの番組のスポンサーを担当しているからであった。

 日向はこの提灯持ちのようなニュース番組に呆れながらも、自分のQスコアに興味が湧いてきた。


「よし、入力してみるか。

 もともと私の個人情報は他人であるミオリに管理されてるんだし、気にしたら負けだよね。

 学歴は……一応大卒。

 職業は……無職。

 会社は……辞めさせられた。

 年収は……ゼロだけどミオリのカードが使える。

 家族は……居るけど疎遠。

 SNSは……止めさせられた……」


 次々と質問に答えて行く日向。

 不甲斐ない自分の答えに不安を覚え始めた頃、結果が表示された。


「3点……? 1024点中3点!?」


 そう、Qスコアは社会におけるその人の価値を示す指標のようなものであり、社会から隔絶された日向のスコアが著しく低いのは当然のことであった。


「人工知能って正直だなぁ……少しは気を遣ってくれてもいいんじゃないかな……」


 その後、星野に生活を管理され続けて数ヶ月、日向のQスコアは上がることはなく、しまいには2点になってしまう。

 そして時は流れ、季節は冬を迎えた。


「行ってらっしゃーい」


 いつものように星野を見送る日向。

 すっかり同棲と化したこの生活にもすっかり馴染んでいた。

 と言うより、会社勤務のストレスから解放され、監視されているとはいえ自由を手に入れた日向は、今の生活に満足していた。

 対する星野は、振興会の慈善活動、声優、日向の世話と毎日を忙しく過ごしていた。

 しかし、星野自身はその状況に疲れを見せながらも幸福を感じており、以前にも増して精力的になっていた。

 そんなふたりのギャップが日向に負い目を感じさせていることを星野は知る由もなかった。


「ミオリ、最近疲れてるみたいだなぁ……この寒さで喉の調子も悪いみたいだし、声優の仕事に支障が出たりしなければいいけど……」


 日向がふとカレンダーを見ると、星野の誕生日が迫っていることに気付く。

 そして、大多数の人がそう思うように、日向も星野に何かプレゼントしようと思い立つ。


「ミオリに何かプレゼントしたいなぁ……でも、決済情報は全部管理されてるから、何か買ったら気付かれちゃうよなぁ……それじゃ面白くない」


 日向は外出用に星野に買ってもらったコートを着込み、玄関を出た。

 部屋の温度に守られていた文字通り温室育ちの日向に、非常に厳しい寒さが襲う。

 しかし、星野にプレゼントを渡すためにそれは必要なことであった。


「うう、さむっ……でも、お店で現金を使えば……足がつかずにプレゼントを買うことができる……って、あれ?」


 持ち出した財布には一銭も入っていなかった。

 それもそのはず、ここのところ買い物は全てMatchargeでのカード決済に頼り切っていたため、現金を持つ必要がなかったのだ。


「まいったなぁ……意気込んで出てきたはいいけど、現金がないんじゃ……どうしよう……

 そうだ! 自販機の下とか、探せばあるでしょ。

 となるとプレゼントの価格が限られるけど……喉を悪くしないようにのど飴でいいかな……はは……」


 などと弱気になるが、いざ出かけてみると、近所の自販機の下に小銭などが落ちていることは無かった。

 日向はその足を徐々に進め、駅前の繁華街で自販機の下を漁るが、やはりめぼしい物はない。

 健康的な生活を送っているが故に妙に肌艶が良く、質の良いコートを着た女性である彼女が数々の自販機の下を覗き込む姿は、街行く人々に奇妙な感覚を与えた。

 そうして違和感をまき散らすうちに、日向は数駅分の距離を歩いていた。


「はぁ……はぁ……ここまでで集まったのはたったの15円……5円ってなんだよ……自販機で使えないのになんで自販機の下に落ちてるんだよ……」


 そうして日向は家から何駅離れてるかわからない駅前のベンチに腰を掛けた。

 空を見ると日は暮れかけており、彼女は自分が一日中自販機の下を覗いて周っていたということに愕然としていた。

 すると――


「大丈夫ですか……? って、ヒカゲ? お前、ヒカゲじゃないか!」


「あ、え? あっ! ああーっ! さ、坂上さん!? なんでここに!?」


 声を掛けてきたのは日向が勤めていた会社の上司、坂上であった。


「なんではこっちが聞きたいよ! あそこ、うちの会社だぞ?」


「え……見覚えがあると思ったら……と、いうことは、5駅分も歩いたってこと……?」


「何言ってんだお前? ……しかし、急に退職代行を使って辞めやがって……心配したんだぞ。

 まぁ、元気そうで良かったよ」


「あー、それには深い訳がありまして……話せば長く……」


「って、あんま元気じゃないか……はは……いやしかし、もう会わないかと思ってたんだがな。

 人には色々事情があるから、詮索はしないが、挨拶くらいよこして欲しかったな」


 日向はとてもバツが悪そうに頭を掻きながら答える。


「いや、ホント申し訳ありません。そう、色々事情があったんです……私にはどうにもできない事情が……」


「それで、今日はどうしたんだ? 戻ってくる気になったのか?」


「いえ、そういう訳じゃないんですが、ちょっと用事があって歩いてて気付いたらここに居ました」


「歩いて? 虚弱体質のお前がこの寒空の下を? 冗談はやめてくれよ」


「いえ、本当なんです。でも、いやはや自分でもどうしてこんなことになったのか……」


「てかお前、もうくたくたじゃないか。こっから帰れるのか?」


 日向はここからまた歩くことを考え青ざめる。


「いえ、絶対に無理です!」


「じゃあ、電車で帰るのか。まあそうだよな」


「いえ、電車に乗るお金がありません……」


「マジか……お前どうしてそんなことになってるんだよ」


「私にもわかりません……私はこれからどうすれば……」


「ったく、しょーがねえな」


 上司は上着のポケットから財布を取り出すと、その中から500円玉を差し出した。


「これで帰れるだろ? 風邪引くんじゃねえぞ」


「え? 貸していただけるんですか」


「貸す? お前に収入があればな」


「収入? ……ありません」


「じゃあどうやって生活してるんだよ……」


「それは……事情があって、とにかく大丈夫です」


「お前、そればっかりだな……まあいいよ、それは無期限で貸しておいてやる」


「いいんですか?」


「ここで何もしなかったら俺は人でなしになっちまうからな」


「あ、ありがとうございます。このご恩は必ずお返しします」


「おう、わかった。楽しみにしてるよ」


「では、私はこれで」


「ああ、元気でな。たまには連絡よこせよ」


「あ、はい。本当にありがとうございます」


 そうして2人は別れ、日向は駅に向かった。

 言われるがままに帰ってしまったが、何かやり残したことがあるように感じる日向。

 モヤモヤを抱えたまま最寄り駅までの切符を買うと、自動販売機から出てきたお釣りを見て思い出す。


「あ、そうだ、このお金があれば……のど飴が……買える!」


 お釣りを握りしめた日向は、駅の売店へ走り、のど飴を買った。

 そしてそれをコートの内ポケットに大事そうにしまい込み、電車に乗って最寄り駅まで移動する。

 日向が最寄り駅に着いた頃、空はすっかり真っ暗になっていた。


「久々にあんなに歩いたなあ……いやぁもうこんなの懲り懲りだわ……」


 そんな独り言を呟きながら改札を出る日向。すると、急に後ろから肩を叩かれる。


「え、ミオリ? ……じゃない……ど、どなたですか?」


 その頃星野は――


「お疲れ様でしたー……ゴホッゴホッ!」


「ミヨちゃん、大丈夫? 最近頑張りすぎてるんじゃない?」


 アニメのアフレコ収録を終え、スタッフに挨拶をしていた。


「あー、いえ、ゴホッ! ……だ、大丈夫です。

 ちょっと冷えちゃいましたかね……今日は家で暖かくしてゆっくり寝ます」


「そうだね。それに今ミヨちゃんが休むようなことになったら、いくつの番組が飛ぶか……代役探すのも大変だしね」


「そんな縁起でもないこと、言わないでくださいよ。大丈夫です! 私、鍛えてますから!」


「ははは、まあ今日はゆっくり休んでよ。また来週!」


「それではまたー」


 星野は急いで表に出る。


「ゴホッ! ゴホゴホッ!」


 真っ暗な寒空の下、体を包み込む空気の冷たさに震え上がる星野。


「はぁ……はぁ……遅くなっちゃった……ミカネ、大丈夫かな……お腹すかせてないかな……急がなきゃ……ゴホゴホッ!」


 しかし、近頃多忙を極めていたせいか、星野の身体は思うように動いてくれない。

 少し歩くとすぐに息が上がり、意識が朦朧とする。


「今までこんなこと……なかったのに……だって、私は……人々の幸せのために……活動してるんだもの……休むわけには……いかないんだもの……

 私が居なくなったら……振興会のみんなは……どう思うのかな……また会長AIの出番かな……はは……でも……私は……私が居なくなったら……ミカネが……

 ねえ……ミカネ……私のしてることはミカネのため……ミカネの幸せのためになっているのかな? ねえ……教えてよ……ミカネ……ゴホゴホッ!」


 星野は帰路を急ぐがその道のりは果てしなく遠く感じられた。

 日向が待っているからという、その想いだけが星野の身体を、足を動かしていた。

 そしてその口はうわ言のようにひとりの名前を呟き続ける。


「ミカネ……今までごめんね……ひとりにしちゃって……辛い想いをさせて……ごめんね……ミカネ……私は……ミカネが……あなたが居れば……もう……何も……」


 音も無く降り始めたその年の初雪は、横たわる星野の身体を薄っすらと包み込んでいった。

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