第36話 なんのために生まれて、なにをして生きるのか
私は何をしていたんだろう。
何に固執していたんだろう。
何に執着していたんだろう。
空からは私の体温を徐々に奪って行く雨。
しかし、動くことはできない。
この星の重力に縛り付けられているように感じる。
目の前には……そう、この子を守るために私は……今まで生きてきたはずなんだ。
「み……かね……」
私と同様に地面に横たわる彼女は、静かに眠ったまま何も私に言ってくれない。
どれくらいそうしていただろう。
星の瞬きが太陽の光の中に消えて行く。
私と彼女の肌を濡らしていた雨も光の中に消えて行く。
そうだ、彼女は私にとって、この太陽のように眩しかった。
そして、私は――
「……目を覚ましたのね!」
それはどこかで見覚えのある顔だった。
悠季の姉、由乃さん。彼女は私の目覚めを自分のことのように喜んでいる。
白い壁とカーテンに囲まれた部屋で、私は白いシーツと布団に包まれていた。
白い枕から頭を上げ、上体を起こすが、思ったようにバランスが取れない。
「あっ……無理は良くないわよ……自分の名前はわかる?」
「……星野……深織です」
「良かった、記憶に異常はなさそうね」
「ここは……病院ですか?」
「そうよ、大地総合病院。あなたがここに運ばれてから、もう3ヶ月も寝ていたのよ」
遠い昔にも同じようなことがあった気がする。
その日はそのまま現実を把握することもままならず、窓の外が暗くなると共に再び眠りについた。
「……やめて、こんなの……ダメだよ」
声がする。彼女は私に組み敷かれ、仰向けになってベッドに沈んでいた。
そして、情動のまま動く私の指に手を添える。
「いやだ……やめない……海果音が……悪いんだよ」
言葉とは裏腹に彼女は抵抗しなかった。
私はその身体の全てを使って彼女に自分の感情を伝える。
時折見える彼女の顔は紅潮し、何かを堪えてるかのように、目と唇を固く閉じていた。
やがて、その唇は柔らかく甘い吐息を漏らし始める。
「深織……深織……」
「海果音……やっとわかったよ……」
「深織! 深織ってば!」
「海果音……!?」
気付けばまた白い壁に囲まれ、白いベッドに横たわっていた。
焦点の定まらない眼で、目の前に居る人物を捉える。
「……やっと起きたのね、深織」
意識が晴れると、目の前の女性の名前がはっきりと思い出される。
「……珠彩?」
「はーあ、目を覚ましたって言うから見に来てやったって言うのに……どんな夢見てたのよ」
「あ、えっと……」
私は彼女から目を逸らし、自分の鼓動が不自然に高鳴っていることを意識した。
「まあ、そんなことどうでもいいわ」
「珠彩……無事だったんだね」
「ふむ、自分が何をしたかくらいのことはわかっているみたいね」
「……ごめん」
「別に謝って欲しくて来たわけじゃないわよ……
3ヶ月前からタイムスリップしてきたあんたに、現実を叩き込んでやろうって思ってね」
「……そっか」
「体、動く?」
力が上手く入らない。
私の身体は私の脳の命令に対し、サボタージュを決め込んでいるようだった。
「まあ、そりゃそうよね。車椅子でいい? ちょっと外の空気吸いましょうよ」
そして、彼女の手によってやけに厚着をさせられて、私は車椅子に腰を下ろす。
彼女は私の車椅子を押し、廊下を進みエレベーターを経由して、病院の庭園へと進む。
「……綺麗」
庭園の木々や植え込みには、七色のイルミネーションが施されていた。
「今日はクリスマス・イヴだからね。そういえばあんたの誕生日よね?」
「うん……」
「あんたも私も21歳か。結構長い付き合いになるわね」
「そうだね……」
その時の彼女は、今までの4年と半年の間、私に一度も見せたことがない穏やかな顔をしていた。
彼女は私の車椅子を押しながら、静かに言葉を紡いで行く。
「……あれからね、街も少しずつ復興してきたのよ。元通りとはいかないけどね。
まあ、この街の発展も行き詰ってたからね、一度綺麗になってスッキリしたんじゃないかしらね」
「そうなんだ……」
「痛ましい犠牲者も出た。それは忘れちゃいけないけど、それでも私たちは生きて行かなきゃならないからね」
「珠彩は……どうして?」
「ん? ああ、私があんなことで死ぬわけないじゃない」
何気ないことのような彼女の発言が、私の胸を締め付けた。
「まあ、私ももういいかなって思ったわよ。だけどね……ったく、遊び回ってると思ったら……」
彼女はその時の状況を回顧する――
「深織……あんたホントにしょうがないやつね……はーあ……海果音、聴いてる?」
「えっ、何?」
「今まで……ありがとうね」
迫りくる光の中、目を閉じて覚悟を決める彼女。だがその時、彼女の足元の床が抜ける。
そして彼女はしばらく落下したあと、強く逞しい両腕にお姫様のように抱きかかえられたのであった。
「珠彩! 助けに来たぞ!」
それは、黒いマシンセクトの天板の上に乗った彼女の父、葉月真玄であった。
「パパ……って、何勝手に抱いてるのよ! 降ろしてよ!」
駄々っ子のように手足を振り回す21歳の彼女だが、その瞳には涙が浮かぶ。
その時、全てを破壊する光が彼女たちの頭上を通過するが、それは下降し続ける床のはるか上空で遠ざかってゆくだけだった。
「そんなこと言うなよ~。せっかく来てやったのに、つれないなあ……」
そうして、父の腕から解き放たれた彼女は、状況の説明を求める。
「このまま地下シェルターまで降りるんだ。
このエレベーターも、地下シェルターもかなり前に造ったんだが、役に立つ時が来るとはな。
仮設基地をこの上に造っておいて良かったよ」
――そうして、彼女は九死に一生を得たのであった。
「良かった……」
「……良くないわよ。
ったく、この街の地下を無断で穴だらけにしてたっていうんだから、パパも立派な犯罪者よね」
「私も……取り返しのつかないことを……」
「あら、罪の意識があったの? 今更そんなことを後悔しても遅いわよ。
あんたがめちゃくちゃにした街は、あんたの預かり知らないところで再生しようとしているわ。
あんたなんかが責任取れる問題じゃないんだしね」
「……」
「あの後、あの非科学的なマシンの残骸は回収されたけど、
ただの巨大な紙でできた装甲の中に3つの透明な球体と、同じ球体が砕けた欠片があっただけで、
あれがどうやって音を出したのか、宙に浮いていたのか、白い光線を発射したのかはわからずじまい。
結局、あんたがあれを操っていたという証拠も、あんたとあれの物理的な関連性も見出されることはなかったわ」
「でも、あれは確かに私の……」
「ふん、そんなことには誰も興味ないわよ。マリーネの墜落地点に行ったら、あんたのとこの会員たちとあんたが倒れてた。それだけのこと。だからお咎めもなしよ」
「そっか、じゃあ……」
「ん? どうしたのよ、黙り込んで」
「海果音は……どうなったの?」
しかし彼女は私のその問いに答えることはなく、私の目を見つめているだけだった。
「……海果音に……会いたい……ねえお願い、会わせてよ!」
思わず声に力が篭る。しかしその瞬間、彼女を真っ直ぐ見つめる私の左の頬に衝撃が走り、破裂音が響く。
「あんた、自分があの子に何をしたか覚えてないの……?」
遅れてやってくる頬の痺れと、目の前の彼女の右の手の甲が、彼女のその感情を物語っていた。
「あんたが何をしたかったかなんてどうでもいいわ。
それに、ヒトガタが暴走したのもあんたのせいではないかもしれない。
でもね……海果音はある日、あんたと喧嘩して、家には帰りたくないって言ったのよ」
「……」
「それで……えっと……まあ色々あって、あんたに何をされたのか想像がついたわ。
人を傷付けてまで、無理やり自分のものにしようなんて、そんなの許せるわけないじゃない……」
「……ごめん」
「私に謝ったってしょうがないでしょう?
とにかくあんたは、自分が海果音とこの街にしたことを存分に後悔するといいわ」
「うん……」
「……この街の復興はね、パパが田舎の基地で造ってた量産型マシンセクト、『ドローネ』によって支えられてるわ。
今も人間の手によって遠隔操作されている大量のドローネが、この街を修復している。
そのドローネの動作制御システム、いわゆる人工知能は『タイヨウモルフォ』って言ってね、
それは海果音が積み重ねてきた操縦データによって成り立っているの。
海果音の仕事は今、この街を、そしてこの街の人々を助けるために無くてはならないものとなっている。
あの子はあんたがやったことの尻拭いをさせられてるようなものよ」
「そんな、私にできることがあれば……」
「……人が過ちを犯すのはよくあることよ。
あんなことをしたあんたを許したわけじゃないわよ。
でも、それでもあんたも私もみんなも生きて行かなきゃならないの。
だから、それを背負ってこれからどう生きていくか……よく考えることね。
それが今のあんたにできることよ。
……あと、それとね」
彼女の口調は急に哀愁を帯び、数秒の間をおいて続ける。
「マリーネの墜落地点に海果音はいなかった……今も行方不明なのよ」
「どうして……!?」
「その様子だとあんたがやったんじゃないみたいね……そりゃそうよね、あんたも倒れてたくらいだから。
……ともかく、今は捜索中」
「私は……どうすれば……」
「あんたの出る幕なんてないわ。今は自分のその身体を心配することね」
「……」
その時、空から白く柔らかいものがふわふわと落ちてくる。
「雪……」
「そろそろ寒くなってきたわね。
……戻りましょうか」
その日から彼女が病室にやってくることはなかった。
私は2度目の経験となるリハビリをこなし、体力を取り戻して行く。
そして、またいつかのように、夜の病院の屋上に足を運んだ。
「やあ、ひさしぶり」
そこに居たのは悠季だった。しかし、その姿は彼女と初めて会ったその日と同じものであった。
「びっくりしたかい? ボクもキミの光を受け止めた時に消耗してしまったようでね……
お陰で自由に動けるようにはなったけど……人と話せないというのは存外退屈でね。
困っていたところさ」
「……私も、これからどうしたらいいか困ってる」
手すりに寄りかかり、復興を続ける街を見下ろす。
そこに私ができることなど存在するのだろうか。
「キミの力は強すぎる。だからこの街の様相をガラッと変えてしまった」
「私は……やっぱり破壊者だった」
「ふん、ボクが言ったこと、覚えていてくれたんだね。
どうやらボクは、その破壊者に対する抗体のようなものだったらしい」
「私を排除するための存在……?」
「そうさ。紆余曲折あったけど、この街の変化はこの世界が風邪で発熱しているようなもの。
そうやってキミを絶望させ、この世界から退場するように仕向けていたのがボクさ。
表面的にはキミへの手助けをしているように見せかけてね」
「そんな運命を……」
「意思の力を暴走させたキミを、意思の力が暴走した結果生まれたボクが食い止める。
毒を以て毒を制するってことだったんだね。
やっぱりキミはこの世界にとって忌むべき存在だったらしい」
「じゃあ、私がこの世界のためにできることなんてなかったってこと?」
「……そうだな、今キミにできることと言えば、キミが知っていることを人に打ち明けるくらいかな」
「今更私の話なんて……現実離れし過ぎているし、誰も取り合ってくれないよ」
「そうかい? そうやってふてくされるのは勝手だけど、その足で歩けるなら、行ってきて欲しいところがあるんだ」
悠季は私に住所が書かれた紙を差し出していた。
それは一度も見覚えのない場所だった。
「これは……どこ?」
「とにかく行ってみればわかるよ」
悠季は少し微笑む。私は再びその住所に目を落とした。
「信じていいの……?」
「……ああ」
私が顔を上げた時、その声の主は消えていた。
そして退院したその日、私は自分の足でその場所へと赴く。
「ここは……」
それは、壁に軽く入ったヒビが年季を感じさせる、5階建てのマンションであった。
私はその建物に確かに見覚えがあった。
そして、郵便受けの名前を確認すると、私が行くべきその部屋へと、恐る恐る歩みを進める。
「日向」、表札には確かにそう記されていた。私はその扉のチャイムを鳴らす。
「はーい、どちら様ですか?」
出てきたのは、着物を着た中年の女性であった。
控えめながらも、その古びたマンションには不釣り合いなほど上品な出で立ちの女性は、私を見るや否や態度を変える。
「……あなたと話すことはありません。帰っていただけますか」
私は動くことも言葉を発することもできなかった。その女性の顔は見れば見るほど、あの子とそっくりだった。
「……初海、せっかく来てくださったんだ。そんな無下に追い返しては失礼に当たるだろう」
「あなた……でも……」
後ろから現れたのは、和服を着た、しかし服の上からでもそのがっしりとした体型が見て取れる中年の男性であった。
初海と呼ばれた女性は、その男性に場所を譲る。
「星野深織さんですね。こんなところで立ち話もなんですから、とりあえずお上がりください」
私はちゃぶ台を挟んでその男性と向かい合わせに座る。
初海さんは、私とその男性にお茶を入れ、茶菓子を置くと、バッグを持ち玄関へ歩いて行く。
「私、お買い物してきますね」
「ああ、すまない……」
そして沈黙。男性は一口お茶を飲み込むと、その低く重い声でゆっくりと口を開く。
「私は、日向海果音の父、上帝と申します」
「上帝……さん」
「はい、海果音が大変お世話になりました」
「いえ……海果音さんにはなんとお詫びをしていいか」
「星野さん、あなたにできることなどありませんよ。むしろ、何もしてくれなくていい」
「……そうですか」
上帝さんはお茶をもう一口すすり、そして私に問いかける。
「星野さん、海果音はあなたにとってどう映っていたのでしょうか?」
「いえ、それは……」
「大丈夫、私は全て知っています。遠慮せずにお話しください。
あなたがここに来ることができたということは、あなたももう知っているはずです」
「そう……ですか。
海果音は……この世界のカミサマなんですよね……?」
「……まあ、そうとも言えますが.海果音が何者かということを紐解くには、この世界の成り立ちから説明する必要があります」
「成り立ち? 宇宙はビッグバンで誕生したとかそういうことですか?
それとも何か理由があって、この世界は存在している?」
「……誕生した理由から説明するべきですね。
これからするお話は、とある世界の話です。
その世界では、高度に発展した機械産業によって支えられた社会の中で、人々は全ての仕事を機械に任せ、悠々自適な生活を営んでいたのです。
また、医療技術の進歩は人の寿命を際限なく延長させていました。
そして当然のごとく起こった資源の枯渇と人口過密。
人の命は重い、何人たりとも他人の生存権を犯すことはできない。
この、人間が当たり前に考えていることが、生物はいずれ死ぬという自然の摂理を否定し、その世界は衰退の一途を辿りました。
ある者はこれに対して、解決策を模索していました。
ひとつはほとんどの人々を休眠状態にしておくこと。
これにより、大幅な省エネルギーを実現することができ、資源の枯渇を食い止めることが可能となりました。
しかし、人々は、自ら休眠状態を望む者など滅多に現れません。
それどころか、それは人間の尊厳を奪う行為であると、人権団体に批判されることとなります。
そこで、もうひとつの解決策が考案されました。
それは、情報空間にもうひとつの世界を作り、人々をそこに移住させることだったのです。
最初は新しいゲームということにして、自発的に参加するように人々に仕向けました。
その空間で起こることは全て人間の脳にフィードバックされ、現実世界と遜色ない、いえ、それ以上に快適な生活を与えたのです。
そうして、ほとんどの人々は情報空間に移住を完了しました。
移住せずにその世界に残っている人間は、一部の権力者と、情報世界の創造主たちのみとなっています。
その創造主に造られた世界のひとつが……」
「この……世界」
「そうです。星野さんも薄々気付いていたことでしょう。
この世界で意思のある人間は皆、上位世界では休眠状態となっているのです。
当然あなたもそのひとりです」
「意思のある人間……やはり……では、私のような人間が、意思の力を使ってこの世界に影響を与えられるのは何故でしょうか?」
「そもそも、情報空間における世界というのは、全てを自由に設定することができます。
そこに生活するものたちも、自由に行動しその影響を及ぼすことができる。そうすることも可能です。
しかし、与えられた完全な自由は、何をしても良くて、何をしても面白くない。これでは誰もそこに参加しません。
そこで、情報世界に物理法則というルールを適用することによって、そこに上位世界と同様のリアリティを与えたのです。
しかし、創造力、あなた方が意思の力と呼んでいるものが強い者は、この物理法則というルールを破り、世界への干渉を可能とする。
これは、その脳がこの情報世界に直接繋がっているからこそ可能となっているのです。
脳に直接刺激を与えないと、この情報世界をリアルに感じることができない。
しかし、逆に脳が情報世界の出来事を処理し、ある程度、自由に影響を与えることができる。これが創造の力なのです」
「そして、それは全ての人間に備わっている……
少なからず、脳内に任意に電気信号を発生させるくらいには」
「その通りです。創造力はこの世界に住むすべての人が持っている。
最低でも、脳から筋肉に命令を与えるという形で、間接的に世界への干渉を可能としている。
ただ、それだけならば、筋肉を動かした時に与える影響、物理法則の範囲内での干渉に限られます」
「では、虚人……意思の力、創造力を持たない者は……?」
「それは、この世界を維持するために必要な面倒事を処理するための装置。
それに人の形を与え、ゲームで言うところのノンプレイヤーキャラクターのようにこの世界に配置しました。
私たちはそれを『デーモン』と呼んでいます。
……そして、海果音もそのデーモンのひとりなのです」
「デーモン……じゃあ、海果音が言っていた、『自分は悪魔だ』ということも……」
「それはちょっと違います。デーモンと言うのは元々、守護神を表す言葉です。
そう、この世界を陰ながら守護する神々が、デーモンなのです」
「デーモンたちは、自らの存在に疑問を持つとその命が尽きる。それはなぜでしょうか?」
「本来の人間が己の存在に疑問を持った場合、その脳の処理能力を以ってとりあえず疑問は解消されます。
それは、上位世界の扱える情報量が、この世界に比べて非常に大きいからです。
機械の中に作り出した情報空間が扱える情報量は、上位世界より1次元分少ない。
そして、情報空間の中にのみ存在するデーモンたちは、その世界で与えられた情報量しか扱うことができない。
これによって、自己の内面に生じた疑問、『自分は何者なのか?』を処理しきれずに機能停止してしまうのです」
「私の歌は、彼らにそのような処理できない問題を生じさせるものだったと」
「その通りです」
「でも海果音は……」
「いえ、海果音もその影響を受けていました。ですが、それはあの子を死に至らしめるほどではなかった。
それは、あの子の処理能力が、デーモンたちの中でも格段に高かったからなのです。
海果音はこの世界の物理法則を実現する根幹の機能と深く結びついている」
「だから、海果音を止めた時に世界が壊れてしまったのですね……」
「そう、そしてここからが、海果音が何のために生まれ、何のために生きているのかという話です。
海果音は、この世界の人々が、社会生活の中で受ける不快感によって意思の力を暴走させないための装置です。
あの子はこの世界の社会に発生する不快感を早急に感じ取り、行動を起こすことによって、その影響を社会に与え、不快感を緩和する。
言うなれば、海果音はこの世界の空調装置です。
その機能を満たすために、この世界の根幹の機能と結びつく必要があったのです」
「早急に、ですか。では、海果音は人より不快感を受けやすいということでしょうか」
「海果音は平均的な人間より、少しスペックを低く、そして、不満を感じやすく設定されている。
あの子が不幸な人生を送っていたのもその設定のためです。
それは、この世界の空気を正常なレベルに保つために必要だったのです。
そして、その行動の影響力も強く設定した。この世界の空気を先んじて調整するために。
そうでないと、本当の人間が不満を感じ、意思の力を暴走させてしまう恐れがあるからです。
物理法則との結びつきの強さから、この世界で作られた機械との相性は抜群だったようですが……」
「そして、実際に意思の力を暴走させた私を海果音は……」
「物理法則そのものの力を手に入れた。とはいえ、実際は海果音が使える機能の制限を取っ払っただけなのですがね。
そのように限定解除した……この私が」
「やはり、あなたは……」
「そう、この世界の創造主です。他の創造主の造った世界は、長続きしないものも多かった。
そして、情報空間には次々と新しい世界が作り出されています。
ひとつの世界が終わる度に、人々は他の創造主が造った世界へと散らばって行く。
ですが、私は、海果音を造ることによって、この世界を安定させ、永らえさせることに成功したのです」
「しかし、私が……海果音を見付けてしまったから」
「そう、星野さん、あなたがその強力な創造力によって、海果音と人間的な関係を持った。
本来は他のデーモンたちと同様、海果音も他人と良好な関係を築けないはずだった。
そうでなければ、特定の人間に影響を与える者となり、装置としての役目を果たせませんからね」
「だから、私を消したかった……」
「だが、星野さんは海果音を、この世界を滅ぼし、そして自分の思い通りに再生した。
その暴走した創造力で……」
「それが、今のこの世界」
「だが、この世界はもうあなたの手を離れ、独自に息づいている。
そこで、あなたにお願いがあるのです」
「なんでしょうか……?」
「こうして私がこの世界の仕組みをお話ししたのには、理由があります。
それは、あなたにこの世界から立ち去って欲しいからなのです」
「……!」
「あなたのその創造力があれば、私たちと同様に創造主となることができる。
あなたはあなたが思う通りの世界を作って、そこで人々を養ってくれませんか。
この世界を作り変えたように!」
「そんなっ! 私は! この世界が、海果音が居る世界が好きなのです!」
「その海果音のために言っているのです!
もうあなたのために海果音が傷付くのは見ていられないのです……」
「そんな……」
「いいですか、あなたが世界を作り変えた時、私はそれをリセットをすることもできた。
しかしそうしなかった。それは、ここまで成長してきた海果音を手放すことが惜しくなっていたから、あの子に情が移っていたからなのです。
だから、あの子をずっと見守って居たかった」
「ではなぜ、海果音を普通の人間と同じように設定しないのですか?
あの子が不幸になるのを見て楽しんでいたのですか?」
「違う! あの子の設定を変えてしまっては、今まで積み重ねてきたあの子とは別人になってしまう!
それに、健気に現実に立ち向かうあの子が居てこそ、この世界は成り立っているんだ!
だが、あなたはあの子に無用の接触をして、あんな機械を使って、あの子を想定した以上に苦しめた!」
「それは、デーモンである御厨博士が仕組んだこと……あなたにだって責任があるはず……!」
「彼女は人間の意思、創造力で動く機械、人間と遜色ない存在を創り出すための装置だった。
それこそが、上位世界で成し遂げられなかった夢だからだ!
だが、それを使ってあなたがしたことは、創造力を使った暴力行為に他ならない!
その創造力を持て余すことなく、他の世界の創造に、他の人たちのために使って欲しいのです!
何よりも、あなたにはあの子を、私の娘を渡したくはないんだ!」
「娘……そうですね、海果音は正真正銘、あなたが手塩にかけて育てた娘さんです。
……わかりました。
私がこの世界に存在する限り、この創造力で海果音を苦しめ続けてしまう。
それは私も本意ではありません……
全てを知ってしまった私ができることは、やはり人々のために新しい世界を造ること……」
「わかってくれましたか……ありがとうございます」
「ただ、最後にひとつ、お願いがあるのですが……」
「なんでしょう?」
「最後に一度だけ、海果音に会わせてくれませんか?
会って謝りたいのですが……」
「それはできません」
「なぜですか?」
「あの子は今、あなたと戦った時のショックで意識を失ったままです。あの時からずっと目を覚まさない。
あの子がいつ目を覚ますのか、目を覚ますまでの間にこの世界がどうなるか、それも分からない状況ですが、今はあの子を思う存分休ませてあげたいんです」
「それでも……最後に一目見るだけでも……あの子だけが、私の生きる希望だったんです! お願いします!」
「……そうですか、いいでしょう。海果音はあの襖の向こうに寝ています」
私は上帝さんが指差す襖を開ける。
そこには、仰向けになって布団を被り、寝息を立てている海果音が居た。
私は枕元に座り、その顔を上から覗き込んで語り掛ける。
「ねえ、海果音、私、新しい世界を造ることにしたよ。この世界から退場してね。
私さ、勘違いをしてたんだ。
最初は人を幸せにできると思ってた。だけど、幸せは自分で掴むしかないんだって気付いた。
その次は、人から不幸を取り除こうとした。だけど、それも裏目に出てしまった。
だけど、あなたのお父さんの、上帝さんの話を聴いてわかったんだ。
海果音、あなたは他人の、この社会の不幸を、自分のこととして受け入れて、そして、それを自分の力で覆す役目を持っていた。
大事なのは、共に不幸を受け入れて、共に乗り越える強さだったんだ。海果音はそれを持っていた。
だから、私は海果音を見習って、人々がそうやって考えられるような世界を造るよ。
私ってバカだよね。海果音がこんなことになるまで、そのことに気付けなかった。だから……ごめん」
私は海果音の胸の上に顔をうずめる。
そして、止めどなく流れ出す涙とすすり泣く声。
私はその、やり場のない感情をどう諫めて前を向けばいいのか、それがわからずにそこから動けなかった。
「……!」
そんな私の頭を撫でる優しい手の平、それは――
「深織……私の方こそ……ごめん」
「海果音っ!」
私が顔を上げると、そこには目を開けて微笑む海果音がいた。
そして、私の目に映る彼女は変化を遂げていた。
「海果音……その髪……」
「うん、戻ったみたい。ずっと前に……そういう深織だって……」
彼女の髪と瞳は黒に、私の髪は金色に、そう、元に戻っていたのだ。
「なんで……?」
「それはさ、深織が、私と同じ役目を受け入れてくれたからだよ……
その代わり、私は深織の意思の力……呪いを、いえ、祝福を貰ったみたい」
「どういうこと……?」
「私も、ひとりの人間になれたってことかな……悠季くんみたいにね」
「知って……るんだ」
「うん、全部知ってる。それが私の機能だからね。
私、27歳だった……全部、思い出したんだよ」
そして彼女は、私の背後に立つ人物に視線を向ける。
「あっ! お父さん、おはよう!」
「おはよう、海果音。……深織さん、ありがとうございます」
「もう、お父さん、私にこんな昔のパジャマ着せないでよ! そりゃ成長してないかもしれないけどさ……」
「ははは、ごめんごめん、海果音は成長したよ。それも深織さんのお陰だ……」
その時、マンションの扉が開く。
「ただいまー」
「あっ、お母さん!」
海果音はパジャマ姿のまま、パタパタとマンションの玄関まで走る。
「海果音、おはよう」
「おはようー! 何その荷物? 何買ってきたの?」
「海果音が帰ってきて、お客様も居るんですもの。今日はすき焼きよ」
「わー、ホント!? すごーい、うち貧乏なのに! 私も手伝うよー」
初海さんから荷物を奪い、台所に走る海果音。その後ろを落ち着いた足取りでついて行く初海さん。
そして、私と上帝さんの横を通り過ぎる時。
「初海……」
「あなたが深織さんを家に上げた時点で、こうなることはわかってましたよ」
「初海さん、ありがとうございます……」
私と上帝さんはちゃぶ台に戻る。そして台所に立つ母と娘、その仲睦まじい姿を目に焼き付けるのだった。
「上帝さん、あの、お願いがあるんですが……」
「なんでしょうか?」
「もう少し、この世界に居させてもらっていいですか?」
「どうしてですか?」
「海果音が守る世界をもっと見ていたいと、そう思いまして……」
「そうですか……」
「虫のいい話かと思いますが、どうか、お願いします!」
私は土下座で上帝さんにお願いをする。
「では、もう一度聴きましょう。海果音はあなたにとってどう映っていたのですか?」
「それは……えっと……可愛い女の子だなって……ただ、それだけです」
「本当にそれだけですか?」
「はい!」
「……そうだ、海果音は可愛い、愛おしい、愛くるしい。
ただそれだけで存在する価値がある! わかっているではないか、深織さん」
「……で、ですよね。海果音がデーモンだろうがカミサマだろうが、そんなことは……」
「うむ、些末なことだ!」
ふたりでニヤつきながら海果音の背中を眺めていると、玄関の呼び鈴が鳴る。
「はーい」
初海さんはトタトタと玄関へと駆ける。
「「こんにちはー!」」
「あら、葉月さん、大地さん、いらっしゃい」
そこには珠彩と悠季が居た。
彼女たちは満面の笑顔で初海さんと挨拶を交わしている。
「え? 悠季……何で?」
その姿は、大人になった悠季のままだった。
彼女は初海さんに促されるまま、ちゃぶ台の周りに掛ける。
「フフッ、ボクは最初から死んでるんだよ? 死ぬわけないじゃないか」
「えー……」
そして、台所の海果音に高級そうな包みを渡した珠彩もちゃぶ台の周りに掛ける。
「……あら、あんたも居たのね。って当たり前か」
「そういう、珠彩は?」
「私は悠季から、もうすぐ海果音が起きるって聴いて、一緒に来たのよ。
お祝いの黒毛和牛を持ってきてあげたわよ。にひひっ!」
「ああ……そうなんだ」
そうしてその日は、海果音とそのご両親、悠季と珠彩、私とで食べきれないほどのすき焼きを囲み、時間を忘れて談笑した。
楽しいひとときは一瞬にして過ぎ去り、星空の下、私たちは海果音の実家を後にする。
「お父さん、お母さん、またね。珠彩ちゃんと悠季くんも!」
「またねっ」
「じゃあ、また」
その時、上帝さんは私だけを一瞬引き留め、他の人に聞こえないように囁く。
「深織さん、もしも、娘を泣かせたら……」
「ええ、私も一緒に泣きますよ。海果音の気が済むまで」
「……よろしくお願いします」
「はい、ではまた」
そして、私は海果音と一緒に、海果音と住むマンションへと帰路に就く。
ふたりの暮らしが再び始まろうとしていた。
「ねえ深織、帰ったらさ……あの時の続き……する?」
「……バカ」
「あはははははっ!」
やっぱり私にとって、海果音の笑顔とその声は、私の心を明るく照らす太陽そのものだった。
海果音は道すがら、メガネを外しながら語り出す。
「このメガネさ、深織も大切にしてくれたメガネ、これってさ、私にとって視力矯正のためのものじゃなかったんだ」
「……そうなんだ」
「うん。なんか私の目って、あらゆるものがはっきり見えるようになってるんだって。
当然だよね。私は物理法則そのものの機能を有してるんだから」
「そうなの? ずっと視力が低いからだと思ってた」
「それが違うんだよ。
このメガネは自分に見える対象を絞るためのものだったんだ。
そうでないと、見えている全ての情報を処理しなきゃいけないからね。
結果、全てのモノを、見なくていいモノも見なきゃいけなくなる。
そういうことだったんだよ」
「そっか、じゃあその目は、真実を映す瞳だったんだね」
「うん、このメガネは私が直視しなければならないモノだけを見るために、存在していたんだ」
そして、海果音はそのメガネをかけ直し、私をじっと見つめる。
「な、何?」
「ああ、いや、今は深織の笑顔を見ているだけで幸せだなって、そう思ったんだ」
その時、私は久しぶりに心の底から笑顔を作れた、そんな気がした。




