第33話 Eclipse
「星野深織、ちょっと気分転換に、私の研究の成果を見に来ないか?」
それは、深織が主催するようになったオンラインサロン、「ステラボ」の会員にして、ロボット研究者の御厨亜生からの連絡だった。
深織は、電話越しの彼女の言葉に、ベッドに寝転がったまま返答する。
「申し訳ないです。今はちょっと、そういう気分じゃなくて……」
「ふん、そうか、オンラインサロンの少ない予算をやりくりして、やっとのことで建てた掘っ立て小屋のような研究施設だ。
そんな場所で汗水たらす会員に、たまには顔を見せて労いの言葉でもかけてやろうとは思わんのか?」
「それはごもっともなんですが」
「ふむ、そうか。その辺は大地悠季にも釘を刺されたからな。無理にとは言わんが」
「悠季が? あの子、なんて言ってたんですか?」
「ほぉ、気になるか。お前に無理をさせてはいけないとな。
お前の身を案じてのことなのだろうが、人は無理をして成長してゆくものだ。
そうやって塞ぎ込んでいるよりは、人に会って刺激を受ける方がマシだろう」
「……わかりました。明日でよければ、研究施設に伺います」
「うむ、待っているぞ」
翌日、深織は予告通り、ステラボの研究施設に足を運んだ。
彼女はそこで会員と言葉を交わし、御厨亜生が見せたいと言っていた研究成果を目にする。
「これが、私が作っているロボット、名付けて、マン・マシーンだ」
それは標準的な大人の女性ほどの背丈で、つるんとした皮膚に覆われた人型のロボットであった。
「筋肉と皮膚はシリコンでできている。骨格はチタン合金だ。
人間と似ているのは姿形だけではないぞ。内蔵されている筋肉もほとんど人間を再現しているのだ」
「これが、見せたかったものですか」
「なんだ、ロボットには興味なかったか」
「いえ、なんというか、ありきたりだなぁと」
「そう言うな。人型のロボットは人類の夢だ。それにこのマン・マシーンはAIを搭載して運用する予定なのだぞ」
「それもありきたりですね……」
「ふん、機嫌でも悪いのか? よく考えて見ろ。人間と同じ動きができ、同じように考えることができるロボットならば、その利用価値は人間と同じということになるのだ」
「そうですね。人間の仕事を肩代わりすることもできる……」
「そうだ、それも利用法のひとつだ」
「わかりました。私がこのロボットの活用法を考えてみます。
ところで、このロボットはもう動くんですか?」
「ああ、見ているといい」
御厨亜生はリモコンを使ってマン・マシーンに命令を送る。
すると、マン・マシーンは歩き出し、PCの前の椅子に着席した。
そして、PCを起動すると、キーボードとマウスを操作して、文書を作成する。
深織がその様子をしばらく見ていると、深織のスマートフォンにメールが着信した。
「深織さん、気を落とさないでください。僕たちもあなたを応援しています」
深織はそのメールを開くと、くすりと鼻を鳴らして笑った。
「機械に励まされた気分はどうだ?」
「あははっ、なんかちょっと可笑しいですね。じゃあ、もうすぐ完成ってことなんですか?」
「いや、搭載するAIがなかなか完成しなくてな」
「どういうことですか? AIはもうすでに完成させていたのでは?」
「こういう言い方もなんだが、私が作っていたAIは、AIモドキだったんだよ。
AIとは人工知能という意味だ。つまり、自律的な思考能力を持っていなければならない。
しかし、これまでのAIは統計学の域を出ないものだった。
単純に言えば、蓄積された膨大なデータから、もっともらしい回答を導き出すだけのものだった。
さっきのメールも、今のお前にかけるべき、一番もっともらしい回答だよ。
これは、思考能力を持っているとは言わないのだ。
自分で考えて行動し、そして成長してゆくことこそが、AIに必要とされる能力なのだ」
「成長……ですか」
「そうだ。例えば、作業をするように命令した場合、その作業を効率化して行くことができるようにならないといけない。
しかし、作業を効率化するようにプログラムを組んでみると、最初はいいのだが、段々と手を抜くようになっていくのだ。
そして、ハインリッヒの法則に従って小さな失敗を重ね、やがて重大な事故を起こす。
何度やってもそうなってしまう。だから、まだAIに足りない要素が何かあるんじゃないかと私は睨んでいる。
定型化された作業をするだけなら問題ないが、人間に代わる労働力としては不十分であろう」
「それでもいいような気がしますが……理想が高いんですね」
「ふん、興味の赴くままに研究を重ねているだけだ。
ここの者たちもそれに賛同し、利用法は二の次でその真理を追究している。
お前はこのAIが完成した時のことを考えて、プレゼン資料でも作っていると良い」
「そうですね。人から労働を強いられるという不幸を取り除ければ……」
「その意気だ。……さあお前たち、まだできることはいくらでもあるぞ!」
御厨亜生は研究所に居るステラボの会員たちに檄を飛ばす。
深織はそんな彼女たちに頼もしさを覚え、少し元気を取り戻すのであった。
一方私、日向海果音はと言えば、引き続き葉月珠彩ちゃんの実験施設で昆虫型ロボット「マシンセクト」に搭乗して、動作パターンを繰り返して人工知能を育成していた。
勿論、ここでいう人工知能は、御厨亜生が言うところのAIモドキなのであるが。
「海果音、休憩にしましょ」
「うん、わかったよ。 ちょっと待ってて、コーヒー入れるから」
「ん? あんたが入れてくれるの?」
「うんっ」
私は専用マシンセクト「マリーネ」に搭乗したまま、実験場の隅に置いてきた自分のリュックを、マリーネの前肢、マニピュレータで開き、アウトドア用のコーヒーセットを取り出す。
「あら、気が利くじゃない。ふふ、もうそんなこともできるのね」
「うん、ずっとイメージトレーニングしてたんだ」
私はマリーネのマニピュレータを巧みに操作して、コーヒーミルで豆を挽き、それをカップの上にセットしたフィルターの上へ。
そして、バーナーで沸かしたお湯を注いでドリップコーヒーを淹れる。
珠彩ちゃんはその様子をしゃがんで頬に両手を当て、ゴキゲンな顔で眺めていた。
「できたっ! っと、地べたに座るのはお行儀悪いから……」
私はマリーネのマニピュレータの手の平を上に向け、椅子のように差し出して見せる。
珠彩ちゃんはカップを持ってそこに座り、私ももう片方の手の平の上に座るのであった。
「ふふんっ、ありがと!」
「どういたしまして。でも、結構かかっちゃったなあ。イメージではもっとサクサクできると思ったのに」
「あははっ、あんたひとりでそんなこと想像してたの?」
そうして私たちふたりは談笑しながらコーヒーを堪能する。
しかし、そんな毎日を送っている私に、苦々しい想いを抱いている者がいた。
「海果音、今日も珠彩の所に行くの?」
「ああ、うん、そうだよ。今日は屋外の駐車場を使って飛行試験をするんだってさ」
「飛行……それって危険じゃないの?」
「今までも少し飛行することはあったし、そんなに高いところまで飛ばないから大丈夫だよ」
笑いかける私だったが、深織がその不安と不満が入り混じったような表情を崩すことはなかった。
「そんなこと言って、もしものことがあったらどうするの? 大学もあるのに、そんなことにずっとかまけて……」
「あはは……気を付けるよ……心配しないでいいからさ。それに、お金だってもらってるんだから」
「お金貰ってるから断りづらいの?」
「違うよ、私もやりたくてやってるんだから……だからさ、もうそんなにうるさく言わないでよ」
私も少しイライラしてたのかもしれない。
だが、深織はと言えば、声優の仕事もめっきりなくなり、家で悶々と過ごす時間が増えて行く。
そんな中、ある日、私は足首に包帯を巻いた姿で帰宅した。
「海果音! それ、どうしたの?」
深織の目は私の足元に釘付けになる。
私はバツが悪そうに彼女にことのあらましを告げた。
「いやぁ……ロボットから降りるときにさ、面倒くさいから飛び降りちゃって、こないだは平気だったんだけど、今日はなんかグネっちゃってね。
ちょっと捻っただけだから、すぐ治るからさ」
「だから言ったじゃない! 気を付けなさいって……飛び降りたって、なんでそんな大事なところで手を抜くの!?」
「ちょっと気が抜けちゃっててさ、だから、ごめん」
私は苦笑いのまま手を合わせて深織に許しを乞う。
「……次、同じようなことになったらもうやめさせるからね!」
その言葉を聴いた私は、横を向き、吐き捨てるように呟く。
「何で深織にそこまで制限されなきゃいけないんだよ……」
「……!」
その時私は深織の目を見ることができなかった。
それからというもの、私たちは同棲していながらも、最低限の言葉を交わすことしかできなくなっていた。
そして、連日のように珠彩ちゃんの地下実験施設に通う私は、徐々に彼女の心を歪ませていたのだった。
「……行って来ます」
「また珠彩のところ?」
「う、うん……」
久々に私に問いかけてくる深織に、私はつい視線を逸らしてしまう。
「海果音、ちょっと時間ある?」
彼女は私が待ち合わせの時間に1時間早く着く癖を知っている。
それは当然、珠彩ちゃんの地下実験施設に行く時も同じことであった。
「……あるけど、何?」
「見て欲しいものがあるの……」
深織は自分の寝室のドアを半分開きながら、誘うように私を見つめる。
彼女に少し悪いことをしたと思い始めていた私は、それに逆らうことができなかった。
「ちょっと待ってね」
彼女はそう言うと、ローテーブルの上にプロジェクターを設置し、私をベッドに座るように促す。
そして、自分のスマートフォンとそのプロジェクターを接続し、カーテンを閉め、電気を消して動画の上映を開始した。
部屋の白くて広い壁に映し出されたのは、人型のロボットのようなものであった。
「このロボットは、マン・マシーンと言います」
動画から深織の声でアナウンスが流れる。
その内容は、ロボットの性能をプレゼンするものであった。
「マン・マシーンは人間と同じ体格、骨、筋肉を備え、人工知能、AIの演算によって行動します」
けん玉や、荷物運び、PCの組み立て作業などを行うロボットが映し出され、その動画は最後にこう締めくくられる。
「マン・マシーンは人間と同じように動作します。また、人間と同じように思考し成長することができます。
マン・マシーンを導入すれば、今まで人間が担っていた仕事をそのまま引き継ぐことができ、その上、AIの成長によって更なる効率化が見込めるのです。
これは人間に代わる労働力として大いに期待できることでしょう」
上映終了後、壁を照らしていたプロジェクターを止めた深織は、暗闇の中で私に語り掛ける。
「ねえ、海果音、今私はオンラインサロンで、このマン・マシーンを作っているの。
それでね、それさえあれば、もう人は働かなくて良くなるんだよ」
「そ、そうなんだ……」
私はベッドに座ったまま、私を見下ろしている深織にそう返答する。
「だからね、あなたが働く必要なんてなくなるの。
それにさ、珠彩が作ってるロボットも、いらなくなるんだよ……
だってさ、海果音が言うには珠彩が作っているのは昆虫型のロボットでしょ?
そんなものより、人型のロボットの方が、この人間社会で活動するのに適しているに決まってるじゃない」
「なんで……そんなこと言うんだよ」
私は少しムッとしてトゲのある物言いをする。
「私はね、海果音に苦労させたくないんだよ。
だってそれって、海果音が不幸になるってことでしょ?」
「勝手に決めつけないでよ」
私の言葉を意に介していないかのように深織は続ける。
「もうすぐこのマン・マシーンが完成して、人類は労働から解放される。
その世界はもう目の前に来ているんだよ……だからさ、珠彩に付き合ってあげてるのは偉いけどさ、そんなのもうやめようよ」
「付き合ってあげてるなんて、私がそんな人を見下すような人間だと思ってるの……?
珠彩ちゃんだって、人のために、社会のためにって考えてるんだ。私もそれに賛同してるだけだよ。深織の方が人を見下してるんじゃないの?」
「ふふ、そうかもね……でも、しょうがないじゃない……珠彩の研究はもうすぐ必要なくなるんだから」
「……私、もう行くよ」
このままこれ以上話しても、意地の張り合いにしかならないと思い、私はベッドから立ち上がろうとする。
「……海果音は……ここに居ればいいの!!」
深織はそう叫びながら私の両肩を掴み、その身体をベッドの上にねじ伏せた。
私の上には深織が覆い被さり、私の頭の下には、私が彼女にプレゼントした枕があった。
私をベッドに叩きつけた時に起こった風圧がカーテンを翻し、窓の外から漏れる光が彼女の悲痛な表情を映し出す。
「海果音は、珠彩に利用されてるだけなんだよ……目を覚ましてよ」
――それは、既にいつかどこかで経験した感覚のようであった。
私は声にならない声を上げる。彼女の柔らかい唇が、私から発声する術を奪っていたのだ。
私は枕から立ち上る深織の髪の香りと、その甘美な感触に包まれたまま時間を忘れていた。
そして、気付いた時には、ズレたメガネの向こうに少し遠ざかる深織の顔が見えた。
彼女はそのしなやかな指で、私のブラウスのボタンに触れる。
「……やめて、こんなの……ダメだよ」
そう呟いた私は、恍惚の表情のまま、彼女の指をそっと手の平で抑えた。
私は全く力を加えていないのに、その指は動きを止める。
「そんなにあの子が大事なの?」
「……深織だって大事だよ。ふたりとも大事な友達だ」
「……っ! 私が居なければ……その友達もできなかったくせに……!」
私はズレたメガネを直しもせず、深織から視線を外す。
「……ご、ごめん……海果音」
「深織も……あの子と同じことを言うんだね……いいよ、別に」
「違うの……これは、つい」
「いいよ……わかってるから……深織、もうどいてよ……重いよ」
しかし、彼女は私のブラウスに手を掛けたまま、私の胸に顔をうずめてしまう。
「……もう、行かなきゃ。珠彩ちゃんが待ってる……」
私は彼女を押しのけるように起き上がり、襟元を整えて、そのまま何も言わずにその部屋を後にした。
私は扉を閉めたはずなのに、その向こうからはすすり泣くような声がはっきりと聴こえていた。
私は自分の口元を彼女からのプレゼントであるカーディガンの袖で拭い、リュックを背負うと、少し急ぎ足で珠彩ちゃんの地下実験施設に向かう。
そこで待っていたのは、事情を知る由もない、あっけらかんとした顔であった。
「あら海果音、今日は遅かったじゃない? なにかあったの? 困った人でも助けてたとか?」
そんな、珠彩ちゃんでもあるまいに――普段の私ならばそう返していたことだろう。
しかしその時の私の反応は、彼女が予想だにしないものであった。
「うわっっ! 何よ急に、ちょっと、どうしたのよ?」
突然のできごとに周りで作業をしていた社員さんたちは、見てみぬふりをしていた。
それは、私が彼女の胸に飛び込んでいたからであった。
「……しゅいろ……ちゃん」
「……あれ、前にもこんなことあったような気がするわね……じゃなくて! どうしたっていうのよ!」
「……うぅ……げほっ……げほっ……」
「もう、みんな見てるでしょ? 落ち着きなさいよ」
「うん……ごめん」
しかし私は彼女の胸に顔をうずめたまま、動くことも、それ以上言葉を発することもできなかった。
彼女はそんな私の背中をさすり、肩を貸して休憩室へといざなった。
「それで、何かあったの?」
「ううん……ごめん、仕事するよ」
言葉とは裏腹に、ソファーにかけた私は俯いたまま動くことができなかった。
「どう見ても仕事できるような状況じゃないけど……もう、休むなら休むって言えばいいんだから、変な気を遣わないでよ」
「大丈夫……」
「大丈夫じゃないでしょう? ほら、メガネが涙で濡れてるわよ。
何があったか知らないけど、今日はもう帰って休みなさい」
私は彼女が差し出すハンカチを手に取り、それで涙を拭う。
そして、俯いたまま涙で腫らした目を上げた私は、彼女にその日初めて意味のある言葉をかける。
「帰りたくない……」
「仕事するの? できないでしょ?」
「ううん……あのさ、珠彩ちゃん」
「……何よ、改まって」
私は深く息を吸い、彼女に悟られないように注意を払って言葉を紡ぎ出す。
「今日さ、仕事したあと、泊めてくれない……?」
「わかった! 深織と喧嘩したんでしょ?」
あっさりと悟られてしまった。
しかし、私の反応を見た彼女は少し笑ったあと、優しく言葉をかけてくれた。
「いいわよ……でも、今日は仕事はやめておきましょう」
そして、私は彼女に連れられて、彼女が住む豪邸へと招待される。
私が彼女の部屋に足を踏み入れる頃にはもう、さっきあったことは心の奥にしまい込まれていた。
「わー、珠彩ちゃんの家、久しぶりだなぁ」
「ちょっと待っててね。お茶とお菓子出すから」
彼女が台所から戻ってくるまでの間、私はその部屋を見回し、ぎっしりと詰まった本棚と、ベッドの上の可愛いぬいぐるみに笑みをこぼしていた。
「羊羹とお茶でいいわよね?」
「あははっ、なんかお年寄りみたいだね」
「そんなこと言ったらあげないから」
「ああっ、ごめん、羊羹食べるよぉ!」
そして、1センチほどの厚さに切られた羊羹を口にしながら、私は何気ない話をするまでに正気を取り戻していた。
「今日は親御さんと燈彩ちゃんは?」
「いないわよ。パパとママは遊び回ってるし、燈彩は合宿だってさ」
「そっか、じゃあ今日はふたりきりだね……はぁ」
「変なこと言わないでよ……って、どうしたの?」
珠彩ちゃんは、私がふと小さな溜息を洩らしたことを見逃さなかった。
「……ああ、いや、本当に仕事しなくていいのかなって思って」
「休むのも仕事って言うでしょ? 別に今日一日やらなかったくらいでプロジェクトがどうにかなるわけじゃないから、気にしなくていいのよ」
「そうは言うけどさぁ、ほら、もう私平気だよ?」
「じゃあ、これから実験施設に戻るって言うの? 今来たばかりなのに?」
「うーん……そう言われると……でもなぁ」
「もう、煮え切らないわねっ! 今日は心労がかかるようなことはやめろって言ってるの。雇い主、クライアントの私がそう言ってるんだから従いなさいよ」
「あはは……ありがと。でも、仕事しないのもなんか罪悪感」
「はぁー、あんた本当に面倒くさい奴ね……わかったわ、これで手を打ちましょう」
彼女はおもむろに部屋のモニターにゲーム機を接続し始めた。
そして、ゴーグルとブレスレット、アンクレットを私に差し出すのであった。
「ほら、これつけなさいよ」
「ええっ、これって、最新のVRマシンってやつ?」
「そうよ。ほら、今準備するから」
私が彼女に手渡されたそれらを装着すると、ゴーグルの中では既に起動画面が表示されていた。
そして、メーカーのロゴのあと、タイトル画面が表示される。
「VRバイトヘヴン……?」
「最近リリースされたソフトよ。無料版があったからダウンロードしておいたの。
さ、クライアントの私はこのモニターで監視しててあげるから、あんたはしっかり働きなさいっ! にひひっ」
声だけなのに、彼女のほくそ笑む顔が浮かんでくるようだ。
私は、画面上の「ランダムバイト」というボタンを指で押すが、傍から見たら、突っ立って何もない空間を指で押している滑稽な姿になっていたことだろう。
そして、画面に表示されたのは、ベルトコンベアを流れてくる無数のお菓子から、不良品を取り除くバイトだった。
「よっ、はっ! ……ってこれ、結構早い……あ、逃げられたっ!」
「あははっ、トロいわねえ」
「だって、これ操作性が……無駄にリアルな分……わわっ、綺麗なのを弾いちゃった!」
「へたくそねー。つまみ食いしちゃダメよ? ははっ」
「えー、そんなことできるの?」
私は試しにお菓子を弾かずに摘み上げて、食べる仕草をしてみる。
「うわっ、大幅減点でゲームオーバーだって!」
「あはははははっ! そりゃそうよ! 勝手に製品をつまみ食いしたらクビでしょ?」
パンパンと自分のふとももを叩きながら笑い転げる彼女の声は心底楽しそうだった。
その後、製本のバイト、ネット通販会社の倉庫のバイト、煎餅を手で割って訳あり煎餅を作る仕事……などなどを体験した私は、すっかり疲れ果ててしまう。
「はぁ、はぁ、うわー、疲れた……PCを組み立てるバイトってこんなに重労働なのか……」
「あははははっ! あんた、マリーネを動かせばPCなんて簡単に組み立てちゃうくせに、自分の身体を使うとダメなのね! 変なの!」
「はいはい、どーせ私は機械の一部ですよーだ。うわぁ、汗でべとべと……」
私はブラウスの襟元をパタパタしながら怪訝な顔でそう呟いた。
「ふふ、そんな恰好のまま身体を動かすからよ。……もう結構いい時間ね。海果音、お風呂入っちゃいなさいよ」
「えっ、いいの?」
「じゃあ汗だくのまま寝るって言うの?」
「……いや、全然考えてなかった……そういや着替えもないや」
「はあ、そんな後先考えられない状態で仕事しようとしてたなんて、やっぱり休ませて正解だったわ。
着替えは私のを貸してあげるから、さっぱりしてきなさいよ」
「う、うん、わかったよ。じゃあ行こうか」
私は珠彩ちゃんに手を差し伸べる。しかし、彼女の反応は私の期待を裏切るものであった。
「は? 場所がわからないの? さっき通り過ぎたでしょ?」
「え? いや、そうじゃなくて……一緒に入ろ」
「あんた何言ってんのよ。そんなことできるわけないでしょ? バカなの? 私はあんたの後に入るわよ」
ストレートに拒否されてしまった。そんな彼女に私は苦笑いを返すことしかできなかった。
「……そっか、ははは……じゃあ、入ってくるよ」
「……変な気起こさないでよね。着替えはあとで持っていくから」
私は彼女のその言葉に聞こえないふりをして部屋を出る。
そして、廊下を進んで更衣室で服を脱ぎ、浴室に入ると、旅館かよと言いたくなるほど広い湯船になみなみと貼られたお湯から、もくもくと湯気が立ち込めていた。
彼女は私が汗水たらしてゲームで働いてる間に、給湯をセットしていたようだ。
私は嗅いだことがないうっとりするような香りの泡に包まれながら身体を綺麗に磨き上げ、湯船に身体を沈める。
その中でふと頭をよぎったのは、深織のあの時の顔と、すすり泣く声だった。
「着替え、ここに置いておくわよ。下着はパンツだけでいいわよね?」
浴室と更衣室を隔てるすりガラスの向こうには、珠彩ちゃんの影があった。
彼女はそれだけを告げて、その場を後にしようとする。
「ねえ、珠彩ちゃん」
「……何よ」
振り返ったと見える彼女に、私は一息置いてから言葉をかける。
「このお風呂広いね。これならふたりで入っても……」
「……まだそんなこと言ってるの? バーカ……」
彼女はつれない言葉を残して去って行った。
しかし、その口調にはいつものような強さより、私に気を遣うような柔らかさを感じた。
湯船で身体がふやけかけるまでぼーっとしていた私は、更衣室に置かれた着替えを手に取り、考えを巡らせる。
「これが……珠彩ちゃんの……ごくん」
私は両手でそれを広げてみる。布が二重になっている部分を、何故か見つめ続けたまましばらく固まった後、ふと我に返って着替えに取り掛かる。
珠彩ちゃんが用意してくれた薄いペールブルーのパジャマは肌に心地よく、湯上りの火照った体を鎮めてくれるように、ひんやりと私を包み込んだ。
そして私は、メガネを装着して珠彩ちゃんの部屋に戻ると、彼女は退屈そうに自分のスマートフォンに指を滑らせていた。
「ありがと」
「さっぱりした? じゃあ、私も入ってくるわ」
私は彼女が戻ってくるまでの間、本棚の本に目を通したりして過ごしていた。
そして、戻ってきた彼女は、ダイニングへと私を誘う。
「夕飯できてるわよ。食べましょ」
それは、玄米ごはんと、野菜が沢山入ったみそ汁と、サバの半身を塩焼きにしたものといった一見質素な夕食であったが、味は確かなものであった。
私は疲れた身体が満たされて行く感覚を存分に味わう。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。まあ、ほとんどインスタントだからね。
……まだ寝るには早いわね、これでも見ましょ」
彼女が巨大なモニターの前に置いてあったリモコンを操作すると、モニターから古いアニメ映画が流れ始めた。
彼女はそれを横目で見ながら片付けを始める。私が立ち上がろうとすると、彼女は優しく笑って首を横に振った。
そうして片付けと洗い物を終えた彼女は、私にお茶を出してから席につく。
私たちは黙ったまま、その映画を最後まで見届けた。
「……あはは、何よ金色の野って。やっぱり急に生き返った理由がわからないわね……ふぁぁぁ~、うう、ごめん、私もう眠くなっちゃった」
「うん、わかったよ。で、本当に帰らなくていいの……?」
「泊めろっていったのはあんたでしょ? 燈彩の部屋が空いてるから、そこで寝ていいわよ」
彼女はそう言いながら部屋に戻ろうとする。
「ええー、一緒の部屋で寝るんだと思ってたのに!」
「変な冗談言わないでよ。さっきのお風呂の時と言い、一緒に入れるわけないでしょ?」
「あははっ、ごめん、なんか珠彩ちゃんと一緒に居るのが楽しくなっちゃってさ」
「あらそう、それはどういたしまして。
じゃあ、その代わり私を静かに眠らせてちょうだい」
その時、彼女は既にダイニングを後にしていた。
私は彼女の背中を見届けて、その部屋の電気を消して廊下に出る。
広いお屋敷の中で、燈彩ちゃんの寝室を見付けることに少し手間取ってしまったが、遠慮なく休ませてもらうことにした。
「……今日はなんか疲れたな」
そんな独り言を口にしながらベッドの中で目を閉じる。
――しかし、心の中で何かがささやいている気がして、私はなかなか眠りに落ちることができなかった。
私はトイレを借りて部屋に戻る。しかしその部屋は、彼女が眠っている寝室であった。
閉まるドアの音に反応して、ベッドの中の彼女がびくんと跳ねる。
「……びっくりしたぁ……何よ海果音、まだ寝てなかったの?」
彼女は目をこすりながら、こちらに顔を向ける。
しかし、私の表情を見た彼女はその寝ぼけ眼をはっきりと覚醒させたのであった。
「……泣いてるの?」
「うん……」
「でも、言いたくないのよね?」
「うん……」
「ふーむ……もう、私にどうしろっていうのよ……」
「一緒に……寝ていいかな?」
「…………」
永い沈黙の中、彼女は私の目を見つめ続けていた。
そして、彼女は私に背を向け、布団に潜り込む。
「……いいわよ。おいで」
「……ありがとう」
私は彼女と背中合わせにベッドに横になる。
布団をかけ、しばらくすると、高鳴っていた心臓の鼓動も落ち着いてくるのだった。
しかし、後頭部に何かが当たる感触がする。
「枕、使いなさいよ」
振り返ると、彼女はこちらを向いて枕を押し付けてきていた。
私は遠慮がちにその端っこに頭を乗せ、くすりと笑う。
「ありがと……」
「頭、真ん中に乗せなさい……私はいいから」
少し体を起こしてそう促す彼女に私はかぶりを振る。
「ううん、私だけ使うのは悪いよ。半分こしよ」
「そ、そう……でもそれって変じゃない?」
そう言いながら、枕に頭を乗せる彼女。
私も彼女も後ろを向くタイミングを失ってしまい、向かい合わせで目を閉じる。
しかし、目を閉じるとどちらのものともつかない心臓の鼓動が、やけに耳をくすぐってくるのであった。
「「……あ」」
私たちは同時に目を開いていた。
「……やっぱりやめましょう!」
彼女は少し大きな声でそう言いながら、枕から頭を離してプイっと後ろを向いてしまった。
しかし、私はその上から覆いかぶさるように回り込み、彼女の顔を正面に捉える。
「んっ……!」
非常に不自然な態勢であったことだろう。
しかし私はそこまでして、彼女のそれを奪うための行動に出た。
「ん……うぅ……んぁっ!」
私はそれを思う存分味わったあと、私と彼女を繋いでいる細い糸が切れるのを荒い息で見届ける。
「……はぁ……はぁ……どう……だった?」
「……はぁ……はぁ……どうって……なにが……?」
私は再びそれを奪うため、彼女に襲い掛かる。
彼女は私を拒もうと、その手で私を押しのけようとするが、私はそれに自分の指を絡め、シーツに押し付ける。
それでも抵抗を続ける彼女は横を向いてしまうが、私は彼女の髪の間から露になった耳たぶにターゲットを変更する。
「ひいっ! ……や、やめさないっ……あっ!」
私と彼女は指を絡めたまましばらくお互いに荒くなった呼吸の音を聴いていたが、彼女は観念したように上を向いて私と目を合わせる。
私はそれに、再び質問を繰り返すのであった。
「……どう?」
「はぁ……はぁ……だから……何が……?」
「んっ……だから……どんな感じがしたかって……」
「……ごくっ……どんな感じって……知らないわよ……」
しかし、その感想は、彼女の紅潮した頬と、半分閉じかけた瞳、そして無防備な唇が物語っていた。
「……私はね……やっぱり……きもちよかった……」
私はそれを再び貪ろうと態勢を変える。そんな私の強引な要求を、彼女は抵抗をすることもなく受け入れるのであった。
暗闇の中で響き渡る湿った音と、ふたりの混じり合った吐息が、互いの求め合う感情を加速させて行く。
――そんな夢の中に居るような時間は、いつの間にか眠りの中に落ちて行き、そして、朝を迎える。
「……おはよう」
彼女は私の目を見ようとしない。しかしその染まったままの頬は、まだ昨夜の余韻を味わっているかのようだった。
「……お、おはよう……ごめんね」
「……なにがよ……」
「えーっと…………布団、濡れちゃったね……」
「……あんたの……せいでしょ……」
「あはは……そうだね、私が干しておくよ……」
「……二度目はないわよ……」
「怖いなあ……珠彩ちゃん」
「もうこのことは忘れなさい……」
「う、うん……ごめんね、私が全部飲んでおけばよかったよね……あはは……」
「……ぐっ! ……あああああああああ!! バカッ!
バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカッ!!
だから捻挫なんてするのよ! 本当に救いようのないバカね!!!
……はあ……はあ……はあっ!」
顔を真っ赤にしてものすごい勢いでまくし立てる彼女に、私はつい身構えてしまうのであった。
「ひいっ……ごめんなさいっ」
「はぁ……はぁ……ぷっ……くすくすくす」
「え?」
「あーはっはっはっは!」
「ど、どうしたの? 急に……」
「ははは……はは…………ふたりだけの……秘密だからね」
「うん……わかった」
彼女は何故か涙を拭いながら続ける。
「……で、気は済んだ?」
「……うん」
「そう、それなら良かった。なんたってあんたは……私のロボット開発の要なんだからね」
私は彼女のその言葉の意味など考えることもなく、その優しい響きを心に刻んでいた。
そして、彼女のためならば自分の命をも捧げられる。そういった感情が私の心に芽生えていることを意識していた。
――一方、私が背を向けてしまった彼女は、もうひとつの研究所でやり場のない感情をぶつけていた。
「御厨博士……いつになったらマン・マシーンは完成するのですか?」
「なんだ、久々に来たと思ったら催促か。急にどうした?」
「いつまでも遊んでいるわけにはいかないんです。
こうしている間にも、労働に心を痛めている人たちが……」
「ふんっ、その言葉、本心なのか?」
「本心に決まっているでしょう! 私は、人々から不幸を取り除くためにっ!」
「おおっ、怖いなぁ……だが、そんなお前の怒った声も耳に心地良いぞ。
お前たちのファーストライブを、研究にかまけてすっぽかしてしまったことが悔やまれるなぁ」
「からかわないでください! とにかく、今の進捗だけでも……」
「いや……すまない。ボディの方は以前よりずっと人体の再現精度が上がっているのだがな……肝心なAIの方が……な」
「……そう、ですか」
「動作に関しても、『VRバイトヘヴン』というゲームを無料で展開して、そのプレイヤーの動きを取り入れることで、人間と遜色ないレベルにまで達している。
だがしかし、やはり成長するAIというのは……届かぬ理想のままとなってしまうかもしれん」
「機械は完全には人間を模倣できないと……?」
「……うむ……ん? すんすん……」
その時、2人の間に、そこにあるはずのない煙の臭いが漂ってくる。
「おい、ここは禁煙だぞ? 誰だ? 今すぐにやめろ」
「……すみません。つい癖で……」
「悠季……!」
「深織ちゃん、久しぶりだね。
……御厨博士、自己成長するAIについて、ボクにいいアイデアがあるんです。
聴いてくれませんか?」
「ほう、それはありがたいな。私にしてみれば藁にも縋る想いという訳だがな」
「それで結構です。素人の意見だと思って聞き流していただいても構いません」
「悠季、アイデアって……?」




