第19話 響け福音、海果つるまで
夏休み、私たちは車に乗せてもらって海に向かっていました。
「このまま道なりに行けばいいのかな?」
「カーナビではそうなってるね」
そう相槌を打つ助手席の悠季さん、運転席では彼女のお姉さん、由乃さんがハンドルを握っています。
「海果音さんっ、これも食べましょうよ!」
そう言って隣の席でお菓子の袋を開ける燈彩さん。さっきから何袋目でしょうか。
私たちは3列シートの一番後ろの席に座っています。
「ありがとう、燈彩ちゃん……ぱりぱり……って辛っ! 燈彩ちゃん、こういうのも好きなんだね」
「あ、辛いの苦手でした?」
「いや、そんなことないけど、燈彩ちゃんにしては意外だなあって」
「そうですかね? お姉ちゃんは辛いの苦手みたいですけど」
「こらっ、燈彩、余計なこと言わないの!」
燈彩さんの前の席から振り返って怒る珠彩さん、ふたりは仲良し姉妹です。
「……はぁ」
そして、私の前の席でため息をついてるのが――
「深織、どうしたの?」
「……ん? いやぁ、せっかくの旅行なのに、隣の席にいるのが珠彩っていうのがね……」
「なにそれ、私の隣じゃ不服だって言うの? 大体これから行くのも私の親戚がやってる旅館だって言うのに」
「まあ、それはありがたいけどね」
「しょうがないじゃない、燈彩が海果音の隣にいの一番に座ったんだから。
大体あんた、いつも海果音にひっついてるんだから、たまには貸してあげなさいよ」
「……はぁ」
外を見て遠い目をする深織。
「くっ……」
珠彩さんが握りこぶしを作り、必死で怒りを堪えていると、目的地の旅館が近付いてきました。
「あー、あそこかな。みんなー、降りる準備してね」
「「はーい」」
由乃さんが旅館の前で車を止めると、珠彩さんの親戚である女将さんが出迎えてくれました。
「皆さんようこそ遠いところまでいらっしゃいました。
あら、珠彩ちゃん、燈彩ちゃん、大きくなったわねー」
「「こんにちはー」」
車を降りる私たち5人。
「じゃあ、私は車止めてくるから」
由乃さんがそう言って再びアクセルを踏むや否や――
「「お、おぇぇぇえええ!」」
車に酔っていた私と燈彩さんは、道端に吐いてしまいました。
「あらあら、大変! 早く涼しいところで休んで!」
「あんたら、車の中でお菓子ばっか食べてるからよ。はしゃぎすぎでしょ」
「お姉ちゃんごめん……おぇっ」
「うぇっ……珠彩さん、ごめんなさい……」
「いいから、早く洗面所行きなさいよ」
「「はい……」」
私と燈彩さんがひとしきりすっきりすると、みんなは2階の部屋で待っていてくれました。
「ごめんね、私の運転が荒かったかしら」
由乃さんが申し訳なさそうな顔でそう尋ねます。
「違いますよ! こいつら、お菓子ばっか食べてたからですよ」
珠彩さんは私たちを指さします。
「あはは、すみません、そういうことです……」
「ごめんなさい……」
私は由乃さんに自分の運転技術への疑いを持たせてしまったことに対して申し訳ない気持ちになりました。
「今日は絶好の海水浴日和ね! 早速海に行きましょうよ!」
張り切って両手を腰に当てる珠彩さん。
その日は朝日が昇る前に出発しましたが、外を見ると太陽は眩しく、そして暑苦しく砂浜に照り付けています。
「よいしょっと……」
そんな掛け声と共に、唐突に深織が着替えを始めました。
「ちょっとあんた! 1階に更衣室があるんだからそこで着替えなさいよ! 恥じらいってものがないの?」
「……え? 私たち女同士なんだから別にいいじゃない」
「それもそうだね」
悠季さんは目を離した隙にスポーツタイプの青い水着に着替えて、頭にシュノーケルをつけていました。
「こいつら……燈彩、海果音、私たちは更衣室で着替えるのよ」
「ああ、いえ、私は水着持ってきてませんから……泳ぐの苦手ですし」
すると、いつの間にか着替えを済ませた黒の三角ビキニ姿の深織が、私の肩を叩きます。
「ん? 何?」
「海果音がそう言うと思ってね。私が持ってきたよ!」
深織は得意げにスポーツブラとショートパンツタイプの白い水着を手にしています。
「え? どういうこと……いや、いいよ、このままで。ほら、それサイズ合わないかも知れないしさ……大体お腹が冷えそうだし……」
「せっかく持ってきたのに? せっかくだから……試してみて欲しいな」
深織が今まで見せたことのないような懇願する目で私に訴えかけます。
「うう……」
そんなこんなで、私と珠彩さんと燈彩さんは更衣室にやってきました。
燈彩さんは可愛らしいフリルのついたピンクのワンピースタイプ、珠彩さんは赤の三角ビキニに、私も渋々着替えを終えました。
「あら、海果音、可愛いじゃない」
「海果音さん、素敵です!」
「あはは……恥ずかしいな……しかしなんでサイズがピッタリなんだろう……ん?」
ふと燈彩さんに目をやると、心なしか窮屈そうなイメージを受けました。
「……私としたことが、ちょっと見誤ったのよ……まあ、大丈夫でしょ」
珠彩さんはバツが悪そうに頭を掻いています。
「ああ、珠彩さんが選んだんですか……そ、そうですね……」
「お姉ちゃん、海果音さん、どうしたんですか?」
「……気にしなくていいわ……さて、日焼け止めを塗ったら海に繰り出すわよ」
旅館の1階には砂浜に面した大広間があり、そこから直接外に出ることができます。
真新しいビーチサンダルをつま先に引っ掛けて、白い砂を踏みしめながら進む私たち。
そこにはもうすでに、深織と悠季さんと由乃さんがパラソルやレジャーシート、椅子などを設置してくれていました。
深織は水着姿の私を見付けると、一目散に駆け寄ってきます。
「海果音、やっぱり似合うじゃない!」
「あー、深織、なんでこれこんなにピッタリなのかな……」
「偶然だよ偶然! あなたには偶然がつきものなんだから!」
深織は笑顔でそう述べますが、全然意味が解りません。
私がげんなりとして深織に写真をパシャパシャと撮られていると。
「あれ? 由乃さんは水着じゃないんですか?」
珠彩さんが尋ねました。
「いえ、私はいいの。もうそんなに若くないし……」
と口にはしますが、その身体は瑞々しく、服の上からでもメリハリが効いていることを伺わせます。
「なんかもったいないですね」
そんな珠彩さんに、私も同調の頷きを返します。
「しかし、絶好の海水浴日和なのに、人が少ないね」
深織が辺りを見回しながら、つぶやきました。
「ああ、それなんだけどね、一応みんな注意して欲しいんだけど、最近この海ではよくない噂が立っててね。
こんなにいい場所なのに、叔父さん叔母さんの旅館にも閑古鳥が鳴いてるみたいで……」
珠彩さんは続けます。
「夜中に海から上がってくる人を見たとか、海水浴してた人がいつの間にか居なくなってるとか……
ただの噂だと思うんだけど、異変があったら教えて」
「わかりました。じゃあ、私は泳ぐのが苦手なので……浜で大人しくしてますね」
「まあ、それが無難ね。泳ぐ人も、あんまり沖の方には行かないように注意して」
「そう……それは興味がそそられるね」
深織は海の方へズンズンと進んでいきます。
「ボクもちょっと行ってくるよ」
悠季さんも深織に続きました。
「あらあら……じゃあ、私は砂の城でもこさえようかな」
「海果音さん、お供します!」
「海果音、燈彩をお願いね。私もちょっと泳いでくるわ!」
珠彩さんは燈彩さんを残して、深織と悠季さんの後を追いかけました。
「……すーっ……すーっ……」
由乃さんは運転の疲れからか、キャンプ用のリクライニングシートの上で寝息を立て始めました。
そんな彼女を尻目に、私と燈彩さんは砂のキャンバスにありったけの想像力をぶちまけます。
「海果音さん、バベルの塔を作りましょう!」
「よしきた!」
そうして、次々と砂の建造物を砂浜に増やしてゆく私たち。
調子付いた私が、和風のお城のお堀に水を引こうと、波打ち際に駆け出してゆくと。
「海果音さん! 危ない!」
その日ひときわ大きな波が迫ってきていたのです。
「海果音さぁぁぁあああん!!」
波が砂浜に打ち付けると共に、私はそれに飲み込まれてしまいました。
「ブクブクブク……あばばばばば」
言葉にならないあぶくを吐き出す私。
そんな私をまた別のものがかっさらいます。
「海果音ちゃん!」
悠季さんでした。彼女は私を抱きかかえ、砂浜まで運んでくれたのです。
「あ、ありがとうございます……けほっ」
「気を付けなきゃダメじゃないか……海果音ちゃん、泳ぎは?」
「で、できません……」
「そうか……」
砂浜にはいつの間にか海から上がっていた深織と珠彩さんが待っていてくれました。
「海果音! 大丈夫?」
「もう、だから気を付けろって言ったでしょ!?」
「かはっ……ごめんなさい」
海水を吐き出しながら謝罪する私に、やれやれといった様子で近付いてくるみんな。
「気を付けなきゃね……さて、みんな、お腹空いたでしょう? お昼にしましょう」
由乃さんに促され、私たちは旅館の大広間に戻りました。
旅館とはいいつつも、メニューにはラーメン、カレー、チャーハン、焼きそばといった海の家めいた品々が並びます。
「すごい……こんなに多彩な料理をマスターしてるなんて……」
私が目を丸くして驚いていると、次々と注文が通り始めます。
「私、豚骨ラーメン」
「私はカレーね!」
「ボクはカツ丼」
「私、スタ丼にします!」
「じゃあ、私は海鮮焼きそばを頂こうかしら」
「み、みんな早いなあ……じゃあ、私は海鮮丼で!」
運ばれてくる料理を平らげるみなさん。
私が海鮮丼の最後の米粒を集めて口に運んでいると、女将さんがスイカを2玉持ってやってきました。
「切る? 割る?」
「「割るーっ!」」
深織と珠彩さんが声を合わせました。
ふたりはなんだかんだ息が合うのです。
「じゃあ、最初は海果音から!」
「海果音さーん、頑張ってー!」
珠彩さんが促し、燈彩さんが応援してくれます。これは期待に応えないと女が廃るってものです。
深織は私のメガネを外し、目隠しをしてくれました。
人間、視覚を閉ざされると、他の感覚が敏感になると言われますが、なるほど波の音が大きく聞こえます。
私は深織に何回か回されたあと、木刀を持ち、どっちだかわからない前を目指して進みます。
「右右右!右!右右!」
「深織、うるさい……」
そんなに右に行ったらまた回転してしまいます。
しかし、私にはスイカの声が聴こえます! 大丈夫です! ……嘘ですけど。
「うう……こっちかな……」
「海果音さーん! そのまま真っ直ぐー! そこ!」
燈彩さんは素直でいい子です。嘘は言っていないでしょう。
私は木刀を思い切り振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろしました。
「えいっ!」
「ボコッ」という音がしました。確かな手ごたえがあります。
私は目隠しを取ってスイカを見ると――ちょっと皮がへこんでいるだけで、割れていませんでした。
「海果音ったら、非力ねー」
珠彩さんがクスクスと笑いました。
そんな珠彩さんは思い切り空振りして砂をまき散らし、燈彩さんは目を廻して倒れてしまいました。
「じゃあ、ボクの番かな」
悠季さんが名乗りを上げます。
彼女は10回転させられた後も平衡感覚を失わず、スイカに見事な兜割りを炸裂させました。
「おー、まっぷたつ! すごいですね、悠季さん!」
私が拍手をしながら悠季さんに羨望の眼差しを送っていると、深織は2つ目のスイカを設置し始めました。
「私もいいとこ見せないとね」
「ほぇ?」
「悠季には負けてられないってこと」
「はぁ」
私は悠季さんが割ったスイカを更に割り分けたものを食べながら深織を見守ります。
しかし、深織がスイカを割ったところで食べきれるのでしょうか? その辺が心配です。
「いくよ、悠季、回して」
悠季さんは目隠しをした深織の身体をぐるぐる回します。
10回転ほどしたあと、深織は木刀を持ちました。
「……」
深織は木刀を片手に持ち居合のようなポーズで腰を深く落とし、息を整えます。
「スゥ……シェァァァアアア!!」
深織は掛け声と共に横に一回転。
すると、スイカは横に真っ二つに切れ、上半分が宙を舞い、断面を上にして着地します。
「ふぅ……」
真っ直ぐに立ち、目隠しを取る深織、彼女はスイカを見て安堵していました。
「す、すごいよ深織! まっぷたつどころか、刃物で切ったみたいに綺麗に切れてるよ! しかも横に……」
「えぇ……そんなバカなこと……」
珠彩さんはスイカの断面をまじまじと見つめます。
「いや、これ、種まで綺麗に切れてるじゃない……そんな非常識な……」
それは、あらかじめ包丁で切っておいたのではないかと疑わしいほどでした。
「木刀でそこまでできるなんて、深織ちゃんは何かやってたのかい?」
悠季さんも驚いているようです。
「いろんなお稽古をしてるからね……ふふんっ」
お稽古してるからとかそういう次元を超えていると思います。
大体スイカ割りで横に切るという発想をする人なんて、彼女以外に存在しないでしょう。
その後、私たちはスイカを平らげたあと、しばらくビーチボールなどで遊んでいたのですが、15時くらいにはみんな疲れて旅館の大広間で寝てしまいました。
「……ん? ふぁぁぁぁ……」
打ち寄せる波の音が気になって起きた私が、大きなあくびをして時計を見ると時間は17時。
みんなはまだスヤスヤ寝ています。
それもそのはず、みんな日が昇る前から全力で活動していたので無理もありません。
私は皆さんをそっとしておいて、ぼんやり砂浜を歩いて行きました。
しばらく歩くと、砂浜は途切れ、岩場に辿り着きました。
私が潮だまりを覗き込むと、小魚やカニなどが岩の影に逃げてゆきます。
「おおっ! 熱帯魚だ!」
そこには、寒くなるまでそこに閉じ込められ、儚く消えて行く熱帯魚たちが泳いでいました。
海に逃がそうと手ですくおうとしても、一目散に逃げてゆき、私には動きを捉えることができません。
「うーん、自然の摂理とはいえ、ちょっと悲しいな……」
すると、潮だまりの中に、珍しい生き物を見付けました。
「う、ウミガメ? 小さいけど、子供なのかな?」
ウミガメは私から逃げずに、その手に収まりました。
「こいつもこのままじゃ海に帰れないだろうから……」
私はそのウミガメを海に放すと、耳慣れた声が聞こえてきました。
「海果音ー、海果音ー!」
その声の主は普段着に着替えを終えた深織でした。
「あー、深織、起きたんだね」
「うん、そろそろ夕飯だってさ」
夏は日が長いので気付きませんでしたが、私は1時間ほど潮だまりをうろうろしていたようです。
私が深織に連れられて砂浜を戻る途中、何か固い物を踏みつけてしまいました。
「いてっ」
「大丈夫?」
「ああ、いや……巻貝だね」
私は足元のそれを拾い上げ、なんとなく耳に当ててみました。
ざざーん……ざざーん……
「……海果音、海果音?」
「ああ、ごめん」
私は足を止めて、しばらくその巻貝から響く音に聴き入っていたようです。
深織の声も心なしか遠くから聞こえています。
私が旅館に戻ると、みんな着替えを終えて2階の部屋で談笑していました。
「海果音さんも食べませんか? おいしいですよ!」
「あ、海果音、おかえりー。早く着替えてきなさいよ」
燈彩さんと珠彩さんはしゃくしゃくとかき氷を食べていました。
私は手に持っていた巻貝をリュックに入れ、1階の更衣室で着替えを終えました。
大広間にはすでにみんなが集まっており、テーブルには料理が並んでいます。
私たち6人は、エビ、カニ、刺身などの山盛りの海鮮を堪能し、みんなで露天風呂に入った後、浴衣に着替え、布団に入りました。
「うーん……」
私は夜中に起きてしまいました。
時計を見ると時間は午前2時を回っています。
どうやら私は今日、みんなと時間感覚が合わないみたいです。
私は波の音につられて、浴衣のまま波打ち際まで歩いて行きました。
ざざーん……ざざーん……
つま先に波が触れるか触れないかの位置に体育座りして、月が照らしだす海面を眺める私なのでした。
ざざーん……ざざーん……
どれくらいそうしていたでしょうか。
海面に反射する月がふっと消えたように思えて、私は目を上げました。
「……!」
そこにはなんと人が立っていたのです。
月の光の中、そのなだらかなシルエットは、それが女性であることを示していました。
「あなた……だね」
「えっ……」
月に照らされて見えたその表情は、憂いに満ちており、その視線は、私に微かな期待を見い出すようなものでした。
彼女は体に半透明の寒天のような衣を纏い、その髪の先からは雫がこぼれ落ちています。
「あ、あなたは……?」
「言葉が通じるんだね、良かった。
私は……ミルフ。あなたは……海果音?」
「なんで私の名前を?」
「それは……あとで話すよ。実はあなたにお願いがあるの」
「お願い?」
「……うん、海果音、あなたに……救世主になってほしいの」
「きゅ、救世主!?」
「さあ、一緒に来て」
彼女は座っている私の手を掴みました。
その手は意外にも暖かく、そして、指の間に膜のようなものが備わっていました。
「え?」
ざざーん……ざざーん……
私の頭に響く波の音は徐々に大きくなり、私の手を引いて海へ進んで行く彼女には、何故か抵抗することができませんでした。
水位はすでに首のところまで来ています。浴衣はすっかり水に漬かっています。
「あ、海果音、これを口に入れて」
そう言って彼女はマウスピースのようなものを差し出しました。
「大丈夫、それがあれば水中でも息ができるから」
「は、はい」
そのマウスピース状のものを噛み締めると、じゅわっと空気が溢れてきます。
なるほど、これが酸素ということですね。
気付くと私は全身水中に浸かっていましたが、息苦しくはなりませんでした。
私の手を引いて器用に泳ぎ、潜って行く彼女は、人間の形をしてはいましたが、元々水中で暮らす生き物のように感じました。
「ふふ、意外って顔してるね」
急に頭の中に声が響きます。
「あ、びっくりした? あなたもできるようになってるよ。念話」
「ね、ねんわ?」
「ほら、できたじゃない。
あなたが砂浜で拾った貝殻、あれが念話のマテリアルでね……あ、マテリアルってのは私たちの社会で使われている機械のことね。
私たちの言葉が互いに理解できたのもあれのお陰なんだ。
私たちはこの海底に社会を築いて住んでいるの。
それでね、念話のマテリアルは耳に当てると脳に念話……というか、言葉を水中で響く超音波に変換したり、その変換された超音波を解読するプログラムを植え付けるんだ。
だからあなたは砂浜まで導かれた。
でも、みんな簡単に念話に適応できるようになる訳じゃなくて、向き不向きがあってね。
向いてない人はマテリアルを使い続けないと念話ができないの。
でも、あなたはすぐに念話に適応してみせた。その点でもあなたは救世主に適しているんだ」
「は、はぁ……」
「そのうちわかるようになるよ」
彼女は海底のぼんやりとした光に向かって一直線に泳いで行きます。
よくよくみるとそこには洞窟があり、その中にも電灯のように点々と等間隔に光が並んでいました。
「そろそろつくよ」
洞窟を進んでゆくと、急に空気のある空間に出ます。
そこには小さな家のようなものが立ち並び、洞窟の天井にも街灯のような明かりが並んでいました。
「海底にこんな街があるなんて……」
「しっ……今はみんな寝てるから、こっちが私の家」
私は彼女に手を引かれるまま、彼女が自宅と称するサンゴのような岩を組み合わせた小屋に連れ込まれます。
「さて……救世主さん」
彼女は私をベッドに座らせて、懇願するような目で訴えます。
「お願い、私と……子供を作って欲しいの」
「えっ? こ、子供?」
「お願い! 作り方、知ってるんでしょ? 地上の人なんだから!」
「いや、知ってるけど……いやあ……でも、ほら、私もミルフさんも女ですし……」
私は頬を赤らめて彼女から目を逸らします。
「やっぱり知ってるんだ! ほら見て、この、地上から流れてきた本に書いてあったんだ」
彼女が手にしているのはマンガでした。
よく見ると、本、絵画、彫刻、骨董品など、その部屋にはそこら中に地上のものが置かれています。
私が彼女の訴えかけるような目に屈してしまいそうになります……いやでも、それに応えることはできないのですが。
「そこまでにするんだ」
その声は、小屋の外から聞こえてきます。
「くっ……テトラね……」
そこには40代と思しき女性が立っていました。
彼女も寒天のような衣を纏っています。
「まったく、地上のものを集めてると思ったら、やっぱり汚染されてたんだね」
「汚染だなんて、ここにあるのはみんな素晴らしいものだよ。
こういうのを芸術っていうんでしょ?」
ミルフさんは私を見ました。私はついつい頷いてしまいます。
「地上の人に接触してはいけないと、ずっと言いつけてきたのに……」
テトラさんはミルフさんを軽蔑したような目で睨みつけました。
ミルフさんはそれを受け、語気を強めます。
「だって、このままじゃ私たち、滅びてしまうんでしょ!?」
テトラさんはそれに対し、目を伏せたまま思いつめたような表情を見せます。
「滅びる? ど、どういうことですか?」
私の問いかけに対し、テトラさんはしばらく考え込んだ後、たどたどしく口を開きました。
「そうです、私たちの種族は……もうすぐ滅びます。
……ですが、それでいい、それが自然の摂理なんです」
「いい訳ないじゃない! なんでテトラもみんなも諦めてるの?」
「ミルフ、あなたは勘違いをしている。
……海果音さん、でしたか。
少し私たちの話を聴いて下さいませんか?」
「は、はい」
私は困惑しながらもテトラさんの話に耳を傾けます。
「大昔、私たちとあなたたち地上人は同じ種族でした。
人間は皆海辺……というよりも陸地に近い海中に住んでいたのです。
ですが、人間は増えすぎてしまった。
だから、当時位の高い人間は海中に、立場の弱い人間ほど陸地に近い場所に住むようになりました。
位の高い人間というのは、知能と体力が高く、高度な技術力によってさまざまなマテリアルを発明するような者たちです。
立場の弱い人間たちは海を捨て、陸地に生活の場所を求めて旅立っていった。それがあなたたちの祖先なのです。
それは、人口増加への対策として、海中に住む私たちの祖先が、あなたたちの祖先に陸地は豊かであるとそそのかしたからなのです。
それもそのはず、人口が増えるのは、立場の弱い人間たちが無計画に子供を作り続けるからでした。
海中の位の高い人間は、人口の増加が自らの種族を滅ぼすということを予測し、積極的に繁殖を行わなかった。
それは今もそう。私たちはこの自然の摂理の一部として、突出することを避け、穏やかに暮らすことを是としています。
私たちはこの自然の中で、マテリアルの力を使って地上人から姿を隠し、住居を転々として生活しています。
この簡易な住居も、すぐに生活の場を移すのに都合がいいからです。
自然というのは流れがあります。具体的に言えば、食料や資源が豊かに存在する場所と言うのは、時と共に場所を移します。
私たちはその流れに乗って生きているのです。
ですが、その流れを無視するものが現れた。それがあなたたち地上人なのです」
「それって私たちが自然を侵略しているってやつですか?」
「そうとも言えます。あなたたちの祖先はいつの間にか船や飛行機を開発しました。
あなたたちの道具と、私たちのマテリアルの違いは、自然の流れに逆らうものか、それに従って利用するものかという点です。
あなたたちはそれを使って自然を切り拓き、地上の至る所に勢力を伸ばし、農業と工業と文化を育みました。
そうしている間にも、私たち海底に住む人々は無駄に人口を増加させることはなく、自然における立場をわきまえて生活していたのです。
私たちの種族の部族は点々と存在し、ひとつの部族は150人を超えないように人口を調整していました。
そして、人口を無駄に増やさないからこそ、生まれた子供には、直近で亡くなった者の名前と役割を受け継がせる。
私たちにはあなたたちのようなファミリーネームを持ちません。
それは、あなたたちで言う家族に相当するものが、最大150人の部族ということと、パートナーを独占しないということもありますが、名前だけで個人を一意に識別できる人数に留めているからです。
そこにいるミルフは、代々その名前と役割を受け継いでいます。
今、この部族で最年長である私もそう……」
「さ、最年長!?」
まだ若々しさを保つその姿はとてもそうは見えませんでした。
「私ももう40年以上生きています。
あなたたちの常識ではそうではないのかもしれませんが、私たちの種族では、そろそろこの世を去る年齢なのです」
「そ、そんな!」
「私たちの種族では、無駄に長生きすることを良しとしません。
それどころか、この世界に生きることを呪いとして、そこから解き放たれることを福音として捉えています。
しかし、人は生まれたからには役割を果たす義務があるとも捉えています。
そして、私たちには計画死という制度があります」
「けいかく……し?」
「死ぬまでのスケジュールを立てることです。
私たちの社会では、マテリアルを使うことで安全に苦しまず死ぬことができます。
ですが、それは自分で立てたスケジュールを部族の皆に認めてもらい、それを全うした時なのです。
私たちとあなたたちはそもそも、死に対する考え方が違うのです。
私たちの社会では、その社会に損害を与えるようなことをした人間は、すぐに誰かに殺されてしまいます。
ですが、それでいいのです。だからこそ、皆がその社会全体の利益を考えて行動できるのです」
「じゃあ法律は?」
「地上人にはそのようなものがあるそうですね。聞き及んでいます。
ですが、私たちはそう言ったものを必要としていません。
しかし、ただひとつ明確な掟がありました。それが、地上人と接触してはいけないというものです」
「それは、何故ですか?」
「それは、今の現実が物語っています。
今この部族には、私とミルフを含め、もう5人しか残っていないのです」
「えっ! ……それはどうしてですか?」
「この部族はじきに滅びる。それが自然の流れならば仕方のないことですが、それを加速させたものがあった。
それが、この部屋に散らばっているような、あなたたちの文化のかけらなのです。
文化のかけらは人々の心を魅了しました。しかし、それは私たちの死生観を覆すものだったのです。
だからこそ、この海底の生活に絶望したものは、計画死ではなく、その役割を果たす前に衝動的に死を求めてしまうのです」
「違う! 私は地上の文化のかけらを見て、子孫を残し、種族を繁栄させるべきだって思った!
だって、繁栄すれば、多様化された種族は新しい文化を生み出すことができる!」
ミルフさんはテトラさんに食って掛かります。
「ミルフ、皆最初はそう考えるのだ。だが、この種族の現実はそれを許容しない。
利己的に遺伝子を残すことに反対する者は多い。
それを押し切ってでも強行する者を生かしておくほどこの社会は優しくないんだ。
皆すぐにそれに思い至る。だから、未来に絶望するんだ。
それに、さっきも言ったが、ミルフ、あなたは勘違いをしている」
「何を?」
「私はあなたに、子供を作るためには同年代のパートナーが必要と諭した。
だが、それは半分だけなんだ」
「半分?」
「そう、半分、子供を作るにはもう半分の性、男性が必要なんだ!」
「だん……せい?」
そんな当たり前のことと私が思っていると、テトラさんはこちらを見つめ、更に説明を続けました。
「男性は文化に汚染されやすかったのです。
私たちの社会は女性優位社会でした。
それは、武骨な男性よりも、皮下脂肪を蓄えやすく、体が曲線を描く女性の方が海の中の生活に適していたからです。
男性は筋力に優れ、その役割を全うすることで矜持を保っていました。
しかし、文化に触れた男性は、文化の中で生まれた架空の人間、あなたたちがキャラクターと呼ぶものを見て気付いてしまったのです。
女性は美しく魅力的であり、そこにいるだけで存在意義を持っている。
対して男性は、役割を果たさなければ存在する意義がないということに!」
「それで……自ら死ぬことを?」
「そうです。男性は皆、その好奇心から文化のかけらを集め、それに影響を受け、自分が不完全な生物であると落ち込み、そして絶望して死を選ぶ。
ミルフの父はそれに耐えていましたが、ミルフの母がミルフを生み、亡くなったことでその命を絶ちました。
彼はこの部族における、最後の男性だったのです。
ミルフの母が出産に耐えられず息を引き取ったのも、私たちの種族が、もう出産に耐えられないほど退化しているということでもあるでしょう。
そうして私たちはこのまま滅ぶこととなります。
ですが、私たちはその流れに逆らうようなことはしません」
「そうですか……なんか、悲しいですね」
「そうでしょうか? 個人にとっては種族の繁栄と幸せに関係がありません。
あなたたちが家畜と称して様々な動物を、自然の中では決してできないほどの繁栄をさせていますが、彼ら個々は狭い場所に閉じ込められ、幸せを感じているとは思えません。
それと同じことです。人間として、個々の幸せを尊重するなら、無理に繁栄をすることはないのです。
まあ、この状況では繁栄しようとしても、もう滅びを待つことしかできませんがね」
「でも、地上からその男性っていうのを連れてくれば……」
ミルフさんは藁をも掴むといった表情で訴えます。
「ミルフ、あなたにはまだ教えていないことがある。
それは……私たちと地上人の遺伝情報は、もう子孫を残せないほどかけ離れてしまったということだ」
「えっ……それってどういう?」
ミルフさんはその意味を理解しかねているようでした。
「ミルフさん、私たちとあなたたちはもう、違う動物だってことですよ……」
その時、ミルフさんの顔は悲痛に歪みました。
「そ、そんなっ! だって、おんなじ人間でしょ!? あのウミガメを助けた、心優しい人間でしょ?
私たちと同じじゃない! そんなのってないよ!
……こうやって言葉も通じるし、身体だって、私たちと似てるのに……」
ミルフさんもテトラさんも、女性然とした体系ではありましたが、ふくらみが緩やかで、確かに私の体形に似ているものでした。
これも、水中の生活に適応するための進化なのでしょう。
「海果音さん、あのウミガメは地上を偵察するために作られたマテリアルだったのです。
ミルフはそれを助けたあなたの心に惹かれたようですね……」
「そ、そうでしたか……ミルフさん、ごめんなさい」
「なんで、海果音が謝るんだよ!」
「だって、私たち地上人があなたたちの種族を文化によってそそのかし、私はあなたをそそのかした……
その心を弄んだんです……それはいけないことです」
「海果音さん、それはお互い様です」
「お互い様?」
「最初にあなたたちの種族をそそのかして地上に進出させたのは、私たちの種族です。
私たちは今、その報いを受けているのかもしれません。
それでいいのです。それが自然の摂理だったのです」
「テトラさん……」
テトラさんはその言葉とは裏腹に、とても悲しい表情をしていました。
「しかし、何故私にそのような話を?」
「それは、海果音さん、あなたがミルフの心を動かしたからです。
私たちにとっては地上人のことなど全て他人事です。
ですが、ミルフが見初めたあなたはもう他人ではありません」
当のミルフさんは、消沈して下を向いていました。
「あなたがどう考えているかはわかりませんが、私たちのことを知っていただくことで、あなたとあなたの周りの人の幸せについて考えて頂こうかと思ったまでです。
私たちはこのまま滅びてしまうでしょうが、あなたたちはそれを避け、繁栄し続ける権利がある。
それに、そうですね、あなた方地上人が、自然を侵略し続けることによって、自らの首を絞めているということも忠告しておきます」
「わかりました……」
「……さあ、海果音さん、あなたはあなたの世界に戻って下さい。
これに両手でつかまれば、砂浜まで運んでくれます」
私はテトラさんから、あの小さなウミガメのマテリアルを受け取りました。
「さあ、早く、そうでないと、ここの他の者に見つかった時、殺されてしまいますよ。
あなたはこの社会に損害を与える存在として認識するに足るものです」
「それで、ここの海ではあんな噂が……」
「はい……ですが、私たちは明日にはここを発ちます。
これより先、あなたたち地上人に危害を加えることはないでしょう」
「そうですか……」
そうして私は、ウミガメのマテリアルをビート版状に持ち、その洞窟を後にしました。
しかし、洞窟の出口に差し掛かった時、ミルフさんに呼び止められます。
「海果音、これ」
その手には、私が砂浜で拾ったあの巻貝と同じような物を持っていました。
「ありがとう……あと、ごめんね」
ミルフさんは巻貝を渡しながら謝罪を口にしました。
「こちらこそ、ごめん……ミルフさんとあなたたちの種族のこと、忘れないよ」
ミルフさんが小さく頷くと、ウミガメは砂浜に向かって加速してゆきます。
最後に見た彼女の顔は、少し微笑んでいるように見えました。
――そして、気付くと私は砂浜に寝ていました。浴衣姿のまま。
朝日に目を覚ました私は、目の前に懐かしい顔を捉えます。
「あ、深織……おはよう……って顔近くない?」
「ああっ、海果音、起きたんだね! よかったー! 起きたら居ないんだもん!
そしたらこんなところで寝てて……心配させないでよね!」
深織は何故か激しく慌てている様子でした。
「立てる?」
彼女はそう言うと、私の手を引きます。
「ん? 何これ? 綺麗だね」
彼女が私の手に握られている巻貝を見付けます。
「ああ、これ? これはミルフっていう子がね……」
私はそう言いながら、その巻貝を耳に当てました。
すると――
ざざーん……ざざーん……
「……!」
私の頭の中に電流のような衝撃が走りました。
「海果音、どうしたの? 大丈夫? ミルフさんって?」
「ミルフ? なんのこと?」
「え、だって、海果音がそう言って……」
「いや、初めて聞く言葉だけど……あとで調べてみようかな」
私と深織はお互いにお互いを訝しんだあと、砂浜を後にします。
しかし、その道すがら、ふと海の方を振り返ると、眩しい朝日が照り付けていました。
「……朝か……ん?」
私は波打ち際にマウスピースのようなものを見付けました。
私はそれが気になって仕方がありませんでしたが、すぐに波に飲まれて消えていきます。
そして、深織に手を引かれるまま、みんなが待っている旅館に戻りました。
「あら、あんたたち、また仲良く手なんて繋いじゃって」
珠彩さんが迎えてくれます。
2階の部屋ではみんなが宿を発つ準備をしていました。
私も自分の荷物を片付けていると、手に持っていた巻貝とは別に、リュックの中にもうひとつ巻貝があることに気付きます。
「あれ、こんなの入れたっけ?」
よく見ると、2つの巻貝はよく似ていましたが、巻いている方向が逆になっています。
私はその2つの巻貝に得も言われぬ恐怖を覚え、耳に当てることに激しく抵抗を感じました。
そして、帰宅後。
「M……I……L……F……検索っと…………ええええっ!!」