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第17話 弱く儚いモノたち

 それはある冬の日の放課後のことでした。


「さて、海果音(みかね)、行こうか」


 教室ではいつものように、深織(みおり)が私を部室へと促します。

 しかし、その声は遥か遠く、私には届いていませんでした。


「……」


「海果音?」


 ようやく届いたその声は、私の身を案ずるようなイントネーションでした。


「……ああ、ごめん、ちょっとボーっとしてた。行こうか」


 そして立ち上がり、深織の後について廊下を歩く私。

 振り返った彼女は、私に問いかけます。


「海果音、今日はなんか顔色悪くない?」


「え……そうかな? 言われてみればちょっと寒気がするかな」


 私は両腕で自分の身体を抱え、手の平でさすって見せました。


「大丈夫?」


「うん……大丈夫……だと思う」


 気付けばそこは部室の前。瞬きをした私の眼前には、世にも珍しい景色が広がっていました。


「あ、深織、パンツ見えそうだよ……ははは」


 深織のふとももとスカートの裏地が、彼女が普段見せないはずの隙を感じさせます。

 私の見ている世界は、彼女を中心にぐるぐると廻り始めました。


「海果音!」


「どうしたの? み、海果音っ!」


 珠彩(しゅいろ)さんの声がします。私の名を呼ぶその声からは、彼女に秘められた優しさを感じることができました。


「海果音ちゃん!」


 悠季(ゆうき)さんの声もします。彼女でも取り乱すことがあるんですね。


「とにかく保健室に!」


 なるほど、理解できました。体の右側がやけにひんやりすると思ったら、私ってば倒れていたんですね。

 深織は私をおんぶして保健室へと向かいました。彼女の背中から感じる温度差は、私に熱があることを気付かせてくれました。


「39度!?」


 驚く珠彩さんの声がします。私は保健室で熱を計ってもらっていたようです。

 人は体温が42度を超えると死ぬって聞いたことがありますが、あと3度、惜しいところでした。


「今、姉さんを呼んだよ。海果音ちゃん、しばらく横になってていいよ」


 悠季さんには歳の離れたお姉さんがいるそうです。

 お姉さんは研修医、所謂医者の卵をしているそうで、悠季さんのお父さんの病院に勤めていると聞いたことがあります。

 私は保健室の真新しいシーツに横になると、気付けば車のシートに揺られていました。

 両隣には深織と珠彩さん、前方の助手席には悠季さん、そして、運転席には、悠季さんと同じ薄い青色の髪をした、大人のお姉さんが居ます。

 彼女は悠季さんとは違い、髪を長く伸ばし、その美しさを際立たせていました。


「あなたたちが悠季のお友達ね。初めまして、私は由乃よしの。病院までは10分くらいだから、もう少し我慢しててね」


「……は、はい」


 自分でも何に対する返事をしているのかわかりませんでした。

 ただわかるのは、自分の身体が尋常ではなく熱い、それだけでした。


「とりあえず、インフルエンザの疑いがあるから検査するね」


 気付くと私は丸い椅子に座っていました。さっきから記憶が途切れ途切れになっています。

 ここは悠季さんのお父さんの病院なのでしょう。

 由乃さんは長ーい綿棒を手に持ち、私の鼻の中に突っ込んできました。


「……いて」


「ごめんね、ちょっと待ってて。とりあえず、マスクしておいてね」


 メガネが曇っています。鼻の頭がかゆくなってきました。

 不織布製のマスクから漏れる私の息は、鼓動が早くなっていることを伺わせます。

 それから5分ほど座っていたでしょうか。由乃さんが戻ってきました。


「海果音さん、やっぱりあなたはインフルエンザウイルスに感染しているわ」


「な、なるほど、道理で身体が熱い訳ですね……なんか関節も痛いです」


「薬出すから、それを使ったら帰宅して、明日から1週間は外出禁止です」


「はい……」


 私は言われるがままに、プラスチックのケースに入った粉薬を鼻から2回吸引しました。

 それからのことはよく覚えていませんが、私はまた車に乗せてもらって帰宅したようです。

 駐車場から道路に出る車の窓からは、病院の前に佇み、心配そうな顔をした3人が見えました。


「あの子たちにうつしちゃマズいからね。家まで送るわ」


 由乃さんは車で私の家まで送ってくれました。

 連絡を受けていたらしきお母さんは、すでに氷枕を用意して待っていてくれました。

 翌日、学校では、校内でインフルエンザの感染者が出たことから、校舎と、校舎に出入りする人の消毒を徹底することとなったようです。

 アルコールの匂いに満たされる校舎は、非日常的な雰囲気を醸し出しています。

 その日の放課後、私が居ない部室では――


「海果音がインフルエンザだったなんてね。まあ2月だしね、私たちも油断できないわ」


「深織ちゃん、授業中はなんか異変はなかったの?」


「……うーん、海果音は何故かそういう時に我慢しちゃうから、気付けなかったよ……なんかショック」


「でも、学校も大袈裟よね。インフルエンザがひとり出ただけで消毒を徹底するなんて」


「しょうがないよ……感染したのが海果音だったから」


「感染したのが海果音ちゃんであることと、消毒を徹底することに関係があるのかい?」


「ああ、いや、なんとなく……あはは」


 深織は「しまった」という表情で口に手を当てて、苦笑いを浮かべて誤魔化しました。


「しかし、大袈裟と言えば、明日は全生徒がインフルエンザの検査を受けるんですって?」


「ああ、そうだよ。明日姉さんも来るって言ってた」


「まあ、念には念を入れてってことだろうけどね」


「でもさー、そんなに徹底するなら、普段から対策しておくべきよね」


「確かにね。でも大抵のことは起こってから対処されるのが常なんだよね。

 たまたま起こってないだけなのに……起こらなきゃ予防しなくていいってもんじゃないでしょうに。

 発生する前に異変に気付くような仕組みを作るとか」


 深織は何故か何に向かって怒っていました。

 その翌日、そんな彼女は、教室で異変を察知します。


「おはよう、星野さん」


「おはよう~」


 クラスメイトのふたりが、深織に挨拶をしました。


「おはよう」


「あれ、星野さん、星野さんの前の席の子って、今日は来てないの?」


「いつも星野さんと話してる……なんて言ったっけ……」


「ああ、海果音ならインフルエンザで自宅療養してるよ」


「え、インフルエンザの感染者が出たのってうちのクラスだったの?」


「知らなかった~」


「……ところで、ふたりはなんで手を繋いでるの?」


「「え?」」


 深織と会話を交わすふたりは、互いの手の平を合わせて指を絡ませる、所謂恋人繋ぎをしていました。

 その手は偶然とは言えないほどに、ぎゅっとお互いを確かめ合うように固く握られていました。


「いや……なんとなく?」


「……ねー」


「……ふーん」


 深織がそう言って頬杖をつきながら辺りを見回すと、他の生徒たちもちらほらと恋人繋ぎをしています。

 そうでなくても、お互いのパーソナルスペースを侵害することを望んでいるかのように、距離の近い生徒が目立っていました。

 その時、教室の扉が開き、先生が現れます。


「さて、みなさん、これから全校生徒でインフルエンザの検査をします。私についてきてください」


「やったー、1時限目の授業お休み?」


 ひとりの生徒が歓喜の声を上げます。


「そうね、でも浮かれてちゃダメよ。緊急事態なんだから」


「はーい」


 そうして、その日は1時限目を返上して、全校生徒がインフルエンザの検査を受けました。

 その日の放課後、部室にて――


「なんかみんな、ちょっと顔が赤いし、怪しげな雰囲気だったよね」


 深織は珠彩さんと悠季さんに同意を求めます。


「ふーん、言われてみれば、やたら距離の近い子が多かったわね」


「確かに。なんかそういうのが流行ってるのかな?

 それと関係あるかはわからないけど、さっき姉さんから、ほとんどの生徒から共通の何かが検出されたって話を聴いたよ」


「共通の何か? インフルエンザじゃなくて?」


「まだ断定できないけど、インフルエンザにかかってるのは誰もいなくて、その何かはかなり珍しいケースみたい。

 今、調べているところだから、明日にはあたりがつくって話だよ」


「そう、私たちは海果音とこの部室に居たから、インフルエンザになってるかと思ったけど、それもないのね。

 特に深織、あんた、普段から海果音に近付きすぎなのよ」


「そ、そうかな?」


「あんまり言いたくないけど、私さ、今日のみんなみたいに、女子同士でやたら距離が近かったり、手を繋いだりするのって、見てるだけでも苦手なのよね」


「なんで?」


「海果音とあんたはまあそこまでの関係ではないかもしれないけど、そういう関係ってさ、基本的な生命活動から外れるものだと考えてるの。

 異性愛って言葉があるでしょ、あれって同性愛って言葉の後に生まれたレトロニムなのよ。

 でもそれは、普通と言うべきところを、同性愛と同等のものとして扱うためにそうしたんだと、私は思うのね。

 つまり、同性愛も普通だって、そう言いたいんだろうけど、それが普通ってことになると、生物が繁栄することに差支えが出るんじゃないかって。

 まあ、それがある意味の生存戦略だっていう話もあるわ。

 例えば、女性にモテる遺伝子を持っている者は、男性に生まれた時は子孫を残すということに最大限効果を発揮する。

 でも、女性に生まれてしまったら、それは、その個人にとっては不幸なことだと思うの。だから、私はそういうのを笑って見てられない」


 しかし、深織はそう語る珠彩さんに異を唱えます。


「だけど、あらゆる生まれてきた生物は、個体の特性に関わらず、皆平等に生きる権利を持っているんじゃないかな。

 そんな、不幸だなんて他人が勝手に決めるのは傲慢だと思う。

 私は、多様性を認めて、みんなが平等に幸せになるような世界になればいいって思ってる」


 珠彩さんは少し黙った後、諭すように続けます。


「そう、でもね、生物の、遺伝子の目標はただひとつ、環境に適応して生き残り、子孫を残すことなの。

 その原則を外れるものは、淘汰されたとしてもそれを受け入れるしかないわ」


 深織と珠彩さんは沈黙し、身動きも取らないまま、考えを巡らせ、そうして時間が過ぎてゆきます。


「……深織ちゃん、珠彩ちゃん、今日はもう帰ろうか」


 そうして3人は沈黙を守ったまま部室を後にしました。

 次の日の放課後、また部室にて――


「今、姉さんが職員室にいて、この学校で起きている状況を説明しているんだって」


「そうなんだ、何が起きてるんだろう……まさか、あれと関係が……」


 深織が思考を巡らせていると、部室のドアが開きました。

 そこに現れたのは――


「……姉さん、どうしてここに?」


 悠季さんのお姉さん、由乃さんでした。

 白衣を着た彼女は、神妙な顔で3人に視線を向けます。


「教職員の方に伺ったの。ここがあなたたちの部室ね。あなたたちにはちょっと話しておこうと思って」


「なんでしょうか?」


「昨日、悠季には言ったけど、この学校の生徒はほとんどが共通の症状があったの。

 それは、あるウイルスに感染していたことよ。

 そのウイルスはね、10代の女性にだけ感染するの。

 だけど、あなたたち3人だけはその症状が無かった。

 それでね……そのウイルスに感染した症状が、その……」


 彼女は一瞬言いよどみますが、軽く深呼吸をしたあと、意を決したように口を開きます。


「同年代の女の子との濃厚な接触を求めるようになるの……」


「女子と女子……ってことですか? 濃厚って……きんもちわるいわね」


 由乃さんの言葉を聴いた珠彩さんは、顔をしかめながらそう言いました。


「なるほどね、合点がいった。それでみんなの距離がやけに近かったわけだ」


 悠季さんは納得したようです。


「それで、どうしてそんなことになったのですか?」


 興味をそそられた様子の深織が、由乃さんに尋ねます。


「そのウイルスはね、普段はとっても脆弱なウイルスで、人体に害を及ぼすことはなく、ひっそりと生きているの。

 でも、そのウイルスにはアルコールに対する非常に強い耐性があるの。

 他のウイルスは、例え強いものであっても、大抵アルコール消毒によって死滅するわ。

 この学校ではアルコール消毒を徹底した。だから、ウイルスも、雑菌もほとんど居ない、ある意味とても異常な環境となった。

 その環境の中で問題になっているウイルス……通称ユリウスはその勢力を急激に拡大したの」


「ユリウス? カエサル?」


「確か最初は女子高の校庭でその症状が観測されたとかで……便宜上そう呼んでるだけなの、気にしないで。

 他のウイルスや雑菌の居ない環境で、ユリウスの及ぼす影響が最大化した時、それは、女子同士の濃厚接触として猛威を振るうの。

 ユリウスはね。複数の遺伝子の間を行き来して変化を繰り返すことで、その増殖をやっと維持できるという特性をもっている。

 つまり単体の生物に感染しても、そのうち消えてしまう。それほどに脆弱なウイルスなの。

 だから、感染した生物、感染可能な生物の複数の個体を、接触させるように仕向ける物質、毒のようなものを出してそれを促す。

 そうしていれば、複数の遺伝子を行き来していれば、アルコールで消毒されていない環境でも生き続けることができるの」


「それで濃厚接触ですか……それって、放っておいたらどうなるんですか? 命に関わるようなことはなさそうですけど……」


「そうね……宿主の生命を脅かすことは全くないわ。

 だけどね、今はまだその症状が、接近するとか、手を繋ぐくらいで済んでるでしょうけど、

 ユリウスの毒性に支配されるにつれて、その身体は粘膜的な接触を求めるようになる……ところかまわずね」


「うぇ……」


 珠彩さんが小さく嗚咽を漏らします。その表情は、嫌悪感に満ちたものとなっていました。


「それとね……ユリウスに感染したまま女子が10代を終えると……ユリウスの毒性を身体に取り入れてしまい、異性に対する興味を無くしてしまうのよ。

 私たちはそれを恋愛不全と呼んでいるわ。別に子供が作れなくなる訳じゃない。だけど、これは生物にとって脅威となるわ。

 子孫を残すことに支障が出てしまう。これは食い止めなければいけない。

 だからね、学校だからという訳ではなく、これに手を打つ必要があるの。ユリウスを死滅させる必要がね」


「どうするんですか?」


「それ自体は簡単なことよ。

 ユリウスは、他のウイルスや雑菌が暮らすようなアルコール消毒されていない環境で、他の女子が接触できないような状況におけば、3日ほどで死滅する。

 それに、ウイルスっていうのは元々、他の生物の細胞を利用しないと増殖できない、それ単体では滅ぶしかない、とても弱く儚いモノたちなの。

 そう案ずることはないわ。

 だから、今日私はそのことを教職員の方々に告げるためにここに来た。

 先程、今言ったようなことを説明して、対応……そうね、生徒たちの3日間の自宅待機を勧めたの。

 姉妹が居るご家庭もあるけど、そこは隔離してもらってね。会わないだけでいいんだから。

 教職員の方々は事の重大性を理解して下さって、明日から3日間の休校を約束して下さったわ。

 あなたたち3人だけは、ユリウスの症状が出ていなくて、感染してないことが証明されたけど、それでも念のために3日間の自宅待機をすることになるわ」


「そうですか……」


 呟くようにそう漏らす深織の表情は、どこかもの悲しさを、憂いを湛えていました。


「……わかりました。ですが、何故その話を私たちにしたんですか?」


 腕を組み、柱に背中を預けた珠彩さんが、そう尋ねます。


「……ユリウスはね、ある研究機関に保管されてるの。

 言ったでしょ、とても脆弱なウイルスだって。研究機関から持ち出されることがなければ、ほとんど存在し得ないの。

 それと、あなたたちには症状がないわ……」


「姉さん、ボクたちを疑ってるのかい?」


「それを私たちが持ち出したとして、何の得があるって言うんですか?」


 悠季さんと珠彩さんは不快感を露にしました。


「そういうわけじゃなくて……何か変わったことがなかったかとか、心当たりがあるとか、それだけのことよ。

 ……ごめんね、私も病院や研究機関から指示を受けててね……こんなこと、本意じゃないのよ」


 由乃さんはとても申し訳なさそうに視線を落としました。


「わかりました。ですが私には……心当たりもなにもありません。悠季と珠彩は?」


「ないね」


「ある訳ないじゃない」


「ということです」


「そう、まあユリウスは自宅待機してれば放っておいても死滅するわ。そこまで大きな問題にはならないはずよ。

 それに明後日、この学校のどこかにユリウスに関係するようなものがないか調査するみたい。あなたたちはもう気にしなくていいわ。」


 由乃さんは安堵したような口ぶりでそう告げました。


「とりあえず、ボクらも謹慎するんだよね」


「そうね……はーぁ、それじゃ、私たちも3日間の安息の恩恵に預かるとしますか」


「……うん」


「深織、どうしたの?」


 深織はまた憂いを湛えた表情をしています。そのことに気付いた珠彩さんは、彼女を気にかけました。


「いいえ、なんでもない。明日から3日お休みかー、何しようかな……」


「そう、ならいいけど」


「じゃあ、帰ろうか。姉さんもお疲れ様。今日は学校のためにありがとう」


「「ありがとうございます」」


 深織たち3人は由乃さんに頭を下げます。


「そんな、お礼を言われるようなことはしてないわ。仕事だからね」


 そんなことがあった翌日、時ノ守女子高等学校は、教職員を除いたすべての生徒が存在しない、平日の学校らしからぬ空間となっていました。

 しかし、教職員が全員帰宅した後、それは起きました。


「……あった、これか」


 場所は薄っすらと明かりの灯った科学部の部室。そこには居てはいけないはずのひとりの生徒の影がありました。

 彼女は、そこに備え付けられた冷凍庫で見つけた、冷凍された何かが入った試験管を愛おしそうに懐にしまい込みます。


「待ちなさいよ」


「……誰?」


 彼女が振り向くと、扉から彼女を睨みつけるもうひとつの影が、それは、葉月珠彩、その人でした。


「……珠彩?」


 珠彩さんはその聴き覚えのある声色に、呆れたような態度を見せます。


「……その声、やっぱり深織なの?」


「う……どうしてここに?」


 深織のその言葉を聴いた珠彩さんは、再び鋭い視線を送りながら問いかけます。


「それはこっちのセリフよ。あんたそんなもの持ち出してどうするつもり?

 由乃さんの話を聴いてるとき、あんたの態度がおかしかったから、何かあるかと思ってね。

 ……今すぐそのユリウスを出しなさい」


「……やっぱりこれが、ユリウス……どうして知ってるの?」


「だからそれも私のセリフだってば。

 ……悠季がね、あの子、自宅待機に我慢できなくなって、家族が居なかったことをいいことに抜け出して、ランニングしてたんだって」


 ――その日の昼下がり、悠季さんは住宅街をジャージ姿でランニングしていました。

 そして、ひとりの女子高生を見付けます。


(あれは……うちの学校の子?)


 その少女は辺りをキョロキョロと警戒しながら、電柱に隠れ、道を進んでいる最中でした。


「ねえ、キミ」


 悠季さんはその少女に声を掛けました。


「ひっ! ……って大地さん……だっけ? あの頭が赤い女の部の……」


 その少女の名前は仁科にしな 智理ともりさん、科学部の部長だったのです。


「ははは、失礼だなあ。そういえば珠彩ちゃんとは仲が悪かったんだっけ?」


「そんなわけじゃないわよ……ただ、あいつとはそりが合わないだけ」


「そういうのを仲が悪いっていうんじゃ……まあ、いいや。こんなところで何してるの? 自宅待機が指示されてると思うけど。

 って、ボクもそうなんだけどね。ははは」


「……」


 仁科さんは奥歯に物が挟まったような、もどかしげな表情をしていました。


「ふふ、ここじゃ場所が悪いかな……ボクにじっくり聴かせてくれないか」


 ボーイッシュな彼女の艶のある唇からこぼれた言葉は、仁科さんの頑なな心を溶かすほどの熱を持っていました。


「…………は、はい」


 その時、仁科さんの頬は紅潮し、悠季さんの醸し出す色香にすっかり惑わされていました。

 場所を人気ひとけのない公園のベンチに移し、悠季さんは彼女の告白に耳を傾けます。


「じ、実は……私……あのウイルスを持ち込んだのは私なんです!」


 悠季さんは一瞬言葉を失いかけますが、全てを理解して彼女に告げました。


「そうなんだ。じゃあ、なんでそんなものを持ってきたのか、教えてくれないかい?」


「……わかりました……私の父はウイルスの研究をしているのですが……

 その、毎日酔っぱらって帰ってきて、それが鬱陶しくて……

 それで、父が自室の冷凍庫に保管しているウイルスから……絶対触っちゃいけないって言われてたんですけど……

 その、アルコールに耐性があるっていうウイルスを持ち出して……それを使って、酔っ払いをどうにかできないかなって、独自に研究しようと思って」


「なるほど、その矢先に学校のアルコール消毒が起こった……と」


「はい……だから、あれを取り戻して、父の冷凍庫に早く戻さないとって……」


「だから学校に行こうとしてたんだね。だけど、今の時間、学校に行っても先生に見つかるんじゃないかい?」


「……そこはイチかバチかで」


「なりふり構ってないね……でも、明日には学校にウイルスがないか捜索が開始される。それで発見されるよ」


「そうですか、なら……諦めます。色々知ってるんですね。あのウイルスが感染すると何が起こるんですか?」


「そうか、それを知らなかったのか……機密情報だから教えられない。

 でもまあ、大したことはないよ。自宅待機してればそれは消えるらしいから。

 ちなみにボクは、ある条件に適合するため、ウイルスに感染しないらしい。今日教えてもらったんだけどね」


「そうですか……」


「それで、キミがウイルスを持ってきたことを他に知ってる人はいるのかい?」


「……居ます……星野さんです」


「深織ちゃんが? どうして?」


「いえ、単に、ウイルスの入った試験管を、保冷のための水筒から取り出して、部室の前で確認してるところを見られただけなんで、

 それが何かはわかっていないでしょうけど……」


「そうか……だから深織ちゃんはあんな顔を……」


「え?」


「いや、こっちの話だよ。話してくれてありがとう。

 まあ、ウイルスが見つかったとしても、キミが咎められることはないと思うよ。

 ウイルスのことは校外には知らされていない。勿論キミのお父さんにもね。

 だから、その存在はひっそりと闇に葬られるんじゃないかな」


「なんでそんなことを?」


「ボクのお父さんと姉さんが関わってるからね。病院も、研究機関もあんまり事を荒立てないようにしたいって話だから。

 キミのお父さんがウイルスが無くなったことに気付いたら、困るかもしれないけどね」


「それは大丈夫です。父は毎日ベロベロに酔って帰ってくるので、何を持ち帰ったかなんて覚えてません」


「そっか、それなら良かった」


 悠季さんはニッコリと微笑み、仁科さんに淡い気持ちを抱かせてその場を去りました。

 そして、公園を出たところで電話をかけました。


「……ああ、珠彩ちゃんかい? いや、一応耳に入れておこうと思ってね。

 もしかしたら深織ちゃんが……」


 ――


「……ってね。悠季も勘が冴えてるわね。

 で、あんたそれをどうするの? まさか、海果音に感染させようなんて思ってないでしょうね?」


「そんなこと……しないよ」


「そう、日頃からあんたたちを見てるとちょっと危なっかしく見えてね。

 それと、あんたも海果音もユリウスには感染しない。私も悠季もね。

 まあ、仲がいいのは悪いことじゃないけど、海果音のためにも度を超したことはしないようにね。

 ……で、どうしてそれを持ち出そうとしたの?」


「……このウイルス、回収されたらどうなるのかな?」


「さあね、知らないわよ。悠季は闇に葬られるって言ってたから、処分かもね。

 研究施設に保管されるのかもしれないけど」


「そっか、でも、彼らにだって、ウイルスにだって自由に生きる権利はあるんじゃないかな?」


 深織は珠彩さんに救いを求めるような、そんな表情で訴えました。


「……深織、あんた、それ本気で言ってるの?」


「だって、女の子に感染し続ければ自由に生きていけるんだよ?

 それに、命を奪うようなことも、体調に害を成すこともない、子供ができないからって、それは感染した極一部の人間に限られる話でしょ。

 他にウイルスはあるとか言うかもしれないけど、ここにいる彼らは研究施設にいるのとは別の個体なんだよ?

 彼らの生きる権利を奪うなんて可哀想じゃない!」


 悲痛な叫びを上げる深織に、珠彩さんは深くため息をついてから語り掛けました。


「あのね、あんた勘違いしてるみたいだから言っとくけど、それ、今はアルコールに耐性があるだけの脆弱なウイルスかも知れないけど、

 それが突然変異で進化して、とても強靭になってあっという間に世界中に広がる可能性もあるのよ。

 そうなったら、恋愛不全に陥った人類は滅びるしかないの。

 それにね、あんたはウイルスにも生きる権利はあるとか言ったけど、

 そんなこと言い出したら、海果音を襲ったインフルエンザウイルスにだって生きる権利はあるわ。

 それでもね、私たちはその生きる権利を奪わなきゃいけないの。

 なぜなら、それが生き残るために必要だからよ。

 ウイルスにはね、多様な種類が居て、人間に害を成すものだけじゃなくて、共存、共生しているものがあるの。

 でも、共存できないものとは生存競争をしなければならない。

 だから、同じウイルスと言っても、そこを切り分けないといけないの。

 人類は今までも数多くの命を踏み越えて今日こんにちを生きている。

 それは、食事にしたって当然そうだし、自然を切り拓いて人間が暮らす街にすることも同じ。

 そして、生物は共存できないものを乗り越えることによって進歩してきたの。

 ここで言う生物っていうのは、人間だけじゃなくて、生物全体の話よ。

 敵対する生物同士が相手から全力で生存権を奪うことによって、生物全体が進歩してゆく。

 奪った側に必要なのは、その責任を取ること、生存権を奪った業を背負って、更に共存できない生物を退け続けることよ。

 それが結果的に敵対する種族を滅ぼすことになったとしてもね。

 もちろん、人類より生き残る力が強い生物が居れば、それに滅ぼされるのも当然よ。

 だけど、ただ滅ぼされてはいけないわ。精一杯抵抗してそれでも敵わない時に滅ぼされるの。

 そうして、生き残った生物の糧となり、その強さを支えるものとなるの。

 それとね、例えば今更絶滅した生物をこの世界に蘇らせたとしても、それはエゴでしかない。

 その生物は今の環境では生きていけないかもしれない。それを蘇らせることによって許しを乞おうなんて、薄汚い考え方よ。

 滅ぼさなきゃこっちが滅ぼされるようなものを生きながらえさせようってことはそれと同じ。

 勿論研究する価値はあるわ。でもそれは絶対に害を及ぼさない環境で、徹底した管理のもと行わなければいけない。

 滅ぼされた生物も、今を生きる生物たちの糧となっている。だから無駄に滅ぼされている訳ではないの。

 そうやって、いくつもの多様な生物が入り混じって、生存競争を繰り返すことによって、生物はこれからも進歩して行く。

 今は地球生物全体の中でヒトが最も繁栄してるに過ぎない、それはいつ覆るかわからない、そういうのはね、生物全体における流行り廃りのようなものよ。

 他の生物を滅ぼした者がしなければならないのは、その業を受け入れて、更に敵対する生物を滅ぼし続ける覚悟をして、修羅の道を進むことなのよ。

 そうでないと、今まで滅ぼしてきた生物たちに申し訳が立たないでしょ。自分のしてきたことに責任を持つってことはそういうこと。

 他の生物に手を下すことがどんなに辛いことであっても、それを続けるしかない。それを繰り返してきたのが生物というものなのよ」


「……」


「その辺にしときなよ、珠彩ちゃん」


 震えて何も言えない深織と珠彩さんのもとに現れたのは、悠季さんでした。


「あら、あんた来てたの。こいつの考え方があまりにもお花畑だったから、少し刈り揃えてあげただけよ。

 私だって無駄な殺生や、面白半分に命を粗末にする連中は許せない。消えてなくなってほしいと思う。

 だけど、それとは別に、この生物の生きる世界というのは厳しいものなのよ。それを教えたかったの。

 ……そうね、でも、私ね、あんたの相手の権利を尊重して共存したいって考え方、嫌いじゃないわよ」


「……珠彩」


「だって、そう考えてなきゃ、人間同士でも争わなきゃいけなくなっちゃうじゃない。

 あんたの考え方はそういうのに歯止めを掛ける、尊い精神の表れなのよ。

 私とあんたってさ、なんかちょっと似てるところあるじゃない……」


 照れたような表情で深織から一瞬目を逸らす珠彩さん。

 そして、彼女はまた深織を真っすぐ見つめ、話を続けました。


「だけどさ、だからこそかもだけど、世が世なら、私たち敵対してたかもしれないんだしね!」


 珠彩さんはそう言うと、普段深織には見せない、ありったけの明るい笑顔を彼女に向けました。

 すると、深織は珠彩さんの胸に飛び込むようにすがりつきます。


「……ちょ! あんた、何すんのよ? まさか、ユリウスに感染……なんてね、はは……」


「うぅぅぅ、珠彩! しゅいろぉぉぉぉ!」


 嗚咽交じりの声を上げる深織に、珠彩さんは引きつった笑いで応えることしかできません。


「はは……うわっ……なんか濡れて、って泣いてるの? なんで!?」


「だって、珠彩が敵対とか言うから……あぁぁぁ……」


 深織は珠彩さんの胸に顔をうずめたまま、泣き続けます。


「じょ、冗談よ! もう、バカなの? 冗談に決まってるでしょ、あんた、変なとこで真面目なんだからっ」


「珠彩ぉ……ごめんね……ありがとおぉぉぉ! ありがとおおおおおお!!」


「何のお礼なのよ! もう、離してよ!」


「ははは、珠彩ちゃん良かったね。深織ちゃんにはいつもしてやられてるから。はははははは!」


 声高らかに笑う悠季さんと、珠彩さんの胸で泣き続ける深織、そして、困惑するしかない珠彩さんなのでした。


「良くないでしょ! いやこれ、いつまで続くの?」


「うわああああああん!」


 そんなことがあって、ユリウスは大地総合病院ゆかりの医療研究機関に引き取られたのでした。

 全校生徒の自宅待機の結果、ユリウスの症状はすっかり消え、また平穏な日常が戻ってきました。

 インフルエンザから復帰した私も、久々の登校、授業、そして昼休み、お待ちかねの深織のお弁当にありつくことができたのです。


「結局さ、ボクたちは海果音ちゃんと接触してたから、インフルエンザに抗体ができてて、それがあったからユリウスには感染しなかったんだってさ。

 あれはそれほどに脆弱なウイルスだったんだよ」


「ん? 悠季さん、ユリウスってなんですか? 皇帝?」


「ああ、海果音ちゃんは知らないだったね」


 私はこの時、頭にはてなマークを浮かべることしかできませんでした。


「ところで、海果音はインフルエンザになって、なんで私たちはならなかったのかしらね」


 珠彩さんはそんな疑問を口にします。


「うーん、私が推察するに、きっと海果音は不健康だからだよ」


「えー、なにそれ」


「海果音さ、あの頃睡眠不足だったでしょ? 目の下にクマ作ってたし」


「あー、深織には気付かれてたか……いや実はさ、ゲームにはまってて眠れなくて……」


「何のゲームなのよ?」


 珠彩さんに尋ねられて、私はポケットから携帯ゲーム機を取り出しました。


「また、そんな古そうなものを……」


「じゃーん、カプセルを投げてバイ菌を消すパズルゲームでした! ごめんなさい!」


 私は精一杯力を込めて謝りました。


「医者の不養生……って、シャレになんないよ。さっさと寝ろ」


 深織がじとーっとした目で私を見つめながらそう言います。

 みんなが呆れていたその時――


「大地さん!」


 そう声を掛けてきたのはなんと、科学部部長の仁科さんでした。


「あれ、仁科さん、どうしたんだい?」


「これ、私が作りました! 受け取って下さい!」


 すると仁科さんはハート形のケースにリボンのついた大きなチョコレートを悠季さんに差し出しました。

 そう言えば、今日はそんな日でしたね。


「え? ボ、ボクに? あ、ありがとう……」


 悠季さんが戸惑いながらもそれを受け取ると、仁科さんは赤面を隠しながら走り去って行きました。


「悠季さん!」


「な、なんだい? 海果音ちゃん」


「悠季さんって罪づくりですね!」


 私は満面の笑みを浮かべました。

 そして、頭を掻きながら、困った顔をしてチョコレートを眺める悠季さんなのでした。


「それ、ホントにあいつが作ったの? 変な化学物質でも入ってるんじゃないでしょうね……」


「ユリウスがなくなっても……そういう形の感情が生き続けることもあるんだね」


 深織が不敵な笑いを浮かべながらそう呟いて、この事件は幕を閉じました。

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