第01話 燃える言葉
「おいヒカゲ!」
「なんでしょうか?」
彼女はそう呼ばれることに慣れていた。その女性の名前は日向 海果音。この日、24歳になる彼女は、これまでいたるところでヒカゲと呼ばれてきた。
日向の「ヒ」と、ミカネの「カネ」をもじったものを組み合わせて「ヒカゲ」、誰もがそう連想して彼女をそう呼ぶ。
学校でも、数年前入社したこのIT企業でも、本人の意思とは無関係に自然とそうなってしまう。恐らく一生付きまとってくるだろう。きっと来世でもそうなるのではないか、居るだけで周囲の光を奪い去るような暗さを醸し出す日向は、この不名誉な呼び名から逃れられない運命を背負っているかのようだった。
そんな日向に、およそ朝のさわやかなオフィスには不似合いなボリュームの声で上司が迫る。
「このお客様、反応が無いからって放っといてんじゃねえよ。メールに『何日までにお返事ください』とか書いたくらいで返信が返ってくると思うなよ」
「はい……またメールしておきます」
日向はうつむき、目をそらしながらそうつぶやく。
「メールじゃダメなんだよ。電話しろ電話。メールでお客様に心が伝わる訳ないだろ。頭使えよ、頭」
「頭使えよ」は上司の使う常套句である。
なぜメールじゃ心が伝わらないことになるのか、日向はそこに真っ当な理屈を感じ取ることができなかったが、それに従うしかなかった。
とはいえ、彼女は電話が苦手である。度を超えた人見知りと、不器用なことが相乗効果を発揮して、しどろもどろになるのがいつものパターンであった。
日向はメールの署名を見ながら電話番号を打ち、発信ボタンを押す。すると緊張感を呼び覚ます電子音が耳に響き、ほどなくして相手が電話に出る。
「はい、株式会社 月葉です。葉月が承ります」
「お、お世話になっております、株式会社システイマーの日向です。
あっ、社長様でいらっしゃいますか?」
予想外の相手に、第一声は力み過ぎたカラオケの歌い出しのように上擦る。
「いえ、わたくし、社長ではございません……血縁ではありますが」
日向の緊張に応えるように、電話の相手も慌ててしまった。
「ああ、さようでございますか。随分お若い女性の声でしたので、驚いてしまいました。申し訳ございません」
「いえ、とんでもありません。
……では、改めまして、どういったご用件でしょうか?」
「あの、吉田様はいらっしゃいますでしょうか?」
「吉田ですね、少々お待ちください」
保留音にも緊張して息が止まってしまう。このまま保留され続けたら窒息死してしまうのではないか、日向が不安になり始めた頃、保留音が止まる。
「はい、お電話代わりました。吉田です」
日向は静かに、深く呼吸を整えると、声の震えを悟られないように話し始める。
「お世話になっております。日向です。HP改修の件ですが、運用テストの進捗はいかがでしょうか?」
「申し訳ありません。まだ確認中となっております」
日向はこの回答を薄々予想できていた。連絡がないということは往々にしてそういうことなのである。
「……そうですか、では完了のご予定はいつになりますでしょうか?」
「まだ、なんとも……こちらも年度末進行で業務に余裕がないもので……」
「そうですか、今週中にご確認いただけない場合、3末リリースに間に合わなくなりますが」
「そこは間に合わせていただかないと、今年度中に予算を収められなくなりますので……」
どんなに予定を逸脱していても、カットオーバーだけは厳守というのが業界の常なのだ。
「承知しました。リリースの準備は進めますが、なるべく早くテストの結果をいただきたく……でないと、大きな修正はできかねますので、ご了承ください」
「……そうですか……承知しました。よろしくお願いします」
「失礼いたします」
日向は受話器を置く。手元のメモには意味を持たない線が書かれていた。通話により得られた情報をメモしようとしていたが、通話をしながら字を書きこなすほど日向の頭と手は連携が取れていなかった。
「何が『間に合わなくなりますが』だよ。お前が暗くて追求が甘いから付け込まれて先延ばしにされるんだよ」
緊張が解けたと思いきや、上司から叱咤を受ける。
「はい……すみません」
どこの誰に言わせても、日向に対して持つイメージは「暗い」の一言であった。
暗いからヒカゲ、短絡的にそう発想してしまうのも無理はない。その口から辛うじて発される闇の中に消え入りそうな声は、他人をイラつかせる原因ともなっていた。
上司の追求の声を遮るように、日向は頭を何度も下げ、謝りながら頭では謝罪とは別のことを考えていた。
(いつまでこの謝り続ける日々が続くのだろう? 最近まともに休んでない気がする。なけなしの休日に外出することもなく、日中を眠ったような頭で過ごし、何故か夜になると眼が冴える。次の日の仕事に支障が出ることを理解していながら眠れない。
苦し紛れに自分が生まれてもいない時代のレトロゲームで、同じ場所をうろうろして経験値を稼ぐだけの脳死プレイに逃げる。
翌朝、眠い目を擦って出社すれば、罵られ人格を否定される。
仕事ができないからってそこまで言われる筋合いがあるのか? 上司だからって部下を人間扱いしなくていいってことはないだろう。
それなのに、いつもいつも理不尽と無理難題を強い口調で叩きつけてくる。あれはもしかして、パワハラってやつなんじゃないだろうか?)
「ホント気が利かねえな!もっかい就職活動するか?
なんだよその顔は、暗いんだよ! 俺はお前のためを思って言ってるんだぞ!?」
"お前のためを思って言ってるんだぞ!?"
上司の言葉が日向の頭の中にリフレインする。
(こんなことを言う人間が、普段は『コミュニケーションは大事にしなければならない』と偉そうにのたまっている。
いつもいつでも高圧的な態度で他人に不快感を与えているのに、自分ではコミュニケーションが上手いと思ってるのか?
私も同僚も、高圧的な態度を取らない人は皆、コミュニケーションに悩んでいることが伺える。
そんなコミュニケーションに悩んでる人同士の付き合いは比較的うまく行く、そう思う。
だって、そういう人は相手も悩んでるって感じ取れるから、お互いに気を遣うことになる。
じゃあ本当にコミュニケーションが上手い人なんているのか? 私たちはコミュニケーションが下手で悩んでいる。
対して上司は、コミュニケーションに悩みも持たず不快感を与えている。
こういう人は自分がコミュニケーションが下手なことに気付いてないだけじゃないか?
コミュニケーションが下手で、それについて悩んでいる人、コミュニケーションが下手で、それに気付いてない人、大体の人はこのどちらかなのではないか?
私たちはいつも悩んでるのに、悩まない人から不当に不快感を与えられている。
それどころか、悩まない人は自分の感情を押し通して得をしている。
こんな不公平なことがあるだろうか? こんな不公平な世の中は間違っている!)
"この世の中は間違っている"
その想いが渦巻いたまま、日向は度々仕事の手を止めて、遠くを見つめてしまう。
それを繰り返しているうちに、窓の外がすっかり暗くなっていることに気付く。いつの間にか定時を過ぎていたようだ。ネガティブなイメージの繰り返しにより時間を浪費し、その日は大して仕事を進めることができなかった。
疲れ果てた彼女は帰路に着く。電車で揺られる中、運良くシートに座ることができた。
彼女はその女性的な膨らみが微かで小柄な身体を縮め、体の前で鞄を抱えた腕を下に伸ばし、両の手首を交差させて指を咬み合わせて握り、両の太ももの間に拳を収める。こうすることで、元々狭い肩幅が更に狭められ、隣に座っている人から少しでも離れられるといった効果が得られるのだ。
そして、黒く濁った瞳でメガネのレンズを通した虚空を見つめ、自然とため息をこぼす。すっかり着慣れたスーツも経年により彼女と同様にくたびれていた。彼女はその底が抜けそうなポケットからスマートフォンを取り出した。意識していなくても手持ち無沙汰になるとつい手を出してしまう。その常習性は一種の麻薬のようなものだった。彼女はSNSを開き、見るともなく画面をスクロールさせてゆく。
「今日もバカばっかりの会社で自分だけが苦労している」
「サボったって誰も気付かないだろ」
「気に入らない奴が居たから難癖付けて通報してやろうかと思った」
皆、思い思いの言葉を好き勝手に発信している。人前では言えないが、それができたらどんなにスッキリすることか、そんな言葉で溢れていた。そこは現実とは別の、何を言っても許される世界のようだった。
(ここなら言ってもいいんじゃないか?)
ふとそう考えた日向は、SNSに投稿した。
「人間はざっくり2種類しかいないと思う。
コミュニケーションで悩んでる人と、コミュニケーションが下手なことに気付いてない人。
下手な人の方が得してるんじゃない? そんなの不公平だ!」
"くだらない"
投稿した瞬間、そう感じられた。
こんなことをしても何もならない。何を書いても許されるのではなく、何を書いても誰も意に介さないのだ。
日向は自分が住むマンションの最寄り駅に電車が到着すると、再びポケットにスマートフォンをしまい、よたよたと改札へ歩き出す。
いつも通る道だが、最後にまっすぐふらつかずに歩けたのはいつだろうか。
帰宅した日向は、真っ先にタイマーで沸かしていた風呂に向かう。
温度調節がままならず、少し熱さを感じるシャワーを浴びる。疲れまで洗い流すことはできないが、まとわりつく不快感は排水溝に消えていった。
不安定かつ多忙な毎日に蝕まれ、かつて湛えていた潤いを忘れ去っていた髪の毛は、うなじを隠しきらない程度に切り揃えられているため、乾かすことにも時間を要さない。それには少しでも睡眠時間を確保したいという理由もあった。
作り置きの夕飯を――と言っても炊いたご飯を冷凍したもだが――電子レンジで加熱し、味?なにそれおいしいの? とでも言わんばかりに味覚がバカになった口に運ぶ。
舌を火傷したような気がするが、気にも留めず噛み砕き、食道から胃へ流し込む。単なる燃料補給のような食事をひとしきり終えた日向は、芸能人だったら安泰なくらい干されたことがないベッドに身を投げ、泥のように眠った。
その日、日向は久々にぐっすりと眠ることができた。SNSへの些細な投稿が精神に良い影響を与えているのか、それとも限界が来ていたのか、ともかく身体がぬかるみに溶けてゆくような感覚を存分に味わった。
次の日、目覚まし時計より早起きした日向は大層気分が良く、さわやかな朝を演出するためにトーストした食パンを口に運ぶ。
(何で食パンって言うんだろう?)
ふと疑問に思い、スマートフォンで検索する。
(ふーん、消しパンに対して食パンって呼ぶのか……諸説あるみたいだけど……昔は消しゴムすらなかったんだなぁ、不便だな。
今はタブレットに書いて簡単に削除できるから、消しパンって言葉自体も削除されていくんだろうな。
……あ、そういえば……)
日向は昨夜SNSに投稿したことを思い出し、全身に悪寒が走る。
勢いで吐露した勝手な思い込みに恥じらいを覚え、その投稿を削除せずにはいられなくなってSNSを開く。
すると、昨夜の投稿に共感を示す者の声が目に入る。
「それな!」
「分かる。これからは楽にいこう」
「そうそう、こっちは散々悩んでるのに」
「繊細なんだね。みんながあなたのように繊細ならうまくいくかもね」
(そうか、みんなそう思ってたんだ。
……ならこれは消さないでおこう)
日向はいつもより大分晴れやかな表情で家を出る。
満員電車の中、自分の投稿とそれに同調する声を何度も見直してしまい、その度に顔は喜びと気恥ずかしさに震えほころび、こらえても口角の端が上がってしまう。それは不審者そのものの様相を呈していた。
彼女はその顔のまま会社に出勤する。
「おはよう。……お前、どうした?……疲れてるのか?」
上司が少しうろたえた様子で尋ねる。
「……え?……あ、おはようございます」
「お前、それ、笑ってるのか?……ちょっと怖いぞ……まあ……その……落ち着けよ」
「す、すみません……」
「いや……いいんだけどさ……なんかあったら言えよ……な?」
「あ、はい……ありがとうございます」
上司は上司なりに気を遣っていることを伺わせる一件だった。
オフィスにはぎこちない空気が漂い、唾を飲み込む音が聞こえるほど静まり返っていた。しかし、その束の間の静寂も、すぐに上司の声にかき消される。
「おい、ヒカゲ! あの報告書いつ出すんだよ!? もうとっくに締切過ぎてるだろうが!」
恒例のミスの指摘から人格否定への一連の流れに、日向の気分は深く沈み、反面なぜか安堵してしまうのだった。そうこうしているうちに時間は昼休み。
「おい、ヒカゲ! メシ行くぞ!」
この上司の発言に、この後のことを考えると日向は自然と顔をしかめてしまう。
「いいから来い!」
上司の馴染みの定食屋に着く。
「何食うんだ?」
上司が促し日向がメニューを取ろうとしたその刹那。
「生姜焼きでいいな。すみません! 生姜焼き定食2つ!」
悩む隙も権利も与えない早業で注文する上司。そこから再び上司の小言が始まる。
「ったく! お前はいつまで経っても成長しねえな」
運ばれてくる生姜焼き定食。
日向はマヨネーズが雑にかかったキャベツの千切りを口に運ぶ……が、味がしない。
上司の小言という調味料の前ではどんな味も皆同じように感じられる。
メインの豚肉を頬張るも、生姜の風味はおろか、タレの味すらしない。そして何故か小言を言っている上司の方が早く食べ終え、会計を済ませて先に店を出る。
彼女は給食での居残りのようにひとり寂しく味のしない昼食を噛み締めるのであった。
昼休みから戻ると、浮足立っていた出勤時と打って変わって、地に足どころか海底に座り込んでいるような沈んだ気分で席に着く。
そのまま目の前の仕事を淡々とこなし、定時には会社を後にする。
電車に揺られる頃にはすっかり平静を取り戻していたが、やはり無意識のうちにスマートフォンのロックを解除している日向。気付いた時は既に手遅れで、再びSNSを開いていた。
見るともなく見ていると、彼女は自分の投稿に対するコメントの空気に変化を感じた。
「いるいる、コミュニケーション下手な奴。いつもケツを拭かされてるよ」
「悪いのはコミュ障なのに被害者面されるんだよな」
「コミュ障は社会のお荷物」
「コミュ障を排除しないとこの国の未来はない」
「コミュ障は根性なし、人権なし、逃げ場なし」
(うわぁ……なんか変な人たちが集まってきた……見なかったことにしよ)
スマートフォンをそっとしまう日向であった。
数日後……
「おい、ヒカゲ!」
「はひぃっ!」
「お前単体テストちゃんとやってんのか!?
こんなの運用テストで出ていいバグじゃねえぞ!」
「いえでもそれは……単体テストはを実施したのは私じゃないので……」
「ので……? なんだよハッキリ言えよ! 伝える努力をしろ!」
「スミマセン……私のせいです……」
「お前はコミュニケーションの取り方が下手だからな!
単体テストの実施担当者ともうまくコミュニケーション取れてねーからこうなるんだよ!
知ってるか? コミュニケーションが下手な奴の方が得してるってのが最近SNSでバズってるんだぞ。
いいよなー、まさにお前のことだよ! 得してるよな!
そうやって言いよどんでれば相手が全部決めてくれるんだからな。
お前みたいな指示を待ってるだけの主体性の無い奴は生きてる価値もねーよ!」
そんないつもの言葉の暴力にいつものように傷ついた日向は、自席に戻る途中でSNSへの自分の投稿と、変わりつつあった反応を思い出した。
彼女がトイレで改めてSNSをチェックしてみると、例の投稿は「コミュ障は悪」という反応で染まっていた。ここで言われているコミュ障とは、消極的で他人の顔色を伺う指示待ち人間のことである。
確かに彼女は上司からそのような評価を受けている。
彼女が言いたかったのは「コミュニケーションに悩んでる人は損している」ということであったが、歪められた解釈が蔓延し、それが皆の共通認識かのようにネット上のそこかしこで語られている。
それまでも、コミュニケーションが苦手な人は言われなき誹謗中傷を受けてきた。
しかし、それでもコミュ障は悪と切り捨てられるようなことには及んでいなかった。
それは、他人をコミュ障と決めつけるような人たちにもあったひとかけらの良心が、その暴論を塞き止めていたからだ。
だが、拡散された日向の投稿を目にした彼らは、その投稿の意味を薄々解っていながらも、それを自分の都合の良いように受け取った。
彼らは「コミュニケーションに悩んでないような人はコミュニケーションが下手なだけ」という虚を突かれるような意見から目を背けるために、そうするしかなかった。
そして、そのやましさに蓋をしたがために、良心の堤防は決壊し、全てを押し流さんとする暴論を展開せざるを得なくなった。
簡単に言えば、痛いところを突かれてそれを認めたくなかっただけなのである。
それは事態を更にエスカレートさせる。
ネットニュースでもこのことは取り上げられ、こちらでもまた、迫害される方も悪いといったような論調が幅を利かせていた。
また、その影響はリアルにも及んでいた。
「……すみません、先輩」
「ん、なんだ?」
会社員の男性2人が口論を始める。
「ポイ捨てはダメですよ」
「ポイ? ポイって金魚すくいで使うアレか? そんなもの俺は捨ててないぞ」
「空き缶です。今ポイ捨てしましたよね?」
「馬鹿野郎、俺は置いただけだよ。ポイってのは投げた時の効果音のことだろ?」
「同じことです。ゴミは持って帰って分別して捨てるものだと条例で決まっているんですよ?」
「お前コミュ障の癖にこういう時だけよく喋るよな。コミュ障が健常者に意見していいと思うなよ」
このように、人をコミュ障と決めつけることが平然と行われていた。2人は会社員で先輩後輩の関係、立場の差による効果もあった。
しかし、後輩は食い下がる。
「話をそらさないでください。僕のことはともかく、これは持って帰りましょう」
「何いっちょ前に正義感燃やしてんだお前? なんで外で出たゴミを持って帰らなきゃならないんだよ。
俺だってゴミ箱があればそこに捨てるよ。だがな、今や町中どこを見たってゴミ箱なんてないだろ? 店の中ですらないんだぞ? 仕方がないだろうが」
「社会のルールに反しています。ダメです」
「あのなぁお前、あれ見てみろよ」
先輩が指さした方向にゴミ拾いをしている集団が居た。それは、公共幸福振興会を名乗る慈善活動団体であった。
ゴミ問題に対する完璧な解決策を持たない社会は、有志のボランティアによって辛うじて環境が保護されているというのが現状であった。
「ここに置いておけばあいつらが片付けてくれるだろ? だからいいんだよ」
「良くないですよ! 人として間違っています」
「……いいか、あいつらの中に巫女装束を着た奴が居るだろ? あんな恰好じゃゴミ拾いなんてやりにくいと思わないか?
袖は邪魔だし袴の裾にもゴミがつく。あいつらの団体に伝統があって、古来から伝わるものを身に着けているだけ?
じゃあなんでアルミのトングなんて持ってるんだ? そこだけ現代風だなんておかしいだろ? なんでだかわかるか?」
「ど、どういうことですか?」
「ありゃ有り体に言えばコスプレなんだよ。目を引く格好でプロモーション活動をしているんだ。
あいつらボランティアとか言うけど、募金や寄付金は受け付けてるし、会員が増えれば組織のために自腹を切る奴も増えるだろう。
つまり、アピールすることによってより多くの資金を集めようって魂胆だ」
「そうだとしても、それとポイ捨ては関係ないんじゃ……?」
「まだわかんねえのか? 要するに街にゴミが無いとあいつらは活動を続けられないってことだよ。
だから、わざわざゴミを作ってやってると言ってもいい」
「……そんな、じゃあせめて、あの人たちに直接渡して……」
「はぁ……だからお前はコミュ障なんだよ。
直接渡したらゴミ拾いという大義名分が成り立たないだろ?
何事も手続きを踏む必要があるの! パチンコ屋が景品交換所で金出すか?」
「……それでも、やっぱりおかしいと思います」
「お前もいい加減しつこい奴だな、コミュ障なんだからもう黙っとけ! 二度と口答えするんじゃねえぞ!」
そして結局後輩は黙り込み、空き缶は放置されてしまった。
そのゴミを拾いながら、去って行く会社員2人の背中を、憂いを帯びた目で見つめる女性が居た。
彼女の名前は星野 御輿。彼女は仕事で声優をする傍ら、慈善活動団体、公共幸福振興会の幹部を務めていた。
団体の目的は、全人類が公平に幸福になることを目指すものである。
星野はその団体のトップ、星野 彗の孫であり、24歳の若さで首都圏の支部長となった。
普段は募金活動、ゴミ拾いなどのボランティア、老人ホームや幼稚園で声の才能を活かして物語や詩の朗読など、小さなことからコツコツと、平等と幸福を追求するための活動を日夜積極的に行っている。
「……星野支部長、気にしてはいけません。
我々は人々の幸福のために必要なことをしているだけです」
「山本さん……」
星野の青く美しくも鋭い瞳が、彼女とゴミ拾いを共にする振興会の会員へと動く。
「はい!」
「あの方は何故、コミュ障と罵られ、それだけのことで意見する権利を否定されているのですか?」
「……え?」
「ですから、何故あのような理不尽な扱いを受けているのでしょう? 後輩だから? あれではあまりにも一方的ではないでしょうか?」
「そ、そうですね……最近あのようなことが頻発していると、ニュースにもなっておりました」
会員の冷や汗をかいたような表情に、星野は平静を取り戻す。
「……あのような方のためにも、我々は活動し続けなくてはなりません……
取り乱してしまい申し訳ありませんでした。今は目の前の問題を片付けましょう。さ、まだゴミが残っていますよ」
「はい!」
しかし、本当に星野の心を動かしていたのは、あのサラリーマンが放った自分たちの活動に対する侮辱ともとれる発言への反発であった。
彼女はそのことに気付かぬフリをしてごまかすために模範的な正義を語ったに過ぎなかった。
そうして振興会のメンバーはひとしきりゴミ拾いを終え、解散の流れとなった。
星野は帰宅後、PCを起動し、インターネットで調べ物を始めた。
すると、彼女がゴミ拾いの最中目にしたような出来事が、そこかしこで起きていることを伺い知ることができた。
(ひどすぎる……このような状況を放っておいたら、みんなが幸せになれない……こんなの許せない!)
彼女の青く澄んだ瞳は、ネット上で過剰なコミュ障叩きに興じる人々に対し哀れみの視線を向ける。
彼らも何かに突き動かされて流れに乗っているだけの可哀想な人たちであって、本当に悪いのは発端を作った人間なのだと考えていた。
(なんとしてもこの流れを変えないと……)
そして彼女は、その発端にこの騒動の責任を取らせるために自分ができることはないのかと、使命感に燃えるのだった。
彼女は暴言飛び交うSNSから投稿を遡り、事の発端である発言を投稿したユーザー、ヒナたんに辿り着いた。
ただし、ヒナたんのフォロワーはゼロ、発言だけが独り歩きしており、当の投稿はすっかり埋もれていた。
ともあれ、どういった意図でそのような投稿をしたのか問い質したく考え、メッセージを送ってみる。
「今起こっている騒動について、あなたの投稿が非常に強く関係していると考えています。一度お話を伺えますでしょうか?」
が、返信はない。その頃――
「すいません!すみません!」
「すみませんじゃすまねーんだよ! これ終わるまで帰れないからな!
お前謝ってばっかいるけど、そんなの聞かされてもなんも響かねーぞ!
お前の謝罪の価値なんて既にインフレして暴落してるんだよ!」
ヒナたんこと日向に、スマートフォンに触れるような時間は1秒たりとも無かった。
その日は運が悪く、客先でのバグの発覚から即日対応を迫られ、帰宅することも許されなかった。
星野もまた、ヒナたんに接触することに躍起になり、寝る間を惜しんで手掛かりを探っていた。
しかし、過去の投稿を追ううちに、星野は思いがけない発見をする。
声優である自分が初めて担当した名前のあるキャラクターのグッズの写真を上げていたのであった。
少し嬉しさを覚えながらさらに投稿を遡る。
「私、24歳になってしまった」
「私の代わりに仕事してくれるシステム作りたいな。そんな時間ないけど」
「この電車、昔は隣に走ってる電車と同じ黄色だったけど人の血を吸いすぎてオレンジになったのかってくらい人身事故が多い……」
星野はヒナたんが過去にSNSに投稿した内容から、社会人であること、IT企業に勤めていることを知り、そして、電車遅延や満員電車への不満から、彼女の通勤ルートを割り出すことができた。
次の日、とは言っても日向、星野の両名にとっては前の日の延長、星野は夏でもないのにカブトムシを捕まえようと息巻く小学生のように、朝も早いうちから日向が務める会社の最寄駅に張り込み、不審な人物がいないか目を凝らしていた。
せわしない空気の中、駅からあふれ出る人々。そこで星野は、美しく長い金髪をポニーテールに結び、青い瞳を鋭く輝かせていた。
彼女は怪しまれぬよう周りに合わせてスーツを着ていたが、カムフラージュしきれるものではなかった。
それは黒や紺、灰色といった濁った川に光る一粒の宝石のように存在感を放っており、濁流を構成する通勤中の人々は、二度見を強制させられているように皆振り返る。
そんな人混みの中にひとり、流れに逆らって駅の入り口へとフラフラ歩くうつろな目をした会社員がいた。星野がしばらくその姿を追っていると、逆らいきれずに人と正面衝突して倒れる。
その姿は遡上する力を持たない落ちこぼれのサケのようだった。倒した側は何事もなかったようにそのまま歩いて行く。
日向は踏まれようかという人混みの中、尻餅をついて俯いたまま動かない。星野は慌ててその誰も気にかけない物体、日向に駆け寄った。
「大丈夫ですか? どうしました? 救急車呼びますか?」
「……うう、すみません。大丈夫です。ちょっと徹夜明けでフラっと来て……」
周囲の雑踏にかき消されんばかりにかすかな声、日向にはそれが精いっぱいだった。
「大丈夫じゃないようですね……何か私にできることはありますか?」
「少し寝て起きたら仕事行かないといけないんで……救急車とかはちょっと……
あれですよ、救急車に乗ったら社畜の厩舎に戻れないじゃないですか……」
日向の渾身のブラックジョーク改めクソダジャレも虚しく周囲の雑踏に消える。
「何を言ってるんですか……? そんな立てないような体調がすぐに回復する訳ないじゃないですか」
「でも、寝ればよくなりますから……こういうの慣れてまして」
「でも……」
星野は食い下がる。日向も引き下がるつもりはなく、残り少ない体力を声にしてぶつける。
「もう放っといてください! あなたには関係ないじゃないですか!」
そうして顔を上げると、指紋の付着したレンズ越しに星野の険しい表情が見える。
「放っておけません! 私はあなたのように苦しんでる人々のために活動しています。
なぜあなたのような方々がそのような目に遭っているのに放っておけると思うのですか?
あなたにだって幸せを追求する権利があるんですよ!」
日向は自分が見下げられているように感じて頭に血が上る。
「……馬鹿にしないでください! 私だって自分の精一杯の力でそれなりに生活できています!
あなたのように赤の他人の面倒を見ようとするような暇人に用はありません!
早く……帰って寝て……また会社に……ううっ……ごめんさない……でも……どうしても……」
日向は自分が取り乱していることにやっと気付く。
「……そうですか……テコでも動かないようですね……わかりました。
ですが、心配ですのでご自宅までご一緒しますよ」
星野の徹底した献身的な態度に、日向は呆れて始めていた。
「……あなたは相当暇なんですね。他人ですよ? 他人を助ける暇なんて普通ないですよ?」
星野は声優としてまだまだ未熟であり、実績も人気も無く仕事がない。
だからこそボランティア活動に精が出せるというのもあったが、正直に言って暇だった。
「ぐっ……決して暇ではありません!
人を救うのはそんなに意味のないことなんですか!?
あなたのためを思って言ってるのに、人の好意が素直に受け入れられないなんて、人間性を疑います!」
「人間性ですか……私にそんなものを求めたって……どうせコミュ障ですよ……
だから誰からも必要とされない……期待もされない……私にとってはそれが普通なんです」
星野は捨て鉢になる日向に苛立ちを隠せなくなる。
「そうやって自分を卑下して逃げているだけでしょう!
ちょっと気が乗らないだけで弱者を気取って! 立ち向かうことをやめた人に人権があるだなんて思わないことですね!!
……はぁ……はぁ」
息が上がるほど激高する星野。
「そんなに大声出さなくても……みんな見てますよ?」
朝のラッシュ時に叫んでる金髪碧眼が居れば見るなという方が無理である。
「……とにかく……帰宅するんでしたよね? 肩を貸します。
ここであなたを放っておいたら、私の信念を曲げることになります。
どうか付き添わせてください、お願いします!」
怒ったかと思えば、地面に膝をつき目線を合わせて懇願するような表情で訴えかける星野。
「どうしてそこまでして……汚れますよ。困ったなぁ……ははは」
日向は星野の必死の説得に押され、自宅まで付き添ってもらうこととなった。
2人は大多数の人が出勤して行く方向とは逆の路線に乗車した。
オフィス街から住宅街に向かう電車はあまり混んでいなかったため、2人はシートに腰を掛けた。
「あなたはいつもこのような時間に帰宅しているのですか?」
星野が尋ねるが、日向は既に寝息を立てていた。
「……はぁ……って、どこで降りるかわからないのですが」
星野は呆れてため息をつくが、日向はそれをよそに星野の肩にもたれかかる始末。
星野は気恥ずかしさを覚えるが、起こすのも悪いと思い、諦めて身を任せる日向を支える。
オフィスで一夜を明かした汗の匂いが星野の鼻をくすぐる。
不思議と不快感はなく、むしろ安心感を覚え、星野もうつらうつらと瞼が下がってきた。
星野がその感覚に浸り始めてからしばらくすると、日向の体がびくんと跳ねる。
「あ、降ります! 降ります!」
社会人の習性と言えばいいのか、帰巣本能と言えばいいのか、この国で電車に乗る人は何故か目的の駅に着くと起きるようにできている。
誰に教えられることも無く、大体の社会人がその能力を体得している。不思議なものだ。
「ああっ、ちょっと待ってください!」
星野はシートから急発進して降車する日向を追う。日向のままならない足取りはすぐにもつれ、駅のホームにうつ伏せに倒れ込む。
「大丈夫ですか? そんな身体で無理をするから……ほら、捕まって下さい」
日向は星野に肩を借りながら駅の改札を出て、自宅へ向かう。
日向の体は異常なほど軽く、風に吹かれれば飛ばされてしまうのではないかと星野は不安になった。
「ちゃんとご飯食べてるんですか?」
今日日田舎のおばちゃんでもかけないような声をかける。
「死なない程度には……ご飯はいつも一度に大量に炊いたものをラッピングして冷凍しているので……あとパンとか」
「野菜も肉も食べないとダメですよ! ましてやダブル炭水化物なんて重罪です!」
「昔は自炊しようとしてたんですけど、そのような時間は無くなってしまいました。
野菜と肉なら上司がたまに昼飯おごってくれますけど……進んでは食べないですね」
星野は唖然とした。
「自発的に肉や野菜を食べないなんて……そんな人初めて会いました」
星野は自分が肩を貸している人間への疑問符を押し殺し、日向の指さす方に歩く。
日向の自宅は駅からそれほど離れていないマンションにあった。
5階建てで壁には軽くヒビが入っており、年季を感じさせる。
日向の部屋は2階にあった。2人は階段を一段一段踏みしめるように上ると、長い廊下に出て突き当りまで歩く。朝だと言うのにやけに暗く感じる。
カギを開けてアパートの扉を開けると、湿った空気が漂い、やけにこざっぱりとした空間が広がっていた。
「え……こんな……あ、申し訳ありません……
あ、あの、引っ越してきたばかりで荷物が届いてないんですか?」
星野は自分が抱いていた"部屋"の概念が通用しない部屋が存在することにうろたえていた。
「……いえ、違いますけど」
「それにしては……その……生活感というか……物がありませんね……これでどうやって暮らしてるんですか?」
「え~……ほ……ら……PCが……ありますよ。
あと冷蔵庫とか、戸棚には調理器具とか入ってますし、衣類は押し入れに……
これだけあれば十分じゃないですか。
でも、まあ……他には何もないですね……いいんですよ。
どうせ寝るだけの部屋ですから」
「……よくありません! 人は物質的に豊かな暮らしをすることで、精神的にも豊かになり、幸せになっていく。
あなたにだって幸せになる権利はあるんです!」
「……また幸せになる権利……ですか……
私は……今すぐ寝ることが幸せになる条件なんですが、その権利は……」
その時、星野はPCデスクの上にキャラクターグッズを見付けた。
「これは……あ、あの……実は私、声優をやっているんですけど、このキャラクターの声を担当してるんですよ!」
頬を紅潮させながら嬉しそうに話す星野。
「ああ、それですか……そういう誰にも見向きもされてないキャラクターが好きで……
なんでグッズになってるんですか? 知ってますか?」
「見向きもされない……確かにそうですね……
そのグッズはその……振興会の者が勝手に……」
「振興会? ああ、そういえばなんか活動してるって言ってましたね」
その時、星野は事の発端であるヒナたんのSNSにそのグッズが映っていたことを思い出した。
「……これ……あっ!あなたは! もしかして……」
「いやぁ……このキャラクターの声優さんだとは知らずに……なんか嬉しいですね」
微笑む日向の発言を星野が遮る。
「あなたがあの騒動の原因ですね!!」
「……?」
日向には"あの騒動"のことが何か見当がつかず困惑した。少しの間を空け再び星野が口を開く。
「あなたのせいで、多くの人が迷惑を被っているんですよ!」
「迷惑? 何のことですか?」
「ニュースも見てないんですか? これです!」
スマートフォンでニュースサイトを開き、日向の目の前に突き出す星野。
そこにはSNSを発端に、世間では他人をコミュニケーション障害者と決めつけ、迫害することが活発に行われており、大きな社会問題となっていることが書かれていた。
そして、大部分のニュースサイトが、迫害に対する言及を早々に切り上げ、コミュニケーション障害者に対して難色を示す内容を掲載していた。
「あー、最近話題の……これくらい知ってますよ」
「知ってて放置してるんですか? 謝罪してください!」
「謝罪? 何が?」
「まだとぼけるんですか? もしかしたら自分が迷惑をかけてることにも気付いてないんですか?」
「迷惑って……そりゃあなたには迷惑かけてしまいましたけど……でもそれはあなたが勝手に……」
「違います! えっと……この投稿です!あなたのものでしょう?」
星野はSNSの画面を見せる。
「あー、確かにこれ書いたの私ですけど……
でも、今話題になってるのは、コミュニケーション障害に対する迫害ですよね? 関係ないですよ。よく読んでください」
「でも、この投稿が拡散されて今の状況になっているんですよ」
「だからよく読んでください。コミュニケーションに悩んでる人が不当に扱われてるという意味で……」
「普通の人はこの投稿を読んでそこまで考え至りません。
大体、みんながみんな3行も文章を読めると思ってるんですか? あなたはSNSのユーザーを過大評価しています!」
「えー……それってむしろ、SNSユーザーの方々を馬鹿にしてません? その方が失礼なんじゃ……」
「普通の人にはあなたの投稿を真面目に読んでる暇なんてありません!
幸せになるために必死なんです!あなたみたいに幸せを諦めてる人とは違うんです!」
「あー……そうですか……やっかいな人に介抱されちゃったなぁ……こりゃヤッカイホウってやつだ……」
「ブツブツ言ってないで、早く訂正を!」
「はい……でも訂正したってもう手遅れかと……」
「そうだとしても! 人々から幸せになる権利を奪った責任から逃れることは許しません!
人は自分の過ちを背負って生きていかなければならないのです!」
「大袈裟ですね……私も今幸せになる権利を奪われているのですが、それはいいんですか?」
「屁理屈でごまかさないでください! さあ早く!」
日向は星野の剣幕に押され、しぶしぶSNSに訂正と謝罪文を投稿する。
「誤解を招く投稿をしてしまい申し訳ありません。
こちらの投稿はつい出来心で、本当に悪い人なんてどこにもいないと考えています。
ですから、皆さま冷静になって考え直してください」
そしてそれを見定めるような表情で見届ける星野。
「あなたの謝罪はなんか薄っぺらく感じますね。
しかもまた3行も書いて……
そして『考え直せ』ですか。どっから目線なんですか?」
「……薄っぺらい……上司にも言われます……あ、あの時のはセクハラだったのかなあ……
あ、もう……寝ていいですか?」
「まあ、いいでしょう……ですが寝る前に、もうこんなことはしないって誓ってください!」
「はい……誓います……もうしません」
「本当ですか?」
「はい!」
つい背筋が伸びてしまう日向であった。
「わかりました……では」
星野はどこに隠していたのか、やおら習字セットと半紙を取り出した。
「これで書いて下さい! "私はもうSNSへの投稿をしません"と!」
「なぜそんなものをお持ちで?」
「誓うのでしょう!? 書いて下さい!」
質問を完全無視する星野に逆らう気力もない日向。習字セットには墨汁は含まれておらず、日向は硯で墨を擦ることを余儀なくされた。小学生の頃を思い出し、不器用ながらも墨を手にする。
「今のうちにちょっと出てきます」
星野は立ち上がり玄関に向かう。その姿が見えなくなろうかというタイミングで日向は墨を擦る手を休める。
「また戻ってきますからね! ちゃんと書くんですよ!」
「はいっ! いってらっしゃい!」
数分後、星野が日向の部屋に戻ると、半紙に薄い墨で「私はSNSへの投稿をしません」と書き上げられていた。
「なんですかこれは……これでは香典袋ですよ!
それに、お習字は止め跳ね払いが肝心、コインパーキングと同じです!」
「すみません……最近PCばかり使っていてめっきり字を書く機会が無くて」
星野は不満そうにその半紙を壁に画びょうで貼ると、買い物袋を持ち台所へ向かった。
とはいえワンルーム、5歩も歩けば台所である。戸棚から鍋やフライパンを勝手に取り出し、コンロに火をつける星野。
日向はその様子をぼんやり見つめながら考える。
(壁に画びょうで穴開けちゃったけど、管理人さんから怒られないかなぁ)
ほどなくして、油が加熱されて気化した匂い、肉が焼ける匂い、野菜が茹で上がる匂いが辺りを漂う。
「できました!」
星野は一瞬日向に微笑みかけるが、
すぐに気を取り直し、料理をテーブルに並べる。
料理と言ってもスタンダードな朝食だ。千切ったレタスとくし型切りのトマト、茹でたブロッコリーとアスパラガスを食べやすく切り揃えて並べたサラダ、それにカリカリのベーコンと半熟の目玉焼き。
電子レンジで温めたご飯には少し不釣り合いなメニューであった。
「うわぁ…ここに料理が並んでる、久しぶりに見た!」
日向は星野の期待するリアクションを返すことができなかった。それとはまた別に、驚きを浮かべる顔があった。
「あれ……?」
この部屋にはドレッシングが存在しなかった。そして星野は当然のようにドレッシングを買っていない。
そして、改めて見るとフライパンに引いたサラダ油は賞味期限を突破している。
「これ、食べていいんですか!?」
星野の不安をよそに、日向は返事を待たずに出された食事に箸をつける。星野が固まっている中、すでに料理は日向の口へと運ばれていた。
「……お、おいしい……」
日向にとってはドレッシングのかかっていないサラダも、古い油で焼いた塩しかかかっていないベーコンエッグも、それぞれに深い味わいに感じられた。
それは、久々に感じる味覚への刺激であり、彼女の涙腺を緩ませるほどであった。
「だ、大丈夫ですか? 良かった……」
安堵の表情を浮かべる星野。日向は襲い来る味のうねりに溺れるうちに気が遠くなって行く。
――気付くと外はもう夕焼け模様。何故か日向は着たことが無いパジャマに着替え、ベッドに横たわり、布団が掛けられている。
口の中には何故か一錠の薬が崩れかかっており、苦みを感じる。テーブルの上には苦みの正体であろう胃腸薬がぽつんと置いてあった。
そして、星野は姿を消していた。部屋は綺麗に片付けられ、星野の来訪は幻であったのかと錯覚させる。
「……あ」
しかし、壁にはしっかりと薄い字で「私はもうSNSへの投稿をしません」と書かれた半紙が貼られている。
「夢じゃなかった……のか。
あんなことで見ず知らずの人から怒られるなんて、この社会はやっぱり間違ってる……
でも料理作ってくれたのにお礼言い忘れちゃったな……もう会うこともないのかな。
……あー、そういえばパジャマってどうやって洗うんだっけ?」
日向が寝ぼけ眼でスマートフォンを取ると、見慣れない表示が並んでいる。
慌てて枕元のメガネをかけると、曇り一つない視界の中に大量の不在着信を見ることとなった。
「マズイ……! 坂上さんからだ」
30秒ほど悩んでから、恐る恐る不在着信に返信する日向。
「……おう、ヒカゲか。今どこにいるんだ? ちゃんと帰れたのか?」
上司の予想外の発言に拍子抜けする日向。
「あ、いえ、今家にいます。変な人に助けれもらって……気付いたら寝ちゃってて……
今から出社します! 申し訳ありません!」
「変な人? 何かされなかったか?」
「いえ、それは大丈夫です……」
(あんま大丈夫じゃなかったけど……説明するのが面倒だしいいや)
「そうか、まあ今日はもう遅いから明日でいい。
しかし、遅刻も欠勤もしたことが無いお前に連絡がつかないなんてな。
なんと言うか……無理はするなよ」
日向は"無理させたのはお前だろ"という言葉を飲み込み、
やけに優しい言葉をかけてくれる上司に不気味さを覚えていた。
「はい、ありがとうございます。明日は必ず遅刻せずに出社します」
「おう、そんなの当たり前だ。じゃあ、また明日な」
日向は電話を終えると再び朝まで深い眠りについた。
その後、結局訂正も虚しく、日向の投稿の余波がすぐに収まることはなかった。
日向自身も引き続き上司から理不尽な叱咤を受け、世の中の不条理に再び不満を募らせるのであった。
どう転んでも消極的な人間は損な役回りを演じることとなる、今回の騒動も、日向にその現実を突きつけることにしかならなかった。
「SNSなんてもう懲り懲りだよ……」
しかし、いつの間にか人々は、そんな騒動があったことすら忘れて行くのだった。