26話 俺の奴隷にしてやる。
26話 俺の奴隷にしてやる。
「誇っていい。存分に悦に浸っていい。さあ、言えよ。俺より不幸なやつはいない! 俺こそが最強だ! ってよ」
「……」
「俺は、今までにお前より不幸なやつを散々見てきたし、俺自身が受けてきた苦悩や絶望も、お前より上だという自負があるが、しかしそれがどうした? そんな不都合な現実を、お前が受け入れなければいけない理由はなんだ?」
「……」
「この世は、基本的に、等価交換。世界一不幸な男には、世界一の幸運が舞い降りる。例外もあるが、基本はバランスがとられるようになっている」
センの口元に薄い笑みが残る。
言葉は軽いが、どこか断定的。
ラットの胸の奥で、冷たい期待と嫌悪が交錯する。
「な……なんだ、急に……幸運って……それは、いったい、どういう」
「お前に、人生最大のチャンスをくれてやる。世界一の幸運と断ずるにいささかの躊躇も持たぬチャンス」
その告知に、周囲の囚人たちの息遣いが僅かに揃う。
『何をする気だ?』と、誰もが耳目を注ぐ。
「……金でもくれるのか?」
ラットの唇が震える。
期待か、嘲りか――自分でも判別できないよどみが混ざった声。
「俺の奴隷にしてやる」
言葉が落ちると同時に、ヤードの空気が一拍遅れて震えた。
遠くで笑いが漏れたが、それはすぐに消える。
「……ふざけるな」
「ふざけるのをやめたら、俺が俺でなくなってしまうぜ。『不愉快にラリってんのが俺という男の全部』なんだから。マジで、それ以外には何もないと言っても過言じゃねぇ。あとは、ちょっと根性があるくらいか」
などと言いながら、センは、ラットの頭から足を離した。
砂の上で靴底の跡が薄く崩れ、血のしずくが一つだけ落ちる。
センは指を鳴らし、短く息を吐いた。
ひび割れた地面に淡い紋がにじみ、光が糸のように編まれていく。
風が一瞬だけ逆立ち、空気の重さが入れ替わった。
次の瞬間、地面に描かれた小さなジオメトリの上に……一匹の猫が顕現。
灰色がかった白。
目は琥珀色。
喉の奥で小さくゴロゴロ鳴り、尻尾だけがゆっくり左右に揺れている。
「な、なんだ、その猫……どうやって……どこから出した……?」
「何か気づかないか?」
「なにか? なにかって……」
「よく見ろよ」
言われて、ラットは、その猫をじっと見つめる。
「…………え……まさか……ベン……?」
ラットの瞳が大きく開く。
猫は一歩、二歩と近づき、迷いなくラットの胸へ額を押しつけた。
ラットの荒い呼吸の鼓動に合わせて、ごろごろとノドを鳴らす。
人生で一番苦しかった時、その柔らかな表情に救われた。
だから、形が変わっても理解できた。
「よくわかったな。この猫は、お前が飼っていた犬……の転生した姿だ」
「……ぁ……ああ……」
ラットは砂に膝をつき、そっと抱き上げる。
『転生』という概念に疑問を抱く余裕すらなく、ただただ、目の前の愛しさだけをかき抱く。
小さな体温が腕に宿り、震えが少しずつ収まっていく。
猫は前足でラットの胸元をふみふみと踏み、スリスリと頬を擦りつけた。
壊さないように、けれど、出来るだけ力強く想いのままに猫を抱きしめるラット。
ボロボロと涙を流した。
嗚咽が止まらない。
心の器に、暖かな水が注がれていく。




