49話 『永き』を経たことで、『蝉原の武』は、自由になることが出来た。
49話 『永き』を経たことで、『蝉原の武』は、自由になることが出来た。
軽く、速く、相手の嫌がることを徹底するというスタイルを遵守する。それが、蝉原勇吾という概念が、もっとも活きる道である――と、蝉原は自分で勝手にそう判断した。理解なのか、判断なのか、この辺は、所説あるところだが、それはそれで、自分らしく風流で良きかな、良きかな――などとも思いつつ、蝉原は、弟子たちの陣形を軽やかに崩していく。
絶妙に、適切に、風雅に、
蝉原は、弟子たちを性悪く翻弄して、
状況的にも精神的にも優位な立場をキープし続ける。
蝉原勇吾のスタイルが、真に確立した瞬間。
これまでも、ずっと、似たような戦法はとってきたわけだが、
どこかあやふやで、型にハマりきれていないきらいがあった。
己の命に徹しきれていなかった。
退廃的な破滅主義思想のナルシズムが邪魔をしていた。
没頭することのダサさと向き合うことができずにいた。
それが、『真の永き』という地獄を積み重ねたことで、
自身を縛る無意味なプライドから、ようやく解放され、
――『蝉原の武』は、
自由になることが出来た。
「殺神覇龍拳!」
心なしか、踏み込みが軽く感じる。
拳の重量は少し軽くなったけれど、
その分、速度が、はるかに増した。
軽く、速く、羽のように、
跳ねるように、飛ぶように、
遊ぶように、またたくように、
「はははははははははははははははっ」
『永き』の中で、壊れてしまったようにも見えるが、
それだって、蝉原特有の演出にすぎない。
蝉原は、自身が『もっとも蝉原勇吾らしくあるため』の方法を模索する。
その果てに、
「――真醒・究極超神化――」
蝉原は、次のステージに到る。
今まで、どうしても届かなかった世界に足を踏み入れる。
届くだけでは飽き足らず、
そのまま、
極蟲神化と、究極超神化3の上に重ねていった。
その軽薄さこそが蝉原勇吾の真髄。
神のシステムすら弄んでいく天性の極道スタイル。
蝉原が強くなるのに呼応するように、
弟子たちも大きく膨らんでいくのだが、
しかし、その追従をあざ笑うかのように、
蝉原は、一人で、どんどん、先に行ってしまう。
「……究極超神化8!」
トリプルを超えて、クアドラプルの領域へ。
もちろん、うまいこと動くことは出来ない。
トリプルをマスターできていない段階なので当然の話。
しかし、そんなことは関係ない。
蝉原は、自身の軽妙さを――その尖った軽薄さだけを、ことさらに追及していく。
「……ふふふーん、ふふふーん……」
あえて、サイコに鼻歌をうたってみるテスト。
どこまで、自分の軽さに潜れるか挑戦しているかのような暴挙。
慣れないクアドラプルのムーブは、まるで泥酔の千鳥足。
けれど、蝉原は、その『安い無様さ』を『鼻につく滑稽さ』へと変貌させて、『まだ舞える』と嘯いていくという、風雅な狼藉に傾倒。
華やかに、スマートに、シックに、御乱心なさってそうろう。
「究極超神化7!」
『ここまできたら、ついでに』といったノリの軽さで、クインティプル神化を決め込んでいく蝉原。
ここまでの1兆年の中で積み上げてきたGODポイントを、すべて、複数神化につぎ込んでいく。




