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英章の車に揺られながら数分で天童家に着く。といっても近くの駐車場で車を止めてそこからは歩いてやってきたのでまっすぐにと言うわけではないのだが。
お邪魔しますと声を変えて中に入る。他には誰もいないようで玄関周りもすっきりとしている。英章が自分の靴は下駄箱にしまったので奏音の靴だけが残った。
そのままリビングへとつれられ少し待っててほしいという言葉を受ける。その少しが考えていた以上に長い時間だったので、逆にソワソワとして、なんとなく落ち着かない。今まではそれなりに覚悟を決める時間があったから緊張なども緩和されていたのに対して今回は急だったというのもあるかもしれない。
「ごめんね、おまたせ」
「いえ。待ってなんか――――」
そこで言葉が切れた。
甘く、それでいて粘っこさのない匂い。鼻に抜けていくのはカカオ特有の苦みを含んだもの。
「……ココ、ア?」
思わず呟いてしまう。英章が持っていたのは紛れもないホットココアである。思えば、センブリに勤め始めてから自然とココアを飲む回数が減っていた。喫茶店に出入りをすること自体が減っていたということもあるし……いつからか次飲むときは英章に淹れてもらいたいとなんとなく考えるようになっていたからかもしれない。最後に飲んだのは……そう、京音里の元へ訪れたときだ。そこで京音里に出されたココアが最後だったはず。
「なんで?どういうこと?」
驚きから敬語を忘れて尋ねてしまう。英章はわざわざそのことにはツッコまずに、逆に尋ね返してみせる。
「これがインスタントだとは思わないの?」
最初から決め打ちで英章が淹れたと考えている彼女に返す。すると虚を突かれたような顔になる奏音。確かにすぐ淹れてくれたと考えていたがインスタントを作っただけに過ぎないのかもしれない。だけども、と首を横に振って自分の考えと英章の言葉を同時に否定する。
「だって、これ……京音里さんのところで飲んだのと同じ匂いだし、そもそもここでわざわざココアを出す必要性もないはず。それに前もって用事があると言われたら総合的に判断してこれは淹れたものと考えられるよ――――うん、考えられますよ」
しゃべりながら少し冷静になったおかげでようやく敬語を思い出す奏音。彼女の慌てっぷりに少しだけ微笑んでから続きを促す。
「さすがボドゲマスター。正解。説明は後でするから、さぁ、飲んでみて」
「……とりあえず、いろんな属性を私に付け足すのはやめてください。いただきます」
すっとココアを飲んでみる。
包み込む甘み。チョコレート特有の刺激をシナモンや生クリームのおかげでなめらかでなまめかしいものへと変質させて、反発もない。下で転がされるココアはザラッとした感触もなく心まで暖められる。
―――――だけども、違う。
奏音はとろけそうになる頬を抑えてゆっくりとしっかり味わう。
「……先生と再会してから時々メールなんかでやりとりをしているんだ。それで休みの日なんかにはたまに、京都まで訪れて実際に勉強をしている。そして昨日の夜、ココアを試しに作ってみたらなんとなくコツをつかんだような気がして……、だからそのコツを忘れたくないから今日、緊急に休みを入れたんだ」
「それで、休みだったんですね」
「そう。自分でもなかなかの出来だと思う。だけどココアを飲み過ぎたせいかフラットな感覚にならなくて……だから奏音ちゃんに頼もうと思って。どうかな?先生のココアと同じじゃないかな?」
その問いかけにまたゆっくりとココアを口に運ぶ。そして数ヶ月前の記憶を呼び起こして、ゆっくりと首を振った。
「違います。どちらがいいか、とかは人の好みがあるので私には言い切れませんが、これは一緒ではないです」
「……そっか」
「もっと言うならば、少なくとも私は京音里さんのココアの方がおいしいと感じます。このココアは、何かが違うと思うんです」
「何、か?」
「その何かまではわかりません。でも、何かが違う。これはゴールではなくて、なんていうんだろう……本物によく似せられた贋作。そんな印象を受けます」
一人のバリスタとしてしっかりと否定をする。これをセンブリに置くというのであれば、反対意見を投じるという意味を込めて。
「……ごめんなさい。生意気を言って」
「うぅん。下手にあわされる方が僕はいやだから嬉しかったよ。やっぱり奏音ちゃんに頼んでよかった」
「でも、フォローとかそんなんじゃなく、美味しいのはおいしいんですよ?正直私が昔ひいきにしていたチェーン店のココアよりずっと美味しいです。だけども、違うんです。センブリに出すならこれじゃないと思うんです」
「センブリにか……ありがとう。ふぅ、また1からやり直しだな」
天井を見上げる英章にはそれ以上何も返さずに、奏音は残りのココアをゆっくりと味わいながら飲み干していった。
――――何かが違う。その何かとは、何なのであろうか。




