1
自宅から最寄りの駅までは35分ほど電車を乗り継がなければならない。数年前まではもう少し時間がかかっていたが特急電車の仕様が変わり、今まで止まらなかった駅も主要駅として止まるようになった。その為準急を用いる必要性がなくなったのだ。
その最寄駅からどれぐらいで目的地につくかというと、込み具合にもよるが車で10~15分ほどだ。本当にこの駅を最寄駅と称していいのか疑問に思うが、最も近い駅という意味ではたしかに最寄駅だ。そんな小高い山の途中に二谷奏音が通う私立水城学院大学が存在する。
今日は酷く道が混んでいたので17分ほどで大学キャンパス内についた。奏音はスクールバスの運転手に軽く会釈をしてからステップを降りる。トンッと柔らかくコンクリートを踏む。少しバスから離れてから小さく伸びをする。
奏音は小、中は徒歩で、高校は自転車で学校に通っていたため入学してまだ一か月の大学への通学は少し慣れないものがあった。特にスクールバスは満席になると出発するため必ず座れるという利点はある。だが補助席もフル活用するため補助席に当たった時は、その慣れないすわり心地に気持ち悪さも感じる。はっきり言ってしまえば肩がこるのだ。
そうまでして学校に来て今日受ける授業は3限の基盤科目である『入門科学』のみである。もし奏音が理系でそういったものを専攻しているのであればまだマシなのだろうが、『入門』とついていることからわかるように奏音は文系であり、大学自体も文系大学である。
水城大は経済、経営、文学、国際コミュニケーション、社会学、心理学の計6学部、7学科を持っており奏音が通うのは心理学部心理学科だ。そんな奏音にとって科学は興味をほとんど持てない授業だが、ただ単位を取得するために学校にきていた。心理学も海外では理系扱いをうけることもしばしあるのだが。
「せめて誰かいたらなぁ……」
小さくため息を吐く奏音。一年生春学期は取れる単位がなぜか非常に少ない。大学に慣れさせるためという大学側からの配慮なのかもしれないが、結局は124単位が卒業要件としては必要なので、最終的には自分の首を絞めることとなる。
奏音の友人たちは取れる授業をうまく考え週休3日を獲得していた。対して奏音は抽選科目がほとんど外れたこともあり、結局は取れる授業の中でまだマシであった金曜日の『入門科学』を取るハメとなったのだ。
「心理学部……のはずなんだけどなぁ」
幾度となく呟いたその言葉を、また呟きながら緩やかな坂道を上り『入門科学』の講義が行われる3号館へと向かう。
ある意味のトラップともいえるそれは、一年生の内は学部なんてほとんど関係ないということである。心理学部しか取れない心理関係で取れたもの、もといほぼ強制で取らされた授業は『心理統計』と『心理学の基礎』の二つのみである。他は他学部でも取れる心理系を一つと、今向かっている『入門科学』と似たような基盤科目ばかりである。一見すると何学部か全くわからない。大学とはえてしてそういうものだ。
早めに教室についた奏音は、前列から3席目あたりの窓際の席を陣取り、スマートフォンを取り出す。
「あっ、スタミナ満タンだ。もったいない」
スマホの画面をつけたところ奏音がやっているゲームである『Second World Story』からメッセージが来ていた。
早速ゲームを開始する。Second World Storyは悪神ロキによって壊滅寸前まで追いやられたのち、一人の勇者がロキと同士討ちをして10年がたったところから始まるソーシャルゲームだ。主人公はその世界でロキのせいで現れるようになったモンスターを召喚獣で倒していき、ストーリーを進めていくといったある意味王道のソシャゲだ。そこそこの人気はあるらしく10万ダウンロードは突破し、中には数十万もの課金をする猛者もいるらしい。奏音は無課金で遊んでいるが。せいぜい今のようにストーリーを進めるために必要なスタミナがMAXまで回復していた場合、自然回復分の時間が無駄になってもったいないなと感じる程度だ。
ポチポチとスマホを操り、召喚獣を使っていると緩やかに時間が過ぎていき授業開始五分前となる。この講義の人数はおよそ100人。出席はカードリーダー読み取りで行っており、五分前から使用可能となる。奏音はカードケースを持ってそのまま立ち上がり、ピッとカードリーダに合わせて元の席に戻る。奏音の友達はこの授業には受けておらず、かつかなり広い講義場なためほぼ必然的に奏音の隣には誰も座る人物はいなかった。
そんな中で先生もやってきて、いそいそとスライドの用意を始めたので奏音もスマホを閉じる。気持ちを切り替えるように二回自分の頬を音が鳴るかならないかの程度の強さで叩き、ルーズリーフ、筆記用具を用意した。といってもこの授業はプリントが配られるので、ルーズリーフを使う機会など今まで3回の授業の中では一切なかったのだが。
講義の始まりを告げるチャイムを聞きながら一応は真面目な生徒である奏音は先生の話をきちんと聞きプリントを埋めていく。奏音から見える範囲でもスマホをいじっているものや寝ているもの、喋っているものなどもいるが、先生もよっぽどうるさくない限りは注意をしなかった。
授業時間は90分である。この90分授業というものにもいい加減慣れてきた。もくもくと書きつつ、あくびを噛み殺しながら原子記号の仕組みについて理解しようと頑張っていると授業が終わる。ファイルにプリントを入れてから今日も使わなかったルーズリーフをしまう。空は灰色だ。トボトボとスクールバスへと向かった。
その途中。
「あっ、カノンじゃん」
「ちっひー。来てたんだ」
話しかけてきたのは全員が大学に入って最初にできた友人たちの一人であるちっひー。メンバー内ではそう呼ぶためちっひーで固定してしまっている。同じように奏音もまたこのメンバー内では奏音ではなくカノンなのである。
「授業終わり?」
「うん。ちっひーは?」
「私は部活だよ。カノンもなにか入ったらよかったのに」
「入ろうとしたんだけどねー」
「あっ、そうだったね」
苦笑いを浮かべるちっひー。奏音が入ろうとしていたのは高校時代に入っていた弓道部。だが弓道部とは名ばかり……というほどでもないが最低でも月に一度は呑みの席があるとのこと。盛り上がりなどの関係で未成年でも容赦なく呑むことになるという情報をリークした奏音は早々に辞退したのだった。純粋に弓道をやりたかった奏音にとってすればいらない行事だ。
「じゃっ、私は部活をエジョイしてきます」
「なにそれ嫌味?」
「どう受け取るかはカノンしだいかなー?なんて」
ふふっと笑うと部室のある方へと逃げるように去って行ってしまった。もう、と小さく怒りながらも顔は笑顔だ。再びスクールバスへの歩みをコツコツと進める。
「はぁ」
そして幸せを逃す。
パンダをみるものか月の石をみるものか。だがしかし長蛇の列(列と呼ぶには前の方はごちゃごちゃだが)の先にあるのはバスである。この調子ではまずスクールバスにたどり着くだけで精神が削り取られそうだ。
そう考えたのちスマホを操りツイッターのTLを追いかけながらバス戦争を終える。手に入れた席は奇跡的に補助席ではなかった。少し得した気分にひたりながらSecond World Storyを開始する。スタミナは未回復だがバスの道中程度なら時間をつぶせるだろう。そんな奏音の思惑は外れる。
空はプールの時に浴びるシャワーのように緩やかな雨が降り始めた。それに伴って運転が慎重になるドライバーも増え次第に渋滞とまでは行かないまでも道が混み初めていったのだ。
そのため道はうざったいほどに混み始めた。普段ならもうついているのにと少し苛立つが仕方がない。そうしてやっとの事で辿り着く。元々道が混んでいた事も合わさり計20分もかかってしまった。最短時の倍ほどだ。
運転手への礼も忘れて折り畳み傘を開き駅へと向かおうとするが、同時に見えた腕時計を見て諦める。今丁度特急は行ってしまった。準急も奏音がホームに着く頃には次の駅へと走っているだろう。こうなると面倒なのだ。次にやってくるのは快速特急。この電車は奏音が降りる駅には止まらない。そのため快速特急を見送り、さらに少し待って準急へと乗らなければならないのだ。その間15分あまり。
快速特急。これの登場により奏音の利用する駅にて特急が止まるようになったのだが、その快速特急によって歯がゆい思いもする事になるのだから皮肉なものだった。
こうなっては仕方ないとゆっくりと歩き出す。そもそも特急の方が楽なため準急に乗る気力もない。ならどこかで時間を潰そうと駅とは反対の道をぶらぶらと歩き出す。開き直りだ。
「なにもない……」
そう呟かざる得なかった。奏音が住む場所は都会だ。それに比べればこの駅はなにもない、とは言い過ぎだか少し開けただけの場所のように感じる。様々なイベントをやっているちょっとした会場もあるのだが、今日はなにもやっていないようだ。
そのままちょこちょこと歩いている講義の疲労が出てきた。
「あの、授業無駄に書くからなぁ」
愚痴を言いながらどうしようかと考える。このまま歩いて帰っていけば特急がやってくるのにホームで待つ事も少なく済むだろう。だが、疲労は隠れない。そう思っていると1軒の店を見つける。
十字路の交差点の角。茶色い外装のそれは『喫茶 センブリ』と書かれていた。
「こんなところに喫茶店なんかあったっけ?」
奏音はこの駅自体は数度利用している。世間的に評判のいい、デザイナーの服が数多く売ってある店があるので、それに誘われて降りる事があるためセンブリなんて店がある事が少し驚きだった。
物は試しだ。せっかくここまで来たんだし。
自分にそう言い訳をして肩に掛けている黒のバッグを担ぎ直して店へと入った。
カランカラン。
ドアのベルがなる。その音に反応して1人の美青年が奏音の元に訪れる。どうやら時間が中途半端な事もあって客はいないようだ。
「いらっしゃいませ。一名さまですか?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
笑顔で案内されてカウンター席へと着く。窓からの眺めがよく見える。店内にはBGMが薄くかかっていた。少し奥ばったところには調理場が置かれていた。数々のコーヒー豆が置かれておりそこには一人の男性がいた。
先ほどの美青年はメニューを持ってきて奏音に渡した。
美青年は店のユニフォームだろうか。白のワイシャツにエメラルドグリーンのジャケット。黒の長ズボンを履いており、胸元には益岡と書かれているネームプレートをつけていた。
メニューを受け取った奏音はメニューをざっと見る。
「あれ?」
だがしかし、目的のものが見つからない。
「どうなされましたか?」
奏音の疑問の声を聞いたのか店員が尋ねてきた。
「あの、ココアってないんですか?」
「ココアですか」
甘党気質のある奏音はココアが好きだ。だが、メニューには見つからない。見落としているのか。そう考え尋ねてみたが。
「申し訳ありません。ココアは当店ではお取り扱いしておりません」
そう、返されてしまった。