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「いらっしゃい……お久しぶりです」
奏音は言いかけた言葉を止めて、別の言葉へと還元する。センブリの扉を開けたのは茉奈だった。しかし、茉奈は今回ここにいるのは店員として出てはなく客としてだ。そういえば奏音はセンブリに客として訪れるということをもう何年もやっていないことに気が付く。
センブリで働いているからこそできないことだ。
「久しぶり。そっちはどう?」
「いつも通りですよ。何も変わらないセンブリです」
ふふっと笑って返す。茉奈は大学の卒業とともにセンブリを退店した。その後は夢でもあった福祉系の職業へと就職をしている。そこで現れる鬱憤などはたまに奏音も聞くところだ。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「おぉ、店長やってるねー。じゃあ、カプチーノ頂戴」
「お受けいたしました」
後ろから暇を持て余した英章が注文を受けに来る。奏音としては仕事が奪われたような気分で、この際カプチーノを作って立場逆転でもしてやろうかと思ったが、そもそも反転することなどさほど珍しい話でもないので、何もしないでおく。現在いる客は昔からのなじみで茉奈に軽く挨拶をしてからコーヒーをたしなんでいる。これならいいだろうと茉奈の前に陣取り座る。昔ならばこのように堂々とサボることなど考えもつかないところだ。
「今日は二人だけ?」
「京ちゃんは大学で講義中。華央さんは今日は残りの有休を昇華しながらお店探ししているみたい」
「順調なの?」
「とりあえず店名をアジサイという名前にすることまでは決まったようですけど……って詳しくは茉奈さんの方が知っているんじゃないですか?」
「それが最近連絡も少なくてね。アタシも忙しかったし」
「そういうところからですよ。飴と鞭、うまく使い分けてくださいね」
「奏音ちゃんも言うようになったなぁ」
少し苦く笑いながら茉奈は答える。そうしているうちに英章がカプチーノをもって現れる。
「お待たせ。とにかく、益岡も頑張っているみたい。ただオープニングスタッフに奏音ちゃんを持っていこうとスカウトしたところだけは許せないところだけどね」
「そんなことしたの!?」
「あはは、そうですね。結構真面目に私のことをスカウトしようとしていたところを英章さんに見つかって」
「うちの大切なスタッフだからねぇ。アイツがいなくなったら副店長は奏音ちゃんになる予定だし。コーヒーを淹れる技量はもちろん、パティシエールとしても優秀、センブリにはいなくてはならない存在となっているからね」
「それはそれは」
と茉奈は肩をすくめてその言葉を受け取る。常連が会計を申し出たので英章がそれを受け取る。それを不満そうに見送る奏音。
「『僕の奏音ちゃんを引き抜かないでほしいな』まではかっこよかったんですけどね。そこまで長々と理由を説明されたら私自身には魅力がないのかと怒りたくもなります」
「無駄無駄。あの人のコーヒーバカをやめさせるなんて、華央さんがボドゲで奏音ちゃんに5連勝するくらい無駄な話」
「それはそれでひどいですね」
無理判定の度合いをそのような形で出されるのは少々かわいそうでもあるが、それほどまでに奏音が成長を遂げたのか華央が弱くなったのか。
「でも、そうするとここのスタッフは大丈夫なの?」
「んー、また募集はかけているんですよね。京ちゃんに頼れるのもあとちょっとだし。よかったら茉奈さんまたこちらで働きますか?」
「残念ながらうちは副業禁止です。知らないけども」
クスクスと笑う。そうしながら穏やかな時間が過ぎていく。
ココアのない喫茶店にココアができて数年が過ぎた。
新メニューの開発はもちろん続いていく。
甘くて苦い、センブリでの日常は続いていく。