第1話 悪夢 織部紅葉
私、織部紅葉の右手には母の優しい手が、右手にはゴツゴツとして大きな父の手が握られている。
ヒグラシの演奏の下、二人にぶら下がりながら、目的地の遊園地へ向けて屋敷と芦戸市を結ぶ坂を下りていく。
父は仕事が忙しく家族で遊びに行くことなど滅多にない。夏休みを利用し、祖父の家に修行に行っている出来の良い妹も現地で集合する手はずになっている。まさに家族そろってのお出かけなのだ。だからこのとき私は激しい喜びで心がいっぱいになっていた。
得意げに幼稚園で習った曲を歌っていたら通り過ぎる大人達が私を見て暖かな笑みを浮かべる。
遂に私達は芦戸市駅前に来てしまう。
(行くな!! いくな!! 行くなぁぁ!!!)
無駄だ。わかってる。これはいつもの質の悪い夢。単なる記憶の再生に過ぎない。
信号が青となり、駅前のスクランブル交差点を渡り切ったとき上から幾つもの光が振ってくる。
視界が真っ白に染まり、思わず瞼を閉じる。
「お父さん? お母さん?」
返事がないので瞼をゆっくり開けると、そこには手だけとなった父と母がいた。
……
…………
………………
瞼を開けると視界がぼやけている。私は視力が悪くない。寧ろ学校に健康診断にくる眼科医がドン引きするくらい良く見える。現実逃避をするのは止めよう。視界が悪いのは留めなく流れる涙からだ。
裾で涙を拭い、洗面所へ向かう。
「ひどい顔……」
すっかり腫れあがった目に苦笑しつつも顔を水で洗う。今は晩夏だが悪夢にうなされる程度には寝苦しい。冷たい水は淀みきった私の気持ちを僅かだが洗い流しくれた。
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コンビニのお握りとカップラーメンというお馴染みの朝食を食べ終えて『清慶学園』の制服に着替える。
『清慶学園』は私が通う学校。朝のホームルームの開始は八時四十分。現在は五時五十五分。普通、朝の弱い私は学校にギリギリで向かう。この時間に起きているのがまさに奇跡なのだ。勿論、あの胸糞の悪い夢を見た事も多少はあるが、今朝はどの道、よらねばならない場所がある。早起きは必須だった。
そろそろ時間だ。腰を上げた途端、玄関のベルが鳴る。どうやら到着したらしい。せっかちなあの人らしい。
鞄を持って玄関へ行き扉を開けると執事服を着用した白髪の老人が頭を軽く下げていた。
「紅葉お嬢様、お迎えに上がりました」
「良治さん、ありがとう」
「どうぞ」
手の先を私の屋敷の門の前に止められている黒塗りの車へと向ける。
乗車して約三十分後、郊外の山道に入って暫くすると一際大きな門が見えて来た。
門に入り、さらに十分程車を走らせると高校程もある巨大な屋敷が遠くに見える。我が祖父ながら、あの敷地と屋敷はこの狭い日本では反則だと思う。
車は屋敷の隣の地下の駐車場へ入って行く。
車から降りると、数十人の執事やメイド達が一斉に列を為し頭を下げてくる。
(もうっ! この手のお出迎えは止めてって毎回言ってるのに!)
良治さんは一礼するとゆっくりと歩き出す。
前を歩く良治さんの後ろをついていくと食堂に通される。まあ食堂といっても軽く学校の学食ほどの大きさはある。しかも料理は一流レストラン以上。
実際に日頃、この食堂を利用しているのはこのブラウン色のテーブルクロスのかかった細長いテーブルの一席に座っている老人とあと一人のみ。
このテーブルに座っている老人が私の祖父――泉嘉六であり、日本最大の財閥――泉財閥の総帥。
六十五を超えているとは思えぬ巨躯に顎鬚を蓄えたその姿はビジネスマンというよりは老兵の方がぴったりイメージに沿う。このゴツイ姿に似合わず大の子供好きであり、幼い頃はよく遊んでもらった。
「おお、紅葉、よく来たな」
お爺ちゃんは下唇を横に引っ張りニッとするいつもの陽気な笑顔を浮かべる。
「おはよう。お爺ちゃん」
「おはよう。紅葉、さあ、早く座りなさい。
良治、紅葉にも朝食を――」
「御免、私もう食べて来たからいらないわ」
お爺ちゃんは大きな息を吐き出すと、良治さんに一言、二言伝える。
良治さんは頷き奥の個室に姿を消すと、黒色の布袋を持ってくると私の前のテーブルの上にコトッと置く。
お爺ちゃんは顎で私に布袋の中身を確認するように指示してくる。
布袋をひっくり返すと、中から真っ赤な石が転がり落ちる。手に取り色々な角度から眺め回す。
間違いない。父の資料にあった『真赤玉』だ。『真赤玉』はその意思の赤さが強いほど純度が増すところ、この石は一点の曇りもなく真っ赤だ。最高純度。これなら触媒として十分すぎる。今日の霊獣召喚の儀式も万事上手くいく。
「お爺ちゃん、ありがとう!!」
身を乗り出すと、 お爺ちゃんは笑顔を消し神妙な顔で私の目を見つめて来る。
「紅葉、儂は約束を守った。今度はお主の番じゃぞ?」
「ええ」
私はこの『真赤玉』の調達を お爺ちゃんに頼んだ。父の残してくれた資料によれば『真赤玉』は様々な術の儀式に用いられる万能の石。その重要性は幸いにも一般に知られていないが、厄介な事にこの石、加工のし易さから宝石としても非常に高価だ。一般人が手に入れるのは不可能と言っても差し支えないが、その点 お爺ちゃんの財力と情報網なら発見、取得も可能だったというわけだ。
この私の依頼に お爺ちゃんは二つ返事で了承した。ただ、その代わり、二つの条件を出したのだ。
一つ目の条件が、私が危険な行為をするときは必ず お爺ちゃんの事前の了承を取ること。
二つ目が、妹同様、お爺ちゃんの保護下に加わる事。
この二つだ。
お爺ちゃんにとって妹と私が唯一の肉親だ。幼い頃から目に入れても痛くないほど溺愛してくれている。
だから感謝はしているが、駄目だ。駄目なんだ。まだ私は使命を何も為し得てはいないから。
「そうか」
お爺ちゃんの顔から険しさが消えた。何時ものゆったりと優しい笑顔に戻る。
(御免、お爺ちゃん)
内心に尾を引く呵責の念に祖父に心の中で何度も謝りながらも私は、屋敷を後にする。
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清慶学園――泉嘉六が理事長を務める日本最大のマンモス高。その生徒数は全国平均の十数倍にも及ぶ。
小、中、高、一貫教育で定評があり、大学も二十世紀初頭、私立では初めてのノーベル賞受賞者が本大学から出てから、毎年のように世界の科学賞を連発させている超高度な研究機関でもある。
とても学校とは思えない大きな門を私を乗せた車は通り過ぎる。
学校内は小学校、中学校、高校、大学の順で門から離れて配置されている。近くの小学校は兎も角、高校設置区域なるとバスでなればとても移動する気が起きない距離だ。
車は小学区、中学区を過ぎて高学区へと進む。
「ここでいいわ。良治さん、ありがとう」
「まだ距離はかなりありますが、よろしいので?」
「うん、丁度いい運動になるから」
良治さんは顔を曇らせると車のドアを開けてくれた。彼には私の考えなど御見通しらしい。
お爺ちゃんの提案には同意した。騙すようなことをして心に薄荷のような後味が残るのも事実だ。だが私はお爺ちゃんの保護下に入る気などない。保護下へ入れば私が死ぬ程嫌いな奴と将来結婚させられる羽目になりかねないし、何より、それだけは妹が絶対に許しはしないことだから。
泉家と接触している所をクラスの人達に見られたくはない。軽く礼をして校舎へ向かう。