Act.089:焦げた写真
次の日の土曜日。
自宅にいた詩織は、椎名が話していた映像コンクールのホームページを覗いてみた。
金賞、銀賞、銅賞の三つの受賞作の作品名と制作者の名前が掲示されていたが、銅賞に、「ライブ!」というタイトルの椎名の作品が選ばれているのを見て、詩織は我が事のように「やった!」と叫んでしまった。
バンドのメンバーにもすぐにラインで知らせて、椎名にもお祝いメールを送った。
椎名からは、すぐに「ありがとう。やっと光が見えてきたよ」と返信があった。
デートのことを言われるかと、少し身構えていたが、「例の話は明日に」とだけ返信メールの最後に付け加えられていただけだった。
そして、その日の午後。
詩織は、眼鏡も掛けずに、いつものボーイズ風ファッションで響の家に向かった。
午後四時少し前に、響のマンションの前に着くと、ちょうど、詩織のスマホがメール着信音を鳴らした。
見ると、瞳からで、心配していたとおり、渋滞に巻き込まれてしまったので、まだ、帰り着いていないとのこと。
詩織は、前日に学校で瞳から預かった響の家の鍵を使い、オートロックの玄関を入り、最上階まで昇ると、部屋の鍵も開けて、中に入った。
まっすぐリビングまで行くと、応接セットのテーブルの上に、「詩織、来てくれてありがとう! 冷蔵庫の中にジュースを入れてるから、勝手に飲んでて。テレビのリモコンはテレビの横にあるよ」と書かれた、瞳のメモが置いてあった。
帰りが遅れる可能性があるということで、瞳が用意していたのだろう。
もっとも、そう言われても、人の家のものを勝手に触ることにも抵抗があって、詩織は、ここに来た時にはいつも座るソファに腰を沈めた。
今、午後四時過ぎ。
瞳からのメールでは、四時十分頃までには帰り着くだろうとあったので、あと十分、このまま座って待とうとしたが、さすがに、じっと座っているのも限界があった。
立ち上がり、サッシから外を眺めようと思ったが、ひょっとしたら、芸能記者が望遠レンズで狙っているかもしれないと考えて、自重した。
ぐるりとリビングを見渡した詩織の目に、キャビネットの上に飾られている三つのフォトスタンドが留まった。
まず、一番左に置いているフォトスタンドに近づいて見てみると、響の何らかの功績を称えるパーティーの席上だと思われ、着飾った響と瞳のツーショットだった。最近撮った写真のようで、響は、いつもの穏やかな笑顔をしていて、瞳は、喜びを爆発させているかのような満面の笑みであった。
視線を右に少しずらし、真ん中のフォトスタンドを見ると、響が舞台上で表彰状を受け取っている写真だった。響の介添えで一緒に舞台に上がっているのであろう瞳が、誇らしげな顔で響を見つめていた。瞳がまだ中学生くらいに見えることから、もしかすると、響が初めて受賞した文学賞の時なのかもしれない。
更に視線を右にずらした詩織は、「あっ」と思わず声をあげてしまった。
右端のフォトスタンドには、少し焦げた跡がある写真が入れられていた。
写っている四人は、響と瞳、そしてその両親だろう。響が高校生、瞳が小学生高学年の頃と思われ、その二人の後ろに写っている父親と母親と思われる二人の表情は明るかった。
響と瞳の両親は、響が高校三年の時、響がこのまま失明してしまうことを悲観して自殺してしまうが、この写真を撮った頃には、そんなことは思ってもいなかったのだろう。響がその金髪で虐めに遭っていたことにもくじけずに、この写真のような笑顔ができていたにもかかわらずにだ。
詩織は、あらためて、響と瞳の壮絶な人生を、そして、それをまったく表には出さずに、明るく振る舞っている二人に感動せざるを得なかった。
二人がくぐってきた苦難に比べると、バンドデビューのために、アイドルであることを隠してきた自分の苦労など、取るに足らないことだ。
詩織は、この二人の兄妹の力になれることがあれば、微力ながらも、どんなことでも協力しようという想いを改めて強くした。
玄関ドアが開く音がすると、「詩織−!」と瞳の大きな声がした。
詩織もすぐに玄関に出て行った。
「お邪魔してます!」
詩織は、玄関で響と瞳に挨拶をした。
「桐野さん、いらっしゃい。こんな形でお迎えすることになって、すみません」
「本当だよ。途中で道路工事をしててさ。土曜日くらいはお休みにすれば良いのに」
靴を脱いで、詩織の横に立った瞳は、詩織に軽く頭を下げた。
「詩織、ほんと、待たせちゃって、ごめんね」
「いえ。こちらこそ、何度もお招きいただいて、申し訳ないです。先生だって、お忙しいでしょうに」
「桐野さん」
同じく靴を脱いで、詩織の横に立った響が詩織に呼び掛けた。
「桐野さんに一つお願いがあるのですが?」
「何でしょう?」
「『先生』という呼び方はしないでほしいのです。僕は、小説家桜小路響として桐野さんにお会いしている訳ではありません。桜小路響という一人の男として会わせていただいています」
「では、『桜小路さん』とお呼びすれば良いですか?」
「詩織、私も『桜小路さん』なんだけど?」
瞳が嬉しそうに突っ込んできた。
「えっ、それはそうですけど」
「私とお兄ちゃんを区別するには、名前で呼ぶしかないんじゃない?」
「な、名前でですか?」
今まで、男性を名前で呼んだことのない詩織は、途端に緊張してしまった。
週に三回、バイトで会っている椎名も「翼」とは呼ばずに、未だに「椎名さん」と呼んでいた。
「あ、あの、じゃあ、響さん」
「すみません、桐野さん。ご無理を言って。でも、僕も女性に名前で呼ばれるのに憧れていたものですから、すごく嬉しいです」
障がいのせいで、恋愛の経験はないと言っていた響も嬉しそうだった。
「厚かましいついでに、僕も『詩織さん』とお呼びしてよろしいでしょうか?」
「あっ、はい」
詩織のその返事を聞いて、瞳が「うふふ」と笑った。
「お兄ちゃん。今日、詩織に家に来てもらった目的を、もう達成したんじゃない?」
「図星だよ。桐野さん、いや、詩織さんとは、もっと親しくなりたかったからね」
少し照れたように話す響の表情がすごく輝いて見えた。
「そういえば、今日の本題は?」
響と瞳とともに、リビングまで移動してきて、ソファに腰を降ろしてから、詩織は、瞳の小説賞落選の残念会をするという訪問理由を唐突に思い出した。
「落選の残念会は、急遽、中止して、詩織に来てもらって、元気が出たお兄ちゃんと私の『よし! やるぞ! の会』にした」
「はい?」
「ふふふ」と楽しそうに笑った瞳は、「落選は覚悟してたから、もう、次の作品を書き始めているよ」と、少し胸を張った。
「本当ですか?」
「うん。また、ファンタジーなんだけどね」
「今度も頑張ってください、瞳さん!」
「ありがとう! でも、詩織。その言葉は、お兄ちゃんにも言ってあげて」
詩織が響を見ると、響は嬉しそうな顔を詩織に向けた。
「僕も次の作品を書き始めています。今までの桜小路響の作品とは、かなり毛色が違った作品になると思います」
「どんな風に?」と言ってから、詩織は「それは秘密ですよね」と続けた。
「いえ、詩織さんは、この作品を書く原動力をくれた人ですし、秘密を守れない人ではないですから、少しだけ、お教えします」
そう言うと、響は立ち上がった。
「僕の書斎にいらっしゃいませんか?」
「あっ、じゃあ、その間に、私、晩御飯の支度をしてるよ」
瞳も立ち上がり、詩織に向かって、「もう下ごしらえはしてるから、そんなに時間は掛からないよ。それまで、お兄ちゃんの相手をしててあげて」と嬉しそうに言った。
ゆっくりとした足取りで、リビングを出ると、響は廊下の壁に右手を伝わせながら歩き、玄関に向かって最初のドアまで来ると、そのドアノブを掴んだ。
開いたドアに体をくっつけて、「詩織さん、どうぞ」と、詩織を先に書斎に入れた。
響の書斎は、十畳ほどの大きさがあり、部屋の左右の壁は建て付けの書棚になっていた。書棚の中には普通に書籍もあったが、朗読CD付きのものも数多くあって、盲目の作家の書斎という独特な雰囲気がしていた。
書斎の奥には、大きな机がドアに向けて置かれていて、その前にリビングにあるのよりは小さな応接セットがあった。もっとも、リビングにある応接セットが大きく豪華すぎるのであって、ここにある応接セットが質素ということではなかった。
「ソファがあると思いますが、手前のソファに座っていただけますか?」
響の指示に従って、詩織は、ドアに背を向けるように置かれている二人掛けのソファに腰を降ろした。
その脇を通って、響は対面して置かれている二つの一人掛けソファの左側に座った。
「自分の座る位置を決めているので、詩織さんの座る位置も細かく指示をさせていただいて、申し訳ないです」
「いえ、それは、響さんにとって、必要なことなのですよね?」
「そうですね。皆さんに不便をお掛けすることになりますが、僕が一人でできるようにするためには必要なことなのです」
「ちなみに、私が今、座っている席は、普段は、どなたが座られているんですか?」
「いつもは出版社の担当者が座っています。僕の隣の席は瞳の指定席です」
「では、ここで口述を?」
「そうです。僕は後ろの机に座っていることもあります」
「それでは、『恋人たちの風』も、ここで生まれたんですね?」
「ええ、『君を抱いているのは誰?』もです」
「……」
「別に自虐ネタではないですよ。詩織さんに励ましていただいた後、『君を抱いているのは誰?』を読み返してみました。もちろん、読んでくれたのは、瞳です」
「いかがでしたか?」
「売り上げが悪いと言われた時から、自分の中では嫌いな作品になってしまっていたのですが、読み返してみると、それなりに面白いと思えるようになりました。今までの自分の作品はすべて好きだったのに、一つだけ嫌いになってしまって申し訳なかったと、『君を抱いているのは誰?』に謝りたくなりました」
「キミダレもきっと喜んでいると思います」
「そうだと良いです」




