Act.087:ご褒美と約束
山梨で開催されるロクフェス出場を決めた翌日の火曜日。
詩織は、カサブランカでのアルバイトに精を出していた。
相棒の椎名が主にレジカウンターをやってくれて、詩織は貸し出し用のDVDを棚に並べたり、長期に返却されていないもののチェックという仕事をしていて、それもかなり慣れてきていた。
また、今まで、そんなに映画を見ていた訳ではなかったが、DVDケースを見ていると、その中身も気になってきて、自分でもDVDを借りるようになっていた。
一人で見るのが怖いホラー系は、奏の家に泊まった時に、二人できゃーきゃー言いながら見ていたし、感動ものなどは自分の家で一人泣きながら見ていた。
映画の主人公になりきって見た経験は、作詞にも多いに役立っていた。詩織は、言葉や情景の引き出しが確実に多くなってきていることを実感していた。
そして、その映画に関する情報は、椎名から仕入れていた。
椎名は、見ていない映画はないのではないかというくらい、訊けば、次から次に映画のタイトルが出て来たし、椎名の付けた評価は間違いなかった。
その椎名に、ロクフェスに出演する十月十三日の日曜日にはバイトを休むことを、あらかじめ告げた。
「ああ、玲音から聞いているぜ。ロクフェスに出るんだって?」
「はい」
「俺も一緒に行って、撮影をしようかと言ったら、何でも専属の撮影スタッフがいて、有料だが、その撮影した映像をくれるらしい。だから、俺は来なくて良いんだってさ」
「そ、そうなんですか」
詩織にカサブランカを紹介してくれた玲音は、以前から音楽系のDVDをよく借りに来ていて、この店のオーナーとも顔なじみになっているくらいだ。そして、椎名は、詩織とペアを組んでいる時間帯以外もバイトをしていて、客として来る玲音とも、よく顔を合わせているのだろう。
「桐野は、順調に自分の夢を実現させているな」
椎名が冷めた口調で言った。
「椎名さんはどうなんですか?」
「俺は相変わらずだ」
「相変わらず?」
「ずっと、落選しっぱなしってことだよ」
「そ、そうなんですか。でも、椎名さんの実力は、うちのバンドのメンバー全員がすごいって思っていますから、今までは、審査員の感性と合致していなかっただけですよ」
「桐野にそう言ってもらえると、そんな気もしてくるから不思議だ」
「し、信じる者は救われます!」
「はははは、桐野は福の神なのか?」
「そ、そうですよ!」
「福の神というより、音楽の神様だろ?」
「それは、さすがにおこがましいです」
「実は、今、一つ応募している作品があってな。那須高原の方で開催される、まあ、地域興しのような趣旨でやってる映画祭なんだが、そこに十五分ほどの短編を出している。その発表が今週の土曜日なんだよ」
「絶対、受かります! 福の神の私が言うんですから絶対です!」
「では、受からなかったら、どうしてくれる?」
「……」
椎名を励ましたいばかりに、よく考えずに発言したが、当の椎名にしてみれば、重要な問題なのだ。
「ごめんなさい。別に茶化すつもりではなかったんですが」
「別に、桐野が茶化しているとは思ってないよ。純粋に応援してくれていると思って嬉しかった」
「椎名さん……」
「俺の方こそ悪かった。受からないとすれば、それは、俺の作品が力不足だからだ。桐野がいくら福の神でも、出来の悪い作品を受賞させることはできないだろう」
「……きっと、受かります。そう祈ってます」
「ありがとう、桐野」
その時に見せた椎名の穏やかな笑顔に少し胸がときめいてしまった。
椎名は、詩織が桜井瑞希だということをすぐに見破ったが、詩織との約束を守って、ずっと秘密にしてくれている。
詩織が響と一緒のところを写真週刊誌の記者に写真を撮られた時には、その写真週刊誌を発行している出版社の社長である父親に電話をして、自分が淫行を冒したなどと嘘を吐いてまでして、詩織の写真を差し替えさせた。
目立たないところで、椎名は詩織を守ってくれている。
そして、椎名は詩織に告白をしていた。「独り言だと思ってくれ」とは言ったものの、自分の気持ちをはっきりと詩織に伝えた。
一方で、響からも好意を持っていると伝えられていた。
詩織は、椎名や響のことを、自分はどう思っているのだろうと考える時、いつも「今はバンドのことで頭が一杯で、恋なんてしている隙はない」という結論に落ちついた。
しかし、それは、結論ではなく、考えることを止めてしまって、椎名や響のことを考えないようにしているだけだった。
今まで特定の交際相手がいたことのない詩織は、自分に特定の彼氏ができれば、その人のことで頭が一杯になってしまうと恐れた。詩織の性格的にそれは十分にあり得ることだ。
詩織には叶えたい夢があり、今はそれに向かって爆進中だ。だから、その支障になるかもしれないことには、強制的に思考停止になってしまうのだ。
「桐野」
「はい?」
考え込んでいた詩織が椎名の呼び掛けで我に返った。
「もし、俺の作品が入賞していたら、桐野にお願いしたいことがある」
「何でしょう?」
「一日で良いから、俺とデートをしてくれ」
「……」
詩織は、何と答えて良いのか分からず、固まってしまった。
「そんなに俺とデートをするのが嫌か?」
「そ、そ、そんなことはないです!」
詩織は、焦って、そう答えた。
「じゃあ、承知してくれるか?」
「あ、あの、デートって、具体的には何をするんですか?」
「はあ? ……そうか。そうだよな。中学時代は大人の世界に隔離されていて、高校時代は、一人で夢を追い掛けていたんだよな。デートは初めてなのか?」
「は、はい」
「別に、朝までずっと一緒にいろ! なんて言わないから安心しろ」
「当たり前です!」
「ははは、俺も無垢な女子高生を手込めにするほど悪党じゃないよ」
「……」
「そうだな。昼間に映画を見たり、飯を一緒に食べたり、遊園地に行くとか、そんな、ごく一般的なことだ。それに、そもそも、入賞するとは限らないんだからな」
「……分かりました。椎名さんには、今までいろいろとお世話になっているんですから」
「何だ、その人生を懸けた重大決定みたいな重い雰囲気は?」
「だって」
「デートというと、途端に重く感じるのかもしれないが、要は一緒に遊びに行くだけで、その相手が俺だというだけだ」
デートと言われて身構えてしまったが、椎名とは、こうやってバイトの現場で二人きりでいても緊張することはなくなっていたし、むしろ、冗談交じりにでも、いろんな話ができる関係になっていた。その椎名と一緒に遊びに行ったとしても、何も心配することはないはずだ。
「もし、入賞できたら、椎名さんにとって、すごく嬉しいことですよね?」
「ああ、それは間違いない」
「だったら、私も一緒にお祝いさせてください! そんな気持ちで良いですか?」
「十分だ。じゃあ、とりあえず、土曜日までは、桐野とデートをする夢を見ていることにするよ」
バイトを終えた詩織は、いつもどおり、江木田駅の近くまで椎名と並んで帰った。
椎名もそんなにおしゃべりではないから、いつも何かを話ながらという訳ではなかったが、気まずさのようなものは感じなかった。
「桐野」
ふいに椎名に呼ばれて、詩織は隣を歩く椎名を見上げた。
「はい?」
「ロクフェスだと、今までのライブハウスでのライブどころではない人が来るはずだよな?」
「はい。そう思います」
「もう、昔の自分のことがばれることは心配していないと言っていたが、本当に大丈夫か?」
「新宿でのライブで、今度こそ完全に吹っ切れたと思っていますし、その後でやった横浜でのライブでも、まったく気になりませんでした」
「しかし、今度のロクフェスにはプロも出るんだろ? 当然、マスコミもくっついてくるよな?」
「それはそうだと思います」
「桐野を脅す訳ではないが、今度こそ、ばれるかもしれないぞ」
ロクフェスでは、大中小の三つのステージで二日間、ぶっ通しで演奏がされ、もっとも大きな第一ステージでは、ホットチェリーのような有名なプロミュージシャンやバンドが演奏をする。多くのマスコミが取材に来るはずで、詩織達が演奏する小ステージの注目度は低いとはいえ、マスコミが興味を示さないとは限らない。
「……そうかもしれませんね。でも、もう、私は走り出していて、立ち止まることはできないですし、したくありません」
「そうか」
「椎名さん、心配してくれて、ありがとうございます」
「桐野に礼を言われるようなことじゃない。心配しているのは、俺自身のことだ」
「はい?」
「今度の映画フェスで入賞できてなかったら、桐野とのデートは次回に持ち越しだ。次に俺の作品が何らかの賞を取る前に、桐野がロクフェスで注目されて、昔の桐野のことが公になると、とてもじゃないが、桐野とのデートはできなくなるなと、自分の欲求が満たされなくなることを心配していたにすぎないのさ」
それは、椎名なりの照れ隠しにすぎないと思った詩織だった。




