Act.073:静かなる騎士
夏休み中の詩織は、写真週刊誌フレッシュの記者の襲撃を受けた翌日の土曜日も、奏の家に泊まった。
土曜も奏は仕事だったが、昼間は、奏のキーボードを借りて曲作りをしたりして、昨日に引き続き早引けしてくれた奏が帰って来てからは、音楽の話やいろんな話をした。そのお陰で、気が紛れた詩織は、日曜日の早朝、自宅に戻った。
今日の夕方にはバイトがあり、二回連続で休んで、椎名に、これ以上の迷惑を掛けることも申し訳なかったからだ。
自宅マンションの周りに張り込んでいるような不審な者は見当たらず、詩織は、ほっと安堵のため息を吐きながら、部屋に戻った。
リビングに入ると、ハムスターのペンタが元気に回し車を回す音が聞こえた。
――大丈夫! 何も変わっていないよ!
ペンタがそう言って慰めてくれているような気がした詩織は、少なくなっていた餌を餌皿に入れて、水も替えてあげた。
そして、夕方、四時半頃、バイトに行くために自宅を出た。
眼鏡を掛けたボーイッシュな格好で、駅の反対側に向かう。
奏の家から帰る時も感じていたが、すれ違う人がみんな、詩織の顔を見ている気がした。気のせいだと分かっていても、もう、みんなにばれているのではないかという疑心を完全に振り払うことはできなかった。
カサブランカに着くと、カウンターには既に椎名が立っていて、いつもどおり、気怠そうにしていた。そんな、いつもと変わらぬ光景が、詩織を少しだけ安心させた。
「こんばんは」
椎名に挨拶をしてカウンターを通り過ぎ、店の奥のスタッフルームに入ると、珍しく、オーナーが入り口に背を向けて、事務机に座っていた。
オーナーは、すぐに振り向き、詩織だと分かると笑顔でうなずいた。
「オーナー、金曜日はすみませんでした」
詩織は、オーナーの近くに行き、頭を下げた。
「ああ、そうだったね。もう、体調は治ったのかい?」
「はい。お陰様で」
「そうかい。それは良かった。椎名君もすごく心配していたよ」
「椎名さんが?」
椎名は、詩織のことが好きだと告白をしていたが、同時に、詩織のバンドへの夢を邪魔することもしないと言ってくれていた。
詩織も、今は恋をしている暇なんてないと思っていたし、普通に冗談を言い合える仲になっている椎名とは、これからも大切な友人として、つきあっていけると思っていた。
詩織が、店名入りの黒いエプロンを着けて、カウンターまで行くと、椎名に頭を下げた。
「椎名さん。金曜日は、突然、お休みしちゃって、すみませんでした」
「まあ、気にするな。代わりのバイトに来てもらったし、いつもどおりの客の入りで、そんなに忙しくなかったから」
「は、はい」
「それで、体調は、もう大丈夫なのか?」
詩織は、金曜日にあったことを、正直に椎名に話そうと思った。
椎名も、昔の詩織のことを見破ったが、詩織の願いをきいて黙っていてくれている。
そして、今は、「クレッシェンド・ガーリー・スタイルの専属映像スタッフ」を務めてくれている、信頼できる仲間であることは間違いないのだ。
「実は、体調というのは、精神的なことで」
「何だ? 何か落ち込むことでもあったのか?」
今、店には誰も客がおらず、椎名も身を乗り出して訊いてきた。
「すると、月曜日発売のフレッシュに、桐野の写真が載るかもしれないということか?」
「はい。昔の私のことがばれると、このバイトも続けることができなくなるかもしれません」
「それはそうだろうな。元超人気アイドルがAVを手渡してくれると聞くと、その手の趣味の奴が殺到して来て、こんな小さな店では収拾できないだろうからな」
「何ですか、その例え?」
冗談を言いそうにない雰囲気なのに、けっこうきわどい椎名の冗談に、詩織も吹き出した。そして少しだけ、また気が軽くなった。
「しかし、フレッシュか……」
椎名が遠くを見るような目をして呟いた。
「何か?」
「あっ、いや、何でもない」
珍しく椎名が焦ったように返事をすると、店内を見渡した。店内には、まだ、客がいなかった。
そして、自分の腕時計を見て、「間に合うかな?」と自問するかのように呟いてから、詩織に顔を向けた。
「桐野。ちょっと、電話をしなければいけない用事ができた。少し、スタッフルームに引っ込むが良いか?」
「どうぞ」
椎名がスタッフルームに入ってから、十分ほど時間が経っても、椎名は出て来なかった。代わりに、黒い鞄を持ったオーナーが出て来た。
オーナーは、詩織が立っているカウンターの前で立ち止まり、店内を見渡してから、「やれやれ。お客様は誰もいないのかい?」と、他人事のように言った。
どんな顔をして答えれば良いのか分からなかった詩織は、戸惑いながら「はい」と答えるしかなかった。
「ははは、まあ、心配しなくて良いよ。誰でも好きな時に好きな映画が見られるレンタルDVD屋は、僕にとっては、商売というより文化活動とでもいう位置づけで、お世話になっているこの地区の皆さんへの恩返しでもあるんだ。少々、赤字だろうが、止めるつもりはないからね」
貸しビル業などでけっこうな収入を得ているオーナーにとって、カサブランカは趣味のようなものだと椎名からも聞いていた詩織は、オーナー自身の口からその考えを聞いて、すごく素敵な考え方だと思った。自分の儲けを社会に還元していることと同じで、莫大な費用を掛けてチャリティー番組を制作することより、ずっと、みんなが求めていることではないかと思った。
「最近は、ネット配信が主流で、うちよりも多くの映画が用意されているんだろうけど、ネットをしていないお年寄りもいるし、ネットで検索をするよりも、このズラッと並んだDVDのパッケージの中から、見る映画を選ぶという楽しさもあるんじゃないかって思うしね」
「はい! 私もそう思います!」
詩織が笑顔で賛同してくれたことで、オーナーも上機嫌でうなずいた。
「それじゃ、お先に」
「お疲れ様でした」
詩織に手を振り、店を出て行こうとしたオーナーだったが、立ち止まり、詩織を見た。
「ああ、そうそう。椎名君が、まだ電話が終わりそうにないからと、桐野さんに伝えてくれって」
「そうですか。分かりました。でも、椎名さんが長電話する印象はなかったんですけど」
「どうやら、相手は、お父さんみたいだから長くなるかもね」
「椎名さんのお父さんですか?」
「うん。僕も椎名君とのつきあいは長いけど、椎名君の方からお父さんに電話をするのは初めて見たね」
椎名の父親はかなり裕福だそうだが、椎名は、その援助を受けることなく、自分の実力だけで、映像制作の実績を積んでいきたいようだった。詩織が昔の自分のことを利用したくないと言った時、「自分の桜井瑞希は自分の父親だ」と比喩したことを思い出した。
「椎名さんのお父さんって?」
「桐野さんは聞いてないの? 講英社の社長をしてるんだよ。知ってるでしょ、講英社?」
講英社は最大手の出版社で、もちろん、詩織も知っている。確か、写真週刊誌フレッシュも講英社が発刊しているはずだ。
「あれっ、桐野さんが知らなかったということは、言っちゃいけなかったのかな?」
詩織の戸惑った顔に、オーナーも少し焦ったようだ。
「あっ、いえ。大丈夫だと思います。椎名さんとは、お互いの親の話はそんなにしなかったので、聞く機会がなかっただけだと思います」
「そう? まあ、椎名君からも秘密にしてくれとは言われてなかったし、大丈夫だよね?」
自己弁護をしたオーナーに、詩織が笑顔で「はい」とうなずくと、オーナーも安心したように肩を降ろした。
「それじゃあ、改めて、お先に!」
そう言って、オーナーが店を出て行くと、それから間もなく、椎名もスタッフルームから出て来た。
「悪い。長くなってしまって」
「いえ、誰もお客さんは来ませんでしたから」
椎名は、詩織がフレッシュの話をしてから、思い出したかのように、電話を掛けに行った。「もしかして」という期待が、詩織の頭を巡ったが、詩織の方から電話の相手は誰で何を話したのかを訊くことも失礼だと思い、椎名から言い出すのを待ったが、椎名は、それからも電話のことについては、何も話さなかった。
午後九時になり、バイトを終えた詩織と椎名は、一緒にカサブランカを出た。
「桐野」
「はい」
椎名が話し掛けてきたが、いつもどおりの椎名の表情に、電話の話ではないと、詩織もすぐに分かった。
「来年、大学を卒業してから、カサブランカの店長をやらないかと、オーナーに言われててな」
「そうなんですか? あれっ、そういえば、カサブランカに店長って、いるんでしたっけ?」
「いや、いない。俺がいる時には、実質、俺がそんな役目をしていたけど、正式に店長になったら、勤務時間も給料も倍だよ。まあ、奏さんに言われたみたいに、とりあえず、食うには困らない仕事にはありつけそうだ」
「そうなんですね。でも、カサブランカの店長は、椎名さんがやりたい仕事なんですか?」
以前、椎名の夢を聞いている詩織が、直球で椎名に尋ねた。
「もちろん、映像クリエーターが最終目標だということは諦めていない。しかし、その手の会社に就職して、下っ端から這い上がるということは、正直、自分の性格から無理だと思ってる」
確かに、自分の感性と合わない作品を作れと言われて、大人しく作る椎名とは思えなかった。
「俺は、常に俺であり続けたい。俺の独りよがりなのは分かってる。でも、まだ、その気持ちは折りたくないんだ」
「私もそうでした」
詩織の返事に、椎名が不思議そうな顔をした。
「どうして過去形なんだ?」
「私、昔の自分のことを隠してバンドデビューをしたいということにこだわっていたんですけど、それは私の独りよがりで、バンドのメンバーや周囲の皆さんに、すごくご迷惑を掛けていたことに気づいてなかったんです。だから、今回、フレッシュにばれたことは、天罰なのかなって反省をしています」
「桐野が反省をする必要はないんじゃないか? 確かに、バンドのメンバーには多少の迷惑を掛けているのかもしれないが、みんな、それを承知の上で、というか、桐野の考え方に賛同してくれて、一緒にバンドをしているのだからな」
「そう思えたら、気が少し軽くなるかもですね」
その後、少し無言で歩いた後、椎名が立ち止まった。
「それで、桐野」
「はい?」
「さっきの話だと、桜小路響の妹さんが同じ学校の友人だということのようだが、桜小路響とは、本当につきあっていないのか?」
「桜小路先生とはそんな間柄じゃありません」
響からも好意を持っていると告白じみたことを言われていたが、椎名と同様、響についても、大切な友人という想いに留まっていた。
「音楽が私の恋人ですって言ったのは、今も変わっていませんから」
「そうか。……いや、すまない。疑ってしまって」
「そ、そんなに嫌な気持ちにはなってませんよ」
「それなら良かった。まあ、俺の桐野に対する気持ちも変わっていない。だから、気になってしまったんだ」
「……」
駅の北口に家がある椎名と、駅の南口に向かう詩織とが、いつも別れる交差点までやって来た。
「それじゃ、桐野。お疲れ」
「お疲れ様でした」
「フレッシュのことは、そんなに気にするな」
「はい?」
「桐野の音楽に対する情熱は止めさせやしないからな」
「……」
「じゃあな」
去り際に椎名の言った言葉の意味が、すぐには分からなかったが、もしかして、椎名が父親に電話を掛けたことと関係するのだろうかと、微かな期待を抱いてしまった詩織であった。




