Act.072:気づいた身勝手さ
家に帰り着いた詩織は、着替えもせずに、ベッドに横になって、呆然と天井を見ていた。
枕元に置いていたスマホが鳴った。
横になったまま、スマホを取り、画面を見てみると、瞳からの電話だった。
通話にして、耳にスマホを当てたが、しばらく、声は聞こえなかった。
「……詩織?」
戸惑っているような瞳の声が聞こえた。
「はい」
詩織も力なく答えた。
「さっきはごめんね。巻き込んじゃって」
「いえ」
「それでね、詩織。あの後、フレッシュの記者がお兄ちゃんに、『桜井瑞希さんとは、どこで知り合ったのですか?』って訊いてきたの」
「……」
「お兄ちゃんは、『とある人の紹介で』って、咄嗟に答えてた。私と同じ学校に行ってる、私の友達とは言わなかったから」
もしかして、響は、詩織が桜井瑞希だと分かっていたのではないだろうか?
初めて会った時、「歌は好きか?」と訊かれた。詩織の声に惹かれたとも言った。
だから、記者が詩織のことを桜井瑞希だと言っても、それを否定せずに、むしろ、詩織と桜井瑞希との繋がりをつけさせないように言い繕ってくれたのではないだろうか?
「瞳さん」
「何?」
「先生に、ありがとうございましたとお伝えください」
「……分かった。やっぱり、詩織は桜井」
「瞳さん!」
瞳の言葉を断ち切るように詩織が言った。
「あ、あの、瞳さんには、ちゃんとお話したいです。でも、今はまだ、気持ちの整理がつかなくて……」
「……分かった」
「すみません」
「でも、詩織。これだけは言わせて」
「……」
「私、詩織のことが大好きだから! お兄ちゃんや私のことを本気で心配してくれた詩織のこと、大好きだから!」
「瞳さん……」
「だから、詩織が困っていることがあれば、私、何でもするからね」
詩織の目から大粒の涙が零れ出た。
それで分かった。
詩織は、自分では意識してなかったが、響と瞳に腹を立てていたのだ。
響を張っていた記者に昔の自分のことがばれたことは、響と瞳には何も悪いところはないはずだ。しかし、瞳が言ったように「巻き添え」を食ったことで、昔の自分のことがばれてしまった。だから、響や瞳に会いに行かなければ、こんなことにはならなかったのにという、「逆恨み」のような感情が、意識をしないところで、わき上がっていたのだろう。
しかし、瞳の気持ちが伝わってきて、自分の身勝手さに気づかされた。
「瞳さん、ありがとうございます」
「うん。……じゃあ、詩織の気持ちが落ちついたら、連絡ちょうだい」
「はい」
電話が切れると、詩織は自己嫌悪に陥った。
バンドをするために、今まで苦労して内緒にしてきたことが台無しにされたと、響と瞳に文句を言いたい気分になっていた自分が許せなかった。
悪いのは詩織自身なのだ。
自分がやりたいバンドに、変な先入観を持たれたくないという、それだけの理由で、元アイドルだということを秘密にしてきたのだ。そんなこだわりも持たずに、引退の際に「これからは、バンドとして活動をします!」と宣言して、おおっぴらにバンドを始めることだってできたはずだ。最初は、確かに色眼鏡で見られるだろう。しかし、バンドとしてのクオリティを高めていくことで、「所詮、アイドルがやっているバンド」などという偏見を打ち破ることができたかもしれない。
すべては、自分のわがままが原因なのだ。責められるべきは自分なのだ。
そんな考えに取り憑かれた詩織は、うつぶせになり、枕に顔を埋めた。
しばらくすると、また、スマホが鳴った。
しかし、それは、電話やメールの着信音ではなく、今日が金曜日で、一時間後には、アルバイトに行かなくてはいけないことを知らせてくれたアラーム音だった。
詩織は、起き上がることもせずに、手だけを伸ばして、アラームを切った。
今日は、とてもバイトに行く気になれなかった。
詩織は、椎名の携帯に電話を入れた。
カサブランカのバイトは二人のペアなので、事前に連絡もせずに休むと、もう一人に迷惑を掛けてしまう。週三回のバイトのペアは、すべて椎名だった。
「どうした、桐野?」
いつもの口調で、椎名が電話に出た。
「椎名さん、すみません。あ、あの、体調が悪くて、今日、バイト、お休みさせてください」
「桐野が珍しいな。風邪か?」
「ちょっと、体がだるくて」
それは事実だった。
「分かった」
「すみません」
「気にするな。それより早く治せ」
「ありがとうございます」
無愛想ではあるが、詩織の体を本当に心配してくれている椎名の気持ちが伝わってきて、あらためて、バイトのペアが椎名で良かったと思った。
電話を切ると、詩織は、まだ、ベッドに横になった。
先ほどの光景が脳裏に蘇ってくる。
「早川」と名乗った写真週刊誌フレッシュの記者は、その風貌や躊躇しない取材態度からすると、かなりベテランの芸能記者だろう。詩織自身は記憶にないが、アイドル時代に何度か会っているのかもしれない。詩織と目が合った一瞬で、詩織のことを桜井瑞希だと見破ってしまった。
そして、写真も撮られた。咄嗟に手で顔を隠したが、どこまで隠すことができているか分からない。
響が機転を利かせて、詩織とは「桜井瑞希として会った」ことにしてくれたが、あの時、学校に行っている時と同じように、詩織は黒縁眼鏡を掛けていた。顔がそのまま掲載されると、詩織が桜井瑞希だということが学校でばれてしまうだろう。
詩織が、これまで自分達を欺いていたことを知ると、クラスメイト達はどんな反応をするだろうか?
おそらく、自分達は詩織に信用されてなかったと考えるのが普通で、元超人気アイドルが近くにいたなどと単純に喜ぶような者は、いても少数だろう。
そんな針のむしろのような状況で、残りの二学期を、平穏に過ごしていけるだろうか?
それほど親密なつきあいをしてきている訳ではないとはいえ、三年間、クラス替えもなく、高校入学以来、ずっと一緒に過ごしてきたクラスメイトとは、できれば、とともに卒業をしたいというのが、詩織の正直な気持ちだった。
そして、バンドのこと。
バンドは、まだ、初ライブが終わっただけで、これから自分達のバンドの形を作り上げていかなければならない段階だ。
そして、メンバー全員が、昔の詩織のことはできるだけ出さずに活動するという考えで一致して、ここまで来ているのだ。
少し気持ちが落ちついてくると、とりあえず、父親とバンドのメンバーには知らせておかなければと思い立った詩織は、父親にはメールで、メンバーには、連絡用に使っているラインで先ほどの出来事を手短に知らせた。
玲音と琉歌がすぐに自宅に来てくれた。それだけで、詩織は心細さから解放された。
三人で今後のことなどを話し合っていると、奏が事前に連絡もなく、詩織の家にやって来た。
「詩織ちゃんが心配で早退して来ちゃったわよ」
こうやって、詩織のことを心から心配してくれるメンバーに迷惑を掛けてしまっていることが心苦しかった。
「とりあえず、今まで、いろいろと話したけど、結論から言うと、何もしない。というか、何もできないってことだな」
あとから来た奏に玲音が言った。
「まあ、そうだよね。記事にしないでくれって、申し入れなんてすると、かえって興味を示しちゃうよね」
「そうなんだよな。それに出版社に圧力を掛けるような実力者とも縁はないし」
「榊原さんは……、無理だろうね」
奏が自分で言いかけた提案を自分で降ろした。
大手の芸能事務所に所属している芸能人のスキャンダルでも、その芸能事務所がもみ消すことができずに報道されるのだ。榊原率いる「エンジェルフォール」のような小さな芸能音楽事務所ができるとは思えない。
「それで、フレッシュって、発売日はいつだっけ?」
「月曜日だよ」
奏の問いに、コンビニで働いている玲音がすぐに答えた。
「三日後か。きっと、記事になるよね?」
「たぶん、そうなると思います」
キューティーリンクのイベントの取材を土曜日に受けて、月曜日には記事になっていたことを思い出した詩織が答えた。
「とりあえず、みんなで連絡を取り合おうぜ。おシオちゃんもこのマンションの周りで不審な奴を見つけたら、連絡をちょうだいよ。アタシと琉歌がすぐに駆けつけるからさ」
玲音の頼もしい言葉に、また、少しだけ勇気をもらった。
「まだ、このマンションはマスコミには知られていないって言ってたけど、もし、その記者に跡をつけられたりして、ここが桜井瑞希ちゃんの自宅だとばれたら、これから住みづらくなっちゃうよね。桜小路先生の家と同じ池袋だけど、灯台もと暗しで、意外と大丈夫かもしれないから、良ければ、私の家にいらっしゃい」
絶対、今日は一人で眠れないと思っていた詩織は、奏の申出をありがたく受けた。
その日の夜。奏の部屋。
奏とリビングで音楽の話をしている時、詩織のスマホに父親から電話が掛かってきた。
気をつかってくれたのか、奏がキッチンに洗い物に立った。
「詩織、メールを見たよ」
「うん。ごめんなさい。何か、ばれちゃったみたい」
「詩織が謝る必要はないだろ?」
「でも、高校は卒業するようにという、お父さんとの約束は果たせなくなるかもしれない気がして」
「それは、僕の希望にすぎないから、気にすることはないよ。土田には、明日にでも連絡を入れておくよ。せっかく、ここまで来ているんだから、ばれてしまっても、そのまま卒業までは学校に行くことができるように、お願いはしてみる」
土田とは、父親の昔のバンド仲間で、今は私立アルテミス女学院高等部の教頭をしている、学校で唯一、昔の詩織のことを知っている教職員だ。
「でも、今まで黙ってきたことで、詩織が学校に行きづらいというのなら、無理はしなくて良いよ」
詩織は、父親の優しい言葉に、また、涙が溢れてきた。
バンドのメンバーも、父親も、昔のことを秘密にしてバンドをやりたいという詩織のわがままにつきあってくれて、でも、詩織には文句も言わずに、逆に慰めてくれる。
詩織は、みんなへの感謝の気持ちで、心がはち切れそうになった。




