Act.070:夢を諦めない力
「君を抱いているのは誰?」、通称「キミダレ」は、「恋人たちの風」を二百万部以上売り上げた人気作家、桜小路響の新作としてスタートダッシュこそ良かったが、すぐに失速して、発売一週間での売り上げは五万部にとどまっていた。しかし、今の出版業界全般の不況の中で、一週間で五万部を売り上げていることは立派なことだ。けっして、恥ずべき数字ではない。
「限界って、どういうことですか?」
詩織は、響が引退を言い出す理由が分からなかった。
「桐野さんと以前にお話させていただいた時、目が見えないことで、僕の作家としての限界が、そのうち来るのではないかという話をした憶えがありますが、その時が、意外と早く来たのかもしれないということです」
目が見えないということは、物の描写が満足にできないから、いつかはその限界が来ると響自身も認めていた。しかし、「キミダレ」を読んだ詩織は、響の作家としての限界が来ているとは思わなかった。
「私は、キミダレを読んで、そんなことは感じませんでした。先生は、具体的に、どんなことで限界を感じられたのですか?」
「自分では、まだ分かりません。でも、プロの作家として本を出版している以上、その売り上げが、読者の評判や意見を反映している唯一の指標と言えるでしょう。結果は出てしまっているのです」
「……」
「自分としては、前作を越える、あるいは同等の内容だと自負していました。しかし、そうではなかった。これは、僕の作家としての力が衰えているからとしか言えないでしょう」
「……」
響に掛ける言葉をすぐに思いつかなかった詩織に、響は穏やかな笑顔で言葉を続けた。
「桐野さん。僕は、小説家になって、やっと、惨めな自分から抜け出すことができました。だから、また、惨めな自分に戻るのは嫌です。それに何も全面的に引退して働かないという甘えた考えを持っている訳でもありません。読者にシーンを思い浮かべさせる必要がない、エッセイのような文章を書いたりすることを考えています。引退するのは、小説家としてだけです」
響の考えは、もう覆らないかもしれないと思ってしまうほど、その笑顔は清々しさを感じさせた。
しかし、詩織は納得できなかった。
「先生!」
詩織の言葉に、明らかに怒りの感情が込められていることを、響も、そして瞳も感じ取ったようだ。二人は、まだ、友人にすぎない詩織が、本気で怒っていることに戸惑っていた。
「先生は、たった一度、転んだだけで、走るのを諦めてしまうのですか?」
「……」
「転んだら、立ち上がって、また、走れば良いじゃないですか!」
今度は、響が言葉を失ったように、うつむき加減になって、ゆっくりと首を小さく左右に振った。
「お兄ちゃん!」
そんな兄の姿を見て、いたたまれなくなったのか、瞳がキッチンスペースから出て来て、響と同じソファに座ると、その両手で、響が膝の上に置いていた左手を包み込んだ。
「お兄ちゃんも、さっき、惨めな自分に戻りたくないって言ったよね? 確かに、自分の作品が酷評されるのは、作家としては辛いことだって分かるけど、それで小説家を辞めてしまったら、もっと惨めになると思うよ! それは、周りがそう言うんじゃなくて、自分がそう思ってしまうんだよ! 詩織が言ったみたいに、ここで諦めてしまった自分が情けなくなってしまうはずだよ!」
「……瞳」
響が、自分の左手を包んでいる瞳の両手に自分の右手を重ねた。
「私は、小説家桜小路響の妹でいたいんだ! ……いさせてよ。……お願いだから」
瞳の涙が、響の右手の上にしたたり落ちた。
詩織は、瞳の存在意義は「小説家桜小路響の妹であること」という響の言葉を思い出した。響からは、瞳自身の存在意義を見つける手助けをしてほしいと頼まれていたが、それがまだ見つかっていないままで、「小説家桜小路響」という、瞳が寄り掛かっている存在がなくなれば、瞳の心は壊れてしまうかもしれない。瞳の涙は、それが怖いからではないだろうか?
響は、瞳の手の下から左手を抜くと、優しく瞳の肩を抱いた。そして、詩織に顔を向けた。
「桐野さんは、どうして、そんなに強いのですか?」
「強い? 私がですか?」
「ええ。先ほど、桐野さんは本気で怒っていましたね。私も瞳も、桐野さんとは親しくおつきあいをさせていただきたいとは思っていますが、まだ、出会ってから、そんなに日にちも経ってなくて、お互いのことを知り尽くしている訳でもない仲なのに、まるで家族と同じように怒ってくれました。それは、桐野さん自身が、こんなことでは諦めないからでしょう? だから、歯がゆくてたまらないのでしょう?」
「……きっと、そうです」
響が言うとおりだった。
詩織は、響の考えに腹を立てたというよりも、歯がゆくてたまらなかったのだ。
キューティーリンク時代もすぐにセンターを任されるなど、順風満帆な人生を歩んできていた詩織が、人気絶頂の時に引退してまで叶えたい夢ができた。その夢を叶えるために、昔の自分のことを封印して、曲作りとギター、そして歌の練習を一人で黙々と二年間も続けてきた。途中でくじけそうになったこともあった。
しかし、今、理想的なメンバーと出会えて、その夢は叶いつつある。
どんなに辛くても、どんなにくじけそうになっても、諦めないでさえいれば、きっと、神様は夢を叶えてくれる。上手く行かない時には、慰めの言葉にしか聞こえないその台詞も、今の詩織にとっては、真理だと思えてならなかった。
だから、たった一回、転んだだけで、限界だなんて言ってほしくなかった。
そのことを伝えたくて、詩織は自分のことを話そうと思った。
「先生! 先生の夢は何ですか?」
「夢? 僕の夢ですか?」
「はい。小説家として、もっと素晴らしい作品を書き上げるという夢は、お持ちじゃなかったのですか? そうじゃないというのであれば、私の言っていることは的外れですから忘れてください」
「いえ、桐野さんがおっしゃるとおりです。僕は『恋人たちの風』を越える作品、もっと多くの人を魅了する作品を書きたいという夢があります」
「だったら、その夢を諦めるのですか?」
「……」
「私には夢があります。絶対に叶えたい夢です!」
「それは何?」
涙を拭いながら、瞳が訊いた。
「私はバンドをしたいんです! 自分達で作った曲を自分達で演奏して歌いたいんです! プロになって、その曲を日本中のみんなに歌ってもらいたいんです!」
同じ学校の生徒には誰にも言ってなかったことを初めて明かした。
響と瞳は、あまりにも突飛な詩織の言葉に、少し唖然とした表情で、詩織を見つめていた。
「高校に入って二年間は、ずっと一人で曲作りとか楽器の練習をしてきました。その時は何度もくじけそうになりましたけど、この春に素敵なメンバーと出会えて、やっと、バンドを組むことができました。諦めなければ、いつか、夢は叶います! 私はそれを実感しました! だから、先生も諦めただなんて言わないでください!」
最後には感極まって、涙声になってしまった。
歌っている時もそうだが、詩織は溢れる感情を抑えることができなくなる時がある。今がまさにそうだった。
瞳が「あっ!」と小さく呟いた。
「ひょっとして、詩織が見ていた動画のバンドが?」
「瞳さん、ごめんなさい。あのバンドで歌を歌っていたのが、私なんです」
「そっか。あれ、詩織の声だったんだ。……すごく素敵な声だったよ」
そう言うと、瞳は眉をつり上げた。
「でも、何で、今まで黙ってたのよ!」
「ご、ごめんなさい」
「違う! 違うよ! 人のことで本気で怒って、本気で泣く、そんな人だったということをだよ!」
「瞳さん……」
「私、詩織のことを、一目見て気に入った訳が、今、分かった気がした。きっと、本能的に詩織がそんな人だって感じたんだろうな」
瞳は、響に怒りの表情を向けた。
「お兄ちゃん! どうするの? ここまで本気で心配してくれる人が私以外にもいるんだよ! 泣いてくれる人がいるんだよ! それでも走ることを止めるの?」
「……」
響は、その瞳を小刻みに振るわせて、戸惑いの表情を隠さなかった。
そして、目を閉じると、ぽつりと一粒、涙を落とした。
「お兄ちゃん?」
「瞳の前で泣いたのは、新人賞を受賞した時以来かな?」
「男だって、悲しい時も嬉しい時も泣いて良いんだよ。って、ハルカちゃんだって言ってたでしょ?」
ハルカは、「恋人たちの風」の主人公の女性だ。詩織もその台詞は憶えていた。
「そうだったね」
苦笑した響は、瞳から詩織の方に顔を向けた。
「桐野さん! 僕は、桐野さんに心まで奪われてしまいました」
「えっ?」
「瞳が言うとおり、こんなに本気で、人のことを心配してくれるような人は初めてです。桐野さんが、初めて、この部屋に来てくれた時には、桐野さんの声に癒やされましたが、今度は、桐野さんの心に癒やされました。そして力強く夢を追い掛けている桐野さんに勇気づけられました。桐野さんが夢を追い掛けている以上、一緒に夢を追い掛けたくなりました」
「それでは?」
「はい。もう一度、挑戦してみます」
詩織と瞳は、思わず顔を見合わせた。
「思えば、『恋人たちの風』を越える作品を書かなくては、というプレッシャーが、やはり、あったのでしょうね。でも、これだけ落ちたのですから、新人に戻った気持ちで書きたいと思います」
「先生……」
「それで、先ほど言ったことも本気です。僕は、桐野さんにいつも隣にいてほしいと思うようになりました」
「……」
「すみません。一方的に自分の希望を言ってしまって。でも、桐野さんに対して、そんな感情が芽生えていることは確かです」
「わ、私は、そんなつもりで言った訳では」
詩織は、瞳を見たが、瞳も笑顔だった。
「何、詩織? 私がお兄ちゃんを取られて嫉妬すると思った?」
「い、いえ」
「桐野さん、すみません。思わず、自分の気持ちを吐き出してしまいましたが、桐野さんにももう好きな人がいるかもしれませんし、僕が、今、言ったことがご迷惑であれば取り消します」
詩織の頭に、椎名の顔が浮かんだ。そして、響に対する返事も、椎名に対するそれと同じだった。
「先生! 私は、先ほども言いましたけど、バンドでプロデビューするという大きな目標が目の前にあって、今は、そのことしか考えられないんです。もちろん、先生とも瞳さんとも、これからも親しくおつきあいをさせていただければと思っています」
「そうでしたね。僕も一緒に夢を追い掛けると言ったばかりでした。お互いに夢が叶うように頑張りましょう。その夢がお互いに叶った時に、改めて、桐野さんに対する気持ちを整理したいと思います」
「は、はい」




