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クレッシェンド・ガーリー・スタイル     ―Crescendo Girly Style―  作者: 粟吹一夢
第四楽章 転べば立ち上がり、また走る!
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Act.069:折れた心

詩織しおりちゃんの髪って本当に綺麗ね。芸能人時代に身につけた、特別なお手入れ方法でもあるの?」

「いえ、特に。人並みのことしかしてないですけど」

 風呂上がりに、鏡台の前に座らせた詩織の後ろに立ったかなでが、詩織の髪にドライヤーを当てていた。

「でも、ショートにしてから本当に楽ですよ。昔のことがばれないようにと、ショートにしたんですけど、しばらく、ショートのままでいようかなって思ってます」

「昔は、確か、もっと長かったよね?」

「はい。肩の下くらいまでありました」

「だよね。その髪型にした今の詩織ちゃんも見てみたいな」

「学校を卒業すれば、今よりはちょっと伸ばそうかなとは思っているんですけど」

「それは、いろんな詩織ちゃんを堪能できそうで楽しみだわ」

「そ、そうですか? 奏さんのウェービーボブは、いつから、されているんですか?」

「三年前くらいかな。これもけっこうセットが楽なのよ」

「奏さんには、すごく似合ってます」

「そ、そうかな」

「そろそろ交代します! 今度は、私がドライヤー当てますね」

「じゃあ、お願いします」

 立ち上がり、奏からドライヤーを受け取った詩織は、鏡台の前に座った奏の後ろに立った。

「ヘアブラシを使った方が良いですか?」

「手櫛で大丈夫よ。朝、セットをするから」

「分かりました」

 詩織は、ドライヤーのスイッチを入れて、奏の髪に温風を当てた。

「人の髪にドライヤーを当てるなんて、子供の頃以来です」

 詩織は何気なく言ったが、その相手が母親だったことを思いだし、すぐに口をつぐんだ。

「詩織ちゃん。相手はお母さんでしょ?」

 鏡越しに詩織の表情を見ていたのだろう。優しい顔で問い掛けた奏に、詩織は無言でうなずいた。

「まあ、私もそうだったしね」

 奏が少し体を捻って、直に詩織の顔を見た。詩織はドライヤーのスイッチを切った。

「私も、母親には、顔を見るたびに結婚はまだかって言われて鬱陶しいんだけど、でも、母親が産んでくれなければ、私は今、ここにいない訳だし……。詩織ちゃんもいろんなことがあったとは思うけど、せめて、たまには、お母さんと会うことができるようになれば良いなって思うよ」

 詩織は、何も答えることができずに、うつむいた。

「ごめんね。余計なお世話だったよね。でも、一応、十年長く生きている人生の先輩としての独り言と思って」

「奏さん」

 詩織は顔を上げて、奏を見た。

「ありがとうございます。心配してくれて」

「ううん。私も笑顔の詩織ちゃんをずっと見ていたいからさ」

 奏は、詩織が、ほんの少し、シンセサイザーの生演奏を聴いて、自分のバンドに誘った。奏の音に一瞬で聴き惚れたからだったが、もしかすると、奏とこうやって仲良くなれる予感というか、人間的な共感があったのではないかと思うことがある。それだけ、今の詩織にとって、奏は素敵なお姉さんであり、頼れる相談相手であった。

 いくら感謝の言葉を繰り返しても、奏への気持ちを表しきれなかった詩織は、思わず、椅子に座ったままの奏に抱きついてしまった。

「し、詩織ちゃん?」

「奏さんみたいなお姉さんが欲しかったです」

「私も、詩織ちゃんみたいな可愛い妹が欲しかったわ」

 今、乾かしたばかりの髪を、奏に撫でられるのが気持ち良かった。

 しかし、こんなことをされたのは、やはり母親だったと思いだして、複雑な気分になった。

 自分としては、母親を許す気持ちには到底ならなかったが、自分の心の中では母親を求めているのではないか、奏にその代わりをしてもらっているのではないかと思ってしまった。

「そうだ。髪を乾かさないと」

 詩織はその想いを振り切るように、奏に鏡台を向いて座り直してもらうと、温風を奏の髪に当てた。

 髪を乾かし終えると、クイーンサイズの奏のベッドに並んで横になったが、これからずっとおしゃべりして、寝入るのはいつも、ベッドに入って一時間以上も経ってからだ。

 詩織は、枕元に置いていたスマホのメール着信ランプが点滅しているのに気づいた。

 限られた人にしかアドレスを教えていない詩織は、ひょっとして父親からの急な連絡かもしれないと思い、「ちょっとすみません」と奏に断ってから、スマホを手にして画面を見た。

 メールが一通入っていた。

 発信元はひとみだった。

 何となく、内容が分かったが、詩織はメールを開いてみた。

『夏休みにごめんね。詩織の時間が空いている時で良いから、うちに来てくれないかな? お兄ちゃんの話し相手になってほしいんだ。詩織にお願いばかりして、本当にごめん』

 明日の金曜日。夜のアルバイトの時間までは特に予定のなかった詩織は、明日の午後であれば行けることを返信した。



 次の日。

 詩織は、午前九時半頃に出勤する奏と一緒に部屋を出て、池袋駅で別れると、江木田駅に戻り、午後一時過ぎ、再び、電車で池袋に戻ると、ひびきのマンションに向かった。

 一旦、家に戻ったのは、服を着替えるためだ。

 前回、響の家に行った時と、いきなり、雰囲気を変えることはどうかと思った詩織は、今回も、学校に行っている時と同じように黒縁眼鏡を掛けた上、淡いピンクの半袖ブラウスに花柄のミニスカート、素足に編み込みのサンダルという女の子らしいファッションにした。

 遠くに入道雲が見えているが、ほぼ真上にある強烈な太陽の光を遮るものが何もなく、アスファルトの道路には陽炎が立ち昇っていた。池袋駅から五分という響のマンションに着くまでにも、体中から汗が噴き出してきた。

 ちょっとした公園のように整備されているマンションの敷地に入ると、マンションの玄関前に、白いブラウスに黒の膝丈スカートという、いつものモノクロ系ファッションの瞳が立って待っていた。詩織に気づくと、小走りに近づいて来た。

「詩織、ごめんね。せっかくの夏休みなのに」

「いえ、今日は、特に予定もなかったので」

 やはり、心なしか瞳は憔悴しているようで、少し疲れているようにも見えた。響の新作不評が相当ショックだったのだろうか?

「お兄ちゃんもけっこう落ち込んでて……、気分転換に詩織に来てもらおうかって言ったんだけど、詩織に悪いって言って、首を縦に振らなかったから、詩織には申し訳ないけど、夏休みのレポートのことで詩織に相談したいことがあるから来てもらうって、嘘を吐いているんだ」

「分かりました」

 瞳は沈んだ笑顔を見せてから、詩織を連れて、最上階の自分達の部屋に入った。

 そのまま真っ直ぐ、奥のリビングまで行くと、ソファに響が座っていて、リビングのドアが開く音で、こちら側に顔を向けた。

「お兄ちゃん、詩織が来たよ」

「いらっしゃい、桐野さん。瞳が無理を言ったみたいですみません」

 響はソファから立ち上がり軽く頭を下げた。

「い、いえ。私もレポートのことを誰かに相談したいなって思っていたので」

「詩織。今、お茶を入れるから座ってて。お兄ちゃんもせっかくだから一緒にお茶しよう」

「ああ、そうだね。じゃあ、いただこうか」

「うん。じゃあ、お茶を入れる間、詩織の相手をしてあげて」

「そうかい。じゃあ、桐野さん、どうぞ」

 響の勧めに従って、詩織は響と向かい合うようにしてソファに座った。

 目の前の響も魅力的な笑顔を見せてはいたが、瞳同様、前回のような輝く笑顔ではなかった。

「暑い日が続いてますが、お元気ですか?」

 響自身が詩織を呼んだ訳でもないことから、響も話題を何も用意してなかったのだろう。とりあえず、時候の挨拶から入って来た。

「はい。寒いのよりは暑い方が好きなので、昼間は、窓を開け放して、冷房を掛けずにいます」

「それは健康的で良いですね。僕は、暑いのが苦手で、夏は冷房が欠かせません」

 今もリビングの中は快適な気温だった。

「体を動かして健康的な汗をかくことができれば良いのでしょうけど、そういう当たり前のこともできません。目が見えないということは、いろいろと面倒なのですよ」

 前回は聞かれなかった愚痴めいた台詞だった。響の心も相当マイナス思考になっているようだ。

 先ほどの瞳の話からいうと、響は、自分から新作の話をすることはないだろう。

 詩織が、ちらっとキッチンスペースを見ると、瞳と目が合った。詩織を見てうなずいた瞳の気持ちに応えるためには、詩織から話を切り出すしかない。

「桜小路先生。新作を読ませていただきました」

 響の顔が少しだけ歪んだのが分かった。

 響としては触れられたくない話題なのかもしれない。しかし、瞳の願いを入れて、ここに来た以上、避けて通ることはできない話だ。

「世間では、いろんな批判がされていることは知っています。でも、私は面白いと思いました」

 響は自嘲気味な笑みを浮かべた。

「桐野さん、ありがとうございます。桐野さんはお優しいですね」

「先生を慰めるために嘘を吐いているのではありません!」

 詩織が自分でも驚くほど、大きな声が出た。響が唖然とした表情をし、瞳の動きも止まるほどだった。

「あ、あの、正直に言います。確かに、『恋人たちの風』を読んだ時のような衝撃はありませんでした。でも、普通に面白いと思いました。私も買って来たその日に全部読み切りました」

「……」

「みんな、きっと、『恋人たちの風』の再来を期待していたのだと思います。新作の『キミダレ』は残念ながら、そこまでは衝撃的な内容ではなかったのでしょう。そのギャップに、みんなが戸惑っているだけで、けっして『キミダレ』が駄作だなんて、私は思いません!」

「私もそう思うよ、お兄ちゃん!」

 対面式のキッチンスペースから身を乗り出すようにして、瞳が話を続けた。

「書評の中には、今、詩織が言ったようなことを書いているのもあったよ。みんなの期待が大きかっただけ落胆も大きかったって。でも、詩織みたいに面白かったって言ってくれている人も大勢いるんだよ! 私もそうだし、うちの学校の文芸部の部員だってそう!」

「瞳……」

「だから、引退なんて考えないで!」

「えっ!」

 詩織は驚いて、響の顔を見た。

「引退って……?」

「実は、小説家を引退することを考えています。目が見えない作家の限界が来たのだと思います」

 響が淡々と答えた。


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