Act.003:フェローチェな姉とドルチェな妹
「琉歌、起きてるか?」
玲音は、合い鍵を使って、琉歌の部屋に入った。
隣の自分の部屋と同じワンルームで、玄関を入るとすぐにキッチンが併設されているリビングだが、遮光カーテンが閉められていて、部屋は真っ暗だった。
いつものことだ。
琉歌の生活パターンは、毎日、ほぼ変わらない。
朝方までネットゲームをしてからベッドに入り、株取引が始まる午前九時になるとむくりと起き上がり、ネットトレーディングをする。その間、じっとパソコンにかぶりつきではなく、所持銘柄の値動きを注視しながらも、スティックを握って、ドラム練習セットでの基礎練習を欠かさない。株取引が終わる午後三時になると、また寝て、午後六時頃起床。それからバンド練習や自宅での練習をしてから、午後十一時頃にはネットゲームの住民となる。それの繰り返しだ。
今、午前八時三十分。まだ、眠っている時間だ。
部屋に上がった玲音は、照明の豆電球だけを点けてから、足音を忍ばせてキッチンに向かい、持って来たお盆をカウンターに置いた
自分が作った朝御飯のおかずだ。琉歌は、放っておくと、ずっと食事をしないでいることも多いことから、無理にでも食べさせるために、毎朝、玲音が作ってきているのだ。
玲音は、ベッドの近くに寄り、布団を少しだけめくって、琉歌の顔が見えるようにした。熟睡しているようで、玲音が琉歌の頬を優しくつんつんと突いても琉歌は身動き一つしなかった。
可愛くてたまらない二つ下の妹。
小さな時は、いつも玲音の跡をついてきて、玲音がやることは何でもやりたがった。玲音が中学校の友達とバンドを始めた時、琉歌はまだ小学生だったが、一緒にバンドをやりたいと駄々をこねた。
玲音が中学三年になった時、同じ中学に琉歌も入学した。そして一緒にバンドをやっていたドラムの子が受験勉強のためバンドを脱退したことから、やる気満々の琉歌がドラムをすることになった。姉妹が一緒にバンドをするのは、それ以来ずっとだ。
自分のベースと琉歌のドラムは、パズルのピースと同じで、琉歌以外のドラムとは合わないと思っていたし、実際、琉歌以外のドラムをメンバーとするバンドもしたことがなかった。
玲音が高校三年、琉歌が高校一年の時、歯車が狂った。琉歌は何もかも放り捨てて、部屋に閉じ籠もるようになった。
「琉歌のドラムじゃなきゃ、アタシはビートを刻めないんだよ!」
玲音の一言で、琉歌は、また、ドラムを始めてくれた。
以前よりも内向的になり、ネットに引き籠もるようになったが、ドラムやバンドは以前と同じように続けてくれた。
「お姉ちゃんにずっとついて行くから!」
その約束を琉歌は守ってくれた。
琉歌の寝顔を見ながら、そんなことを思い出していた玲音だったが、バイトの時間が迫っていることを思い出し、足音を立てないようにして、琉歌の部屋から出た。
その日の夕方。
コンビニのバイトを終えて、自宅に帰って来た玲音は、すぐに琉歌の部屋に行った。
「琉歌、起きてるか?」
「起きてるよ~」
朝と違い、明かりが点いた部屋で、パソコンの前に座っていた琉歌がにこやかな顔で答えた。
琉歌の髪には寝癖が付いていて、右サイドの髪が少し跳ねていた。女なんだから、もっとお洒落をしろといつも言っているが、メイクもほとんどせず、美容院にも、玲音が、月に一度、強引に連れて行っているほどだ。金色に染めたショートヘアの手入れもほとんどしないことから、地毛が伸びた頭頂部だけが黒い、いわゆるプリン髪が標準で、ドラムを叩いていて髪が目に掛かるのが鬱陶しいと言って、目にかぶさらないように眉の上でぱっつんにした前髪が、愛嬌のある顔立ちと相まって、二十一歳の成人なのに、高校生と言っても疑われないほど幼く見えた。
「今日はどうだった?」
「ばっちりだよ~」
両手のVサインを揺らしながら、琉歌が控えめにドヤ顔をした。
今日もネットトレーディングでけっこう儲けたようだ。引き籠もりの琉歌の分も玲音がコンビニでバイトをして、それなりに生活費も稼いでいるが、実質的には琉歌の株取引で得られる利益で部屋代や楽器代、衣装代が賄えていた。
「それはそうと、お姉ちゃん」
昔から変わらない、少し気怠く、のんびりとした琉歌の話し方は、どちらかと言うと気が短い玲音の心をいつも静めてくれる。
「どうした?」
「今日は募集してきた人と初練習だよね?」
「うん。ネットでの反応は良かったけど、実際はどうなのかねえ?」
今まで、バンドメンバー募集ができるサイトで何度かメンバーを募集したが、約束の時間に来なかったり、一緒に練習をしてみると、本人が自慢するほどのテクニックがない人だったりと、ハズレばかりだった。
今回は、ギター歴七年の男性で、ネットでのやり取りもそつがなかった。
琉歌と自分とのバンドに本当は女性を加入させたかったが、プロ指向の女性ギタリストは少ないのか、なかなか募集がなく、これ以上、バンドを休眠状態にしておくことは避けたいと考えて、仕方なく男性メンバーの募集も始めたのだ。
今日は、午後六時からその男性と初顔合わせで、しかも、そのまま初練習をする予定となっていた。
池袋にあるスタジオ「ビートジャム」があるビルの前に立ち、玲音と琉歌は新メンバーの男性がやって来るのを待った。
ベースギターが入ったソフトギターケースを背負っている玲音は、水色のシャツの上にボーダー柄のセーター、チェック柄のパンツにオペラシューズというファッション雑誌のページから抜け出て来たかのような格好。
それに引き替え、スネアドラムや道具類が入ったケースを載せたキャリングカートを持っている琉歌は、年季の入ったスタジアムジャンパーに、自然にダメージ仕様となったオーバーオールジーンズ、足元は黒のスニーカーという、あまりお洒落に関心がない男の子のような格好をしていた。
玲音が腕時計を見た。午後六時に五分前。
初対面でもあるから、午後六時からの練習に備えて、遅くとも十五分前までに来るように申し渡していたが、男性はまだ来なかった。
「来ないね~」
「ったく! また、ハズレかよ!」
玲音が悪態を吐いたタイミングで、ギターケースを背負った男性が、にやけた顔をしながら近づいて来ているのに気づいた。
「萩村さんですか?」
背も高く、それなりにイケメンだが、約束の時間までに来なかったことの反省などまったくしていないようだった。
「そうだよ。高橋さんかい?」
「初めまして。よろしく!」
イケメンだけに許された、いきなりのフレンドリーな挨拶だが、玲音と琉歌は目を眩まされることはなかった。
「四十五分までに来てって言ってたはずだけど?」
玲音が機嫌悪そうに言ったが、男性はまったく気づいていないようだった。
「電車が遅れちゃって」
「何線だったっけ?」
「埼京線だけど、遅延の情報までは出ないくらいの遅れだったから」
悪びれずに言い訳する男性に、玲音は既に切れ気味だった。
「お姉ちゃん! とりあえず六時になっちゃってるから、スタジオに入ろうよ~」
玲音の性格をよく知っている琉歌が気を使ってくれたようだ。
「そうだな」
玲音と琉歌は高橋を連れてビートジャムに入った。
受付を済ますと、三人はすぐに第四スタジオに入り、素早くセッティングを終えた。
「じゃあ、やってみよう」
琉歌がスティックでカウントを打ち、曲が始まった。
曲はあらかじめ決めておいた有名な洋楽だ。ギターのテクニックがよく分かる、それなりに難易度が高い曲だが、高橋は難なく演奏をしていた。
玲音と琉歌は顔を見合わせた。とりあえず演奏技術は合格だ。
しかし、バンドは人と人とのつながりが個々の演奏テクニックよりも重要だと玲音は考えていた。これまで、高校の同級生やその友人というツテでバンドメンバーを募り活動をしていた。もともとが知り合いや友人だから、人間関係で悩むことはなかったが、逆に演奏テクニックで不満が貯まることが多かった。
玲音も琉歌もプロになりたいという想いが強かった。
他のメンバー達が趣味の範囲に留まっていたのに対して、二人は高校生の頃にはそれを職業にしようと考えた。勉強が得意な訳でもなく、特技と言えば楽器を演奏することだけという自分達が、一番輝くには、その道しかなかった。
そして、何よりも音楽が好きだった。ロックが大好きだった。それを職業にできたら楽しいだろうと思った。単純な動機だが、絶対に実現させたかった。
だから、バンドメンバーも納得のできるメンバーを揃えたかった。
高橋の演奏技術は確かに素晴らしい。しかし、それだけだ。
玲音や琉歌が一番感じたい、音楽に対する情熱を高橋の演奏から感じることがなかった。高橋は、ただ単にギターが上手い人だった。それは、自分のギターテクニックに酔いしれて、アンサンブルを考えていない演奏からも分かった。
玲音のボーカルパートに入っても、歌を邪魔するようなフレーズを遠慮無しに入れてきた。よほど、自分のギターテクニックを自慢したいようだ。
曲が終わると、高橋がドヤ顔で玲音を見た。
「ごめんごめん、俺もスタジオは久しぶりだったから、ちょっと熱が入っちゃって」
「ああ、そうかい。ギター、上手いんだね」
「そうでもないよ。でも、この曲は初めてだったけど、二時間で完コピできたよ」
「お、お姉ちゃん!」
高橋を睨んでいた玲音のこわばった顔に気づいたのか、琉歌が心配そうな顔をして玲音を呼んだ。
「と、とりあえず、残りの曲もしてみようよ~」
「ああ、そうだな。じゃあ、次の曲、行こう」
玲音は思い切り不機嫌な声を出したが、高橋は、やはり気づいていないようだった。
「ちょっと休憩しようぜ」
一時間ほど過ぎた頃、玲音がそう言うと、ギターをスタンドに立てた高橋が、同じくベースをスタンドに立てた玲音に近づいて来た。
「でも、驚いたよ。萩村さんもすげえ上手いんだねえ」
「そいつはどうも」
「本当だよ」
そう言うと高橋は、更に玲音に近づいた。
「ねえ、この運命的な出会いを記念して、練習が終わったら飲みに行かない?」
琉歌に聞かれないようにか、高橋は顔を近づけつつ、小声で玲音に言った。
「玲音ちゃん綺麗だよね。俺、もう一目惚れしちゃったかも。二人だけで飲みに行こうよ」
出会ってからの態度に既にキレ気味だった玲音は、完璧にキレた。
「あ~ん! 何だと?」
玲音は高橋の胸ぐらを掴むと、スタジオの扉に向けて高橋の体を押し出した。
「てめえ! 何をしに、ここに来てんだ?」
玲音の怒りに恐れおののいて、何も言葉を発することができずに、掴まれている胸ぐらをはずそうともがくことすら思いつかないような高橋を睨み付けながら、玲音は片手でスタジオの防音扉の取っ手を回すと、その扉を内側に開いた。
「ふざけんじゃねえ!」
玲音は、開け放した扉から通路に向かって、高橋を突き飛ばした。そして、通路に尻餅を突いた高橋を、スタジオの入口に仁王立ちして軽蔑と怒りの視線を投げつけた。