Act.064:リセットしたい関係
「ママさんは、桜井瑞希ちゃんのマネジャー兼付き人として、実質的に、瑞希ちゃんをプロデュースしていたんです。その人脈で、ここには多くの芸能関係者が集まってきていて、私もそういう人脈を利用させてもらっているんですよ」
榊原の言葉を受けて、ママが奏をにこやかに見つめながら話を繋いだ。
「私は、来ていただいたお客様同士のつながりも大切にしていきたいと思っているだけです。ここに来られることで、お客様が楽しんでいただいて、くつろいでいただいて、そして、お仕事にも生かしていただければ、これ以上にない喜びですから」
にっこりと笑ったママの表情は、奏も見とれるほど綺麗で、詩織がこの女性から生まれたことも納得できた。
「それでは、ごゆっくりなさってくださいませ。ちょっと、席を外させていただきます」
ママは優雅にお辞儀をすると立ち上がり、隣のテーブルに移って行った。
「どうですか? あの桜井瑞希ちゃんのお母さんなんて驚きでしょ?」
榊原がどや顔で言った。
どうやら、このサプライズが、奏をこの店に連れて来た目的だったようだ。
「そ、そうですね。瑞希ちゃんがどうして引退したのかは、榊原さんはご存じなんですか?」
「それもママさんは話してくれないんですよね。まあ、昔、流行った『普通の女の子に戻ります!』じゃないんですかね?」
今度は、奏の方が、「普通の女の子になんてなってないよ」と、心の中で、どや顔をした。
「それはともかく。私は、ここで培った人脈を最大限利用して、うちに所属しているアーティストのプロモートを積極的に行おうと思っているんです」
「あるコネは使わないと損という訳ですね?」
「そういうことです。そして、藤井先生!」
榊原が背筋を伸ばして、奏を見つめた。
「私は諦めませんので! 必ず、クレッシェンド・ガーリー・スタイルを我が社にお迎えいたします!」
奏は、正直、辟易してきていた。
榊原が、高級なレストランや、ここのような今まで行ったことのない店に連れて行ってくれることも、最初こそ目新しくて、それなりに楽しめたが、何度も繰り返されると、満腹な状態になってしまっていた。それに、ビジネスライクな話は好きではなかったし、何よりも、妻子のある男性と二人で会っているだけで罪悪感を覚えてしまうのだった。
「あ、あの、うちのバンドのリーダーはベースをしている子なんです。その子の了承を私の方で取りますから、今後は、その子と話をしてもらっても良いですか?」
「私と一緒にいると楽しくないですか?」
榊原が露骨に悲しげな顔をした。
「い、いえ、そういう訳ではなくてですね」
榊原自身は嫌いという訳ではない奏は、自分の気持ちを正直に話すことにした。
「奥様もいらっしゃる榊原さんと、こうして二人でお会いすることが心苦しいのです」
「いや、これはビジネスの話ですから」
「それはそうかもしれませんが、私は、そういうことに慣れてなくて、これからも慣れることはないと思います。でも、ベースの子は、あっけらかんとしていて、そういうことはあまり気にしないと思いますから、その子に任せたいのです」
玲音に相談もなく、丸投げしようとしていたが、玲音であれば、榊原とも気軽に話ができるはずだと、奏は思った。
「そうですか。まあ、先生もお忙しいでしょうし、無理を言って、先生を困らせていたのなら謝ります」
「い、いえ! 銀座のクラブなんて初めてでしたし、桜井瑞希ちゃんのお母さんにも会わせていただいて、良い経験をさせていただきました」
「そうですか? そうおっしゃっていただけると、お連れした甲斐があったというものです」
すぐに笑顔になった榊原は、小さなことは気にしない「鈍感力」を持ち合わせているようだ。
会社の経営者には、ある程度の鈍感力は必要なのだろう。社員や周りの人間の言うことをいちいち気にしていたら、会社の経営自体がふらついたものになってしまう。自分の考えを通す時は、誰が何と言おうと押し通すだけの強い意志とともに、人の評判を気にしないだけの「鈍感力」も必要なのだろう。
「アタシが?」
「ええ、私に代わって、榊原さんの相手をしてちょうだい」
銀座のクラブ「ミズキ」から帰った奏は、早速、玲音に電話をして、これから自分に代わって、榊原の接待攻撃を受けてくれるように頼んだ。
「只酒が飲めるんなら、いくらでも行くぜ」
「ほんと、あんたが適任だわ」
奏は、物怖じしない玲音の性格が少し羨ましかった。
「でも、榊原さんは、どうして、奏をずっと誘っていたんだ?」
「とりあえず、私の口から、『将来は、エンジェルフォールに入ります』って、一言が欲しかったんでしょうね」
「でも、リーダーはアタシだって言ってたんだろ?」
「もちろんよ」
「榊原さんは、個人的に、奏と会いたかったんじゃね?」
「そ、そんなことはないと思うけど……」
玲音に言われるまでもなく、バンドの話なのに、常に、奏一人を誘い出していたし、榊原の方も事務所の担当者を連れて来ることはなく、一人で来ていて、これでは、まるでデートではないかと、奏も思っていた。だからこそ、榊原の奥さんに対して罪悪感を覚えていたのだ。
「榊原さんは、奥さんも子供さんもいらっしゃるんだから、玲音も榊原さんと会う時は、ちゃんとわきまえた行動を取るようにね」
「何だよ、それ? まるで、アタシが節操のない女みたいじゃねえか!」
「そうじゃなかったっけ?」
「アタシも性欲まみれじゃねえから! 一応、好みの男としか寝ないから!」
「でも、榊原さんは好きなタイプって言ってなかったっけ?」
「……否定しない」
「ほら~」
「でも、アタシだって、今まで不倫なんてしたことはないから! やっぱり、不倫をする男ってのは、どこか驕ってるんだよ」
「まあ、そうかもね。とりあえず、私の話、承知してくれる?」
「良いぜ。せいぜい、楽しませてもらうぜ」
「羽目をはずしすぎないようにね」
「アタシは、いくら飲んだって、理性は失わないつもりだから! バンドにとって不利になるような約束は絶対にしないよ」
「頼んだわよ」
「任せとけって!」
玲音との電話が終わると、奏は、詩織の携帯に電話を掛けようとしたが、思いとどまった。
母親のことを話そうとしたのだが、詩織自身は聞きたくない話かもしれないと思ったのだ。
しかし、もし、将来、エンジェルフォールに入れば、榊原にも昔の詩織のことは正直に話さなければならない。今後は、マネジメント一切を委ねる音楽芸能事務所にその事実を知らせないということはありえない。それを知らせておいた上で、世間にばれた時の対処も事務所を通じて行わなければならないからだ。その時、鈍感力の塊である榊原から詩織に母親の話をされるよりは、自分が知らせた方が良いと思い直した奏は、詩織の携帯に電話を掛けた。
詩織は、すぐに電話に出た。
「こんばんは! 奏さん!」
「こんばんは! 詩織ちゃん、今日も元気ね」
「はい! 夏休みなので、エネルギーを持て余している感じです」
「そっか。良いわね、学生さんは」
「今年が最後ですけどね」
「来年からは忙しくなれば良いね」
「はい!」
「えっと、それでね、詩織ちゃん」
「何か、あったんですか?」
いつになく歯切れが悪い奏に、詩織も何か変だと感じ取ったようだ。
「今日、エンジェルフォールの榊原さんに誘われて、銀座のクラブに行ってきたの」
「また、勧誘ですか?」
「そうなの。さすがに、私も辟易してきて、その役目を玲音に押しつけたんだけどね」
「玲音さんなら一緒になって騒ぎそうですもんね」
「あははは、そうね。お酒も強いし、玲音なら大丈夫だと思ってさ」
「そうですね」
「それでね、えっと、その、今日、行ってた銀座のクラブなんだけど……」
「ひょっとして、ミズキって、お店ですか?」
「えっ! 詩織ちゃん、知ってたの?」
「いえ。実は、今日、母親から手紙が来て」
詩織の話を聞いた奏は、なんというタイミングなのだろうと驚いた。
「そうだったんだ。それで、詩織ちゃんのお母さんにも会ってきたよ」
「そうですか」
「……この話、あまり聞きたくない?」
「そうですね。でも、元気そうでしたか?」
奏は、なんだかんだいって、生みの親のことにまったく無関心ではいられないのだろうと、詩織の心情を思いやった。
「ええ、元気そうだったわよ。それに、お店もけっこう繁盛しているみたい」
「そうですか」
「お店の名前もそうだけど、桜井瑞希の母親だということをセールスポイントにしているみたいね」
「変わってないんですね」
詩織のその言葉に、詩織が今まで見せたことのない感情を感じた奏は、これ以上、母親の話をすることは止めることにした。
「と、とりあえず、それだけなんだけど……」
「奏さん、話してくれてありがとうございます。隠されていた方が悲しかったです」
「うん」
奏も、最初こそ、元アイドルということで、詩織を特別な目で見ていたが、詩織の真っ直ぐで純粋な心に触れて、今では、実の姉妹以上のつきあいができていて、慕ってきてくれる詩織が可愛くて仕方なかったし、お互いに隠し事をしないで、何でも話し合うという関係が心地良かった。
「そうだ。夏休みということは、練習日の翌日もお休みってことでしょ? また、うちに泊まりにおいでよ」
「良いんですか?」
「いつでもオッケイだよ。玲音みたいに男を連れ込む予定もないしさ」
「うふふ。じゃあ、今度の練習の後、泊まらせてください」
「どうぞどうぞ! それで、また、うちの店長代理に心の中で自慢できるネタもできるしさ」




