Act.063:願わない便り
七月も下旬になり、詩織の学校も夏休みとなった。
受験を控えている三年生にとっては追い込みの時期だが、進学はしない詩織にとっては、大好きな音楽にたっぷりと浸れる毎日だった。
今日も朝から、ずっと、ギターを弾いていた。
周りにはそれほど高い建物がない十二階の部屋は、窓を開けはなつと風通しも良く、キャミソールとホットパンツという、桜井瑞希のファンが見たら垂涎ものの格好だと、冷房を掛けなくても、気持ちが良かった。
ヘッドホンをはずして、その風を感じていると、来客を知らせるインターホンの音が響いた。
来訪者カメラの画面を見てみると、郵便局の配達員のようだったが、女の子の一人暮らしだし、宅配ボックスや後で郵便局に取りにも行けるのだから、詩織はいつもどおり居留守を決め込んだ。
お昼になり、肌の露出が少ない服装に着替えてから、お昼御飯を買いに出掛けた。
椎名に紹介してもらった弁当屋は駅の反対側なので、日差しが和らぐ夕方以降に行こうと思い、近くのコンビニでサンドウィッチを買った。
マンションに戻り、ポストを覗くと、書留郵便の配達票が入っていた。詩織は、その差出人を見て愕然とした。
桜井実咲。
父親と離婚して、旧姓の「桜井」に戻っている、詩織の母親だった。
詩織の芸名も母親が自分の旧姓から名付けたもので、「みさき」と「みずき」という、少し似通った名前にしているのも、自分がアイドル扱いされたかったことの現れではないかと、詩織は思っている。
今さら何を送ってきたのだろうと、訝しみながら、一旦、部屋に戻った詩織は、すぐに印鑑を持って、これも近くにある郵便局に行き、書留郵便の封筒を受け取った。
部屋に戻ると、すぐに開封をして、中身をテーブルの上に出した。手紙と銀行の通帳、そして印鑑ケースが出て来た。
すぐに手紙を広げて読んだ。
『詩織も元気にしているとお父さんから聞いています。同封している通帳と印鑑は、ずっと詩織に返そうと思っていて、本当は直に会って返したかったのだけど、詩織はまだ私と会いたくないだろうとお父さんから聞いて、郵便で返すことにしました。実は、このお金を元手にして、銀座でお店を開きました。かつてお世話になった芸能関係者の皆さんに贔屓にしていただいて、何とか経営も軌道に乗ってきたので、使ったお金も通帳に戻しています。私は、いつでも詩織に会いたいです。だから、詩織がその気になったら、ここに連絡をください』
そこには、銀座の住所と「ミズキ」という店の名前、そして、その店の電話番号と母親の携帯番号が書かれていた。
詩織が通帳を確かめると、残高は五千万円以上あった。履歴を見ると、一年半前にほぼ全額が引き出されていたが、それから間もなく、月々、入金がされていて、当初の預金額に戻っていた。
要は、勝手に詩織のお金を使ったが、もう自分で稼げるようになったから返すということで、詩織に断りもなくお金を使ったことの謝罪もなく、自分の言いたいことを一方的に言っているだけの文面に、詩織は腹を立てるよりも呆れてしまった。
そして、元は自分が稼いだお金だが、今は只の女子高生の詩織にとって、五千万円ものお金が送られてきても戸惑うことしかできなかった。それに、そのお金に手を付けるのは、母親に対して負けたような気がして嫌だった。
とりあえず、そのお金のことは父親に任せることにして、詩織は、今までどおり、バイトを続けていこうと決めた。
同じ日の午後八時。
仕事を終えた奏が山田楽器店を出ると、すぐ前の歩道に榊原が立って待っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえいえ、藤井先生とこうしてお会いできるだけで幸せですから」
昨日、バンドのことで話したいことがあると、榊原からメールがあった。
榊原が経営する音楽芸能事務所「エンジェルフォール」には、まだ入らないと返事はしていたが、詩織の歌をライブで直に聴いた榊原は、猛烈にプッシュしてきていた。
クレッシェンド・ガーリー・スタイルというバンドのことは、ネットの一部では話題になりつつあったが、大手の音楽芸能事務所にはまだ知られていないはずだ。そして、大手の事務所がクレッシェンド・ガーリー・スタイルの争奪戦に参戦してくると、小さな事務所の「エンジェルフォール」は太刀打ちできないだろう。だから、今のうちに契約を結んでおきたいという榊原の意向も理解できたし、やはり、最初に声を掛けてきてくれた榊原に不義理なこともできない。だから、いずれは「エンジェルフォール」を所属先の第一候補として考えることになるだろう。
奏は、そういった将来のことを考えると、榊原からの連絡もむげにできないと考え、今夜も、榊原と会うことを約束したのだ。
「私の行きつけのお店にご案内したいので、車で参りましょう」
そう言うと、榊原はタクシーを停めて、まず、奏を乗り込ませてから、自分がその隣に座った。
「銀座二丁目まで」
タクシーの運転手にそう告げると、榊原がにこやかな顔を奏に向けた。
「銀座に私のお気に入りのお店がありましてね。そこは芸能関係者がよく利用しているクラブなんですよ」
「あの、そこに私を連れて行って、どうなさるおつもりですか?」
「できれば、口説きたいところですが、今日もビジネスの話です」
「うちのバンドのことであれば、以前からお話しているとおり、ヘブンズ・ゲートで単独ライブを成功させることができてから、具体的にお話をさせていただきたいと思っています」
「ええ、もちろん、理解しています。しかし、私は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルというバンドを、絶対に自分で育ててみたいのです。それだけの逸材が揃っている素晴らしいバンドだと思っています。だから、こうやって、藤井先生の所に他の事務所の連中が寄ってこないように、見張っているようなものなのですよ。ははは」
奏が発散しまくっている憂鬱感を感じ取ることなく、榊原は一人、楽しそうに笑った。
銀座に着いた榊原は、とあるビルの二階に奏を案内した。
エレベーターを降りると、店の看板らしきものは見当たらなかったが、目の前に立派な作りの木製ドアがあり、榊原は、それを自ら開いて、奏を先に店の中に入れた。
蝶ネクタイに黒ベスト姿の男性従業員が「いらっしゃいませ、榊原様。お待ちしておりました」と言いながら近づいて来て、深くお辞儀をした。
店内には、ムーディーなジャズが流れ、豪華な内装が施されていた。
そもそも、銀座のクラブなどに来たことのない奏は、いったいいくら取られるのだろうと、小市民的な心配をしてしまった。
「こちらにどうぞ」と言って、男性従業員が案内していったのは店の奥で、二人がゆったりと座れるソファが小さなテーブルを挟んで向かい合って置かれている席だった。
榊原は、奏をソファの奥に座らせると、その隣に座った。
間もなく、煌びやかなドレスを着たホステスらしき女性がすぐに近寄って来て、「いらっしゃいませ」と深くお辞儀をしてから、対面のソファに座った。
「榊原様、いつもありがとうございます」
ホステスは、男性従業員が持って来た高級そうなウィスキーで水割りを作り、グラスを榊原の前に置くと、奏に「水割りでよろしいですか?」と、完璧メイクの笑顔を向けた。
「あ、あの、薄く、お願いします」
ウィスキーの水割りなど、普段はまったく飲まない奏が、そう注文をつけた。
「かしこまりました」と言って、薄めに作った水割りを奏の前に置いたホステスが、「こちらは初めてでございますか?」と、奏に尋ねた。
「こちらは、僕がお世話になっている楽器店のピアノの先生で、今日、初めて、ご案内してきたんだよ」と、榊原が奏に代わって紹介してくれた。
「ピアノの先生ですかあ! 素敵ですねえ! 私も小さな頃は、ピアノを弾いてました!」
奏を持ち上げようとしているのか、ホステスが少々大袈裟な口調で言った。
「今でもピアノは好きで、こんな名前にしているんです」
ホステスが差し出した名刺を見て、この店が「クラブミズキ」という店名だと分かった。そして、ホステスの源氏名が、「カナデ」ということで、ホステスが言った意味も分かった。
「あっ、先生と同名でしたね。これはうかつでした」
榊原も、名刺に見入っていた奏の様子で気づいたようだ。
「い、いえ、別に気にはなりません」
「奏さんて言うんですか? わあ、そんな名前、憧れます!」
完璧メイクのホステスは、幾つなのか分からなかったが、奏と同年代ではないかと思われた。
「カナデちゃんは、本名は何て言うんだっけ?」
「和子です。和風の『和』に子供の『子』というありふれた名前で、昔から『子』が付かない名前に憧れていたんですよね」
榊原は、もう何度もカナデと話をしているようで、他愛のない話をしながらも、奏にも話を振って、奏が退屈をしないように気を使ってくれているようだった。そんな会話術はさすがと思わせたが、奥さんも子供もいる男性が、こんな場所で、女性に媚びを売るようなことが、奏には理解できなかった。
仕事の話なら昼間にでもできるし、むしろ、そちらの方が効率的だ。
奏を接待しているのだとすれば、女性の奏がこういう店で楽しめると榊原は思っているのだろうかと疑問に思った。
「榊原様、いつもありがとうございます」
カナデよりは明らかに年上で、和服をきっちりと着こなした女性がカナデの隣に座った。女性は、すぐに名刺を奏に差し出した。
「ミサキと申します。ここは初めてでございますよね? どうかよろしくお願いいたします」
「ここのオーナー兼ママさんですよ」
榊原の紹介を受けながら、奏もミサキに会釈を返した。名刺には「オーナー 桜井実咲」と書かれていた。
「ママさんはね、あのキューティーリンクにいた、桜井瑞希ちゃんのお母さんなんですよ」
「えっ!」
予想だにしてなかった榊原の台詞に、奏は、つい、大きな声を出してしまった。その奏の反応が予想どおりだったのか、榊原はにやついた顔で話を続けた。
「誰だってびっくりしますよね。二年前に電撃引退をした超人気アイドルの母親なんてね」
「あ、あの、桜井瑞希ちゃんは、今、どこに?」
奏はとぼけて訊いてみた。
「そのご質問には、どんな方にもお答えしていませんの。それは口外しないという、瑞希との約束ですから」
「じゃ、じゃあ、今も元気でいらっしゃるんですね?」
「ええ、もちろん。元気ですよ」
詩織は、母親とは縁を切っていると言っていた。今の詩織の居場所くらいは知っていて不思議ではないが、元気かどうかを言えるほど、詩織とは頻繁に連絡を取ってはいないはずだ。
詩織が嫌っている母親だ。奏も、このママの印象が途端に悪くなってしまった。
「このお店の名前も瑞希ちゃんから取っているのですか?」
「ええ、そうです。桜井は私の本名で、瑞希は、私がハナミズキの花が大好きなので、芸名にしたのです」
「そ、そうですか」
桜井瑞希の母親だということを、未だに自分のセールスポイントにしているようだ。
「ミズキ」という店名からも、昔の詩織の人気にあやかっているのは間違いないだろう。




