Act.056:友情と愛情の布石
カレンダーは七月に変わり、最初の火曜日。
梅雨の真っ最中という季節どおりの空模様で、じっとりとまとわりつくような湿気に、半袖のセーラー服でも鬱陶しさを軽くすることはできなかった。
放課後。
学校の玄関に一人で向かった詩織は、下駄箱から自分のローファーを取り出して、行儀良くしゃがんで床に降ろし、今まで履いていた上履きを脱ぎ、下駄箱に入れた。
バンドをしている時に、ギターをかき鳴らしながら、激しくシャウトする詩織は、とてもお嬢様とは言えないが、学校では、これまで二年間、ずっと、そういうお淑やかな行動を取ってきていて、演じているという感覚では既になく、黒縁眼鏡を掛けてセーラー服を着ていると、自然とそういう所作になるのだった。
「詩織!」
振り向くと、瞳が廊下を走って来ていた。そして、詩織の前まで来ると、A四サイズの茶封筒を差し出した。
「良かった、間に合った! これ、遅くなったけど、私の募集作なんだ。読んでくれる?」
よほど焦って駆けて来たのだろう。瞳が、まだ息を切らしながら言った。
「できたんですね?」
「この週末、ずっと推敲してたんだけど、どうしても自分が納得できる出来にならなくて、今日の昼間も、ずっと推敲してたんだ」
「昼間って?」
「授業中に内職してた」
てへっと舌を出して、瞳が微笑んだ。
瞳のそんなお茶目な顔に、詩織も微笑みながら茶封筒を受け取った。思っていたより厚く重かった。
「何枚あるんですか?」
「百二十枚くらい」
「締め切りは、確か、再来週って言ってましたよね?」
「そう。来週の月曜日の消印まで。今度の土日に最終的な推敲をしたいから、できれば金曜日までに感想をもらえたら嬉しいんだけど」
今日はこれからバイトがあり、木曜日にはバンドの練習がある。実質、読めるのは、明日の水曜日くらいしかない。
「無理かな?」
詩織の心配そうな顔を見て、瞳も不安げに尋ねた。
「い、いえ、読みます。瞳さんとは約束をしたのですから!」
応募作の感想をあげることは、バンドのPVの宣伝を瞳がしてくれたことに何かお礼をしたいと、詩織が自分から言い出したことだ。約束は守らなければならない。
「ごめんね。もっと早く詩織に渡せたら良かったんだけど」
詩織は、茶封筒から原稿を取り出した。A四横の用紙に縦書きで印刷されていて、いつも読んでいる文庫本の体裁になっていた。
左横の二穴を紐で綴っている原稿を、パラパラとめくってみると、ところどころ、手書きの赤い字で修正がされている箇所があった。
「ああ、それは今日の昼間に推敲してて、修正した所。読みにくいかもしれないけど」
「これを授業中にしてたんですか?」
「仕方なくだよ。でも、やってると、やっぱ楽しくて、普段の勉強より身が入ってたかも」
瞳にとって小説を書くということは、詩織にとっての音楽と同じように、追い求める情熱の対象なのだろう。
「あっ、でも、この手書きで修正されている原稿を、私が預かっていても大丈夫なんですか?」
詩織がこの原稿を読んでいる間も、瞳は推敲を続けるはずで、手書きの修正部分は、瞳が持っている原稿データには反映されていないはずだ。
「心配いらないよ。さっき職員室で、文芸部で使用する資料ですとか言って、コピーしてきたから」
相変わらず行動が大胆な瞳であった。
「で、では、お預かりします。金曜日には感想をお返しできるようにします」
「ありがとう! でも、無理しなくても良いよ。面白くなかったら、途中で止めても良いからさ」
「でも」
「良いんだ。むしろ、それくらいの気持ちで読んでもらいたい」
詩織を見つめる瞳は、真剣な表情をしていた。
「文芸部でも、それぞれが書いた小説を持ち寄って、お互いに感想を言い合ったりするんだけど、みんな、書いた人に遠慮して、甘い評価や感想しか言わなくて、結局、自己満足を得るだけのセレモニーになっちゃってるんだよね。その中で、私一人だけが思ったことをズバズバと言うもんだから、私と感想を出し合いたいって人が少なくてさ」
「そうなんですか?」
「うん。中には、『さすが桜小路響の妹だけのことはある』なんて馬鹿な感想をよこす馬鹿もいるんだよ。私の文章が、本当にお兄ちゃんの書いた文章に匹敵できているのなら、私も素直に喜ぶよ。でも、私の文章はお兄ちゃんの文章には、全然、敵わないんだ。それは誰が読んだって分かるはずなんだ。それが分からないのは、そいつが全然、お兄ちゃんの小説を読み込んでないからなんだよ」
「……」
「ああ、ごめん。詩織に愚痴を言っても仕方なかったのにね」
「い、いえ」
「だから、言いたかったことは、詩織には、そんな遠慮とかをしないでほしいってこと。詩織が感じたままを伝えてほしい。詩織ならそうしてくれるって思ってるけど」
「分かりました」
詩織の返事を聞いて、瞳はにこりと笑った。
「でもね、詩織の方から読むって言ってくれたことだけでも嬉しかったから。本当にありがとう」
好き嫌いがはっきりしている瞳は、その感情が素直に表情に出るようで、詩織に見せた笑顔には一点の曇りもなかった。
家に帰り、アルバイトに行くまでの時間。
詩織は、瞳の書いた小説の冒頭を読んでみた。
中世ヨーロッパ風の架空世界を舞台に、とある国の王子とその国に征服され滅んだ国の王女とのファンタジー系ラブストーリーで、設定自体はありふれていたが、同じ高校生が書いたとは思えない洗練された文章が、ぐいぐいと物語の中に詩織を引き込んでいった。
どんなことにも熱中すると時間を忘れる詩織は、タイマーを付けておく習慣ができており、バイトに行く時間を知らせるアラームが鳴るまで、小説に没頭していた。
少し、響の文体に似ているようにも思えた。もちろん、響ほどではないが、それでも十分に、読者を引き込む魅力がある文章だと思った。
後ろ髪を引かれる想いで、アルバイトに出掛けた詩織だったが、カサブランカに着くと気持ちを切り替えた。
「こんばんは」
いつも詩織よりも早く来ていて、いつもどおり、眠そうな顔でレジカウンターに立っていた椎名に挨拶をすると、椎名も「うっす」と言って右手を上げる、いつもどおりのポーズで挨拶を返してくれた。
スタッフルームで店名入りのエプロンを着けて、椎名の隣に立つ。
椎名とは、バンドのメンバーとの飲み会も済ませて、ますます、言いたいことが言える間柄になっていた。
「椎名さん、PVのアクセス回数、今日も増えてましたよ」
「そうか。まあ、それは、桐野達の歌と演奏の力、そして桜小路響のツイートのせいだろう。映像の力ではないさ」
「そんなことはないと思います。私がさっき見たときには、六千アクセスを越えてました。桜小路先生のツイートがあったのが、先週の木曜日でしたから、もう、そろそろ一週間になりますけど、全然、勢いは衰えていません。やっぱり、あのPVには見入ってしまうものがあると思います」
「まあ、桐野にそう言われると、少しは救われるな」
「本当ですよぉ!」
無意識に頬を膨らませて、椎名を睨む詩織を、椎名は少し眩しそうに見つめた。
「まったく、困ったものだな」
「はい? 何のことですか?」
「いや、何でもない。ところで、桐野。今度のライブも撮影をしたいんだが?」
「大丈夫だと思いますよ。一応、玲音さんにも確認してみますけど」
「実は、玲音には俺から直に話をつけている」
「いつの間に……」
詩織が知らない間に、椎名は、同い年の玲音とはすっかりと打ち解けているようだった。
「まあ、観客もけっこう入っているはずだから、PV撮影の時みたいに、カメラを持って会場を動き回ることはできないが、会場の後ろから固定カメラを一台とハンディ一台で撮りたいと思っている」
「その映像は、どうするんですか?」
「ステージを真正面から撮るのだから、桐野の顔がばっちり映るはずだ。だから、桐野が公開を控えてほしいと言うのであれば、俺だけの観賞用にするつもりだ」
「な、何を言ってるんですか?」
さらりと変態的な発言をする椎名に、詩織も焦ってしまった。
「冗談だよ。玲音も初ライブの記念に撮っておきたいようで、公開までは考えていないようだ」
「記念なら、私も欲しいです」
「もちろん、メンバー全員に配るようにするよ。しかし、この前は、スタジオでの演奏で、それも音は別録りの映像であったにもかかわらず、桐野達の演奏風景には強烈なインパクトがあった。今度は、それに生音と観客の熱気が加わると思うと、俺も今から楽しみでならない」
「それは、私も同じです」
椎名は、詩織にうなずくと、店内を見渡した。
詩織もつられて店内を見渡したが、客は一人もいなかった。
「桐野」
「はい?」
見上げた椎名の顔には、普段見せている冷めた雰囲気はなく、何かを思い詰めているような表情が浮かんでいた。
「ライブが終わってから、桐野に話があるんだ」
「はい? 今でも良いですよ」
「いや、今の桐野は、初ライブに向けてまっしぐらなのだから、余計なことで、桐野の邪魔をしたくはない」
「そんなこと言われると、余計に気になるじゃないですか!」
「ライブの時にはそれに集中する! と、撮影の時に、玲音が言ってなかったか?」
「それは分かってます!」
「じゃあ、そうしてくれ。ちょっと、赤カゴの整理に行ってくる」
椎名は、成人指定DVDの整理をしに、レジカウンターから去って行った。
詩織は、椎名が何を言いたいのか、まったく分からずに、椎名の背中を見つめた。




