Act.002:昔の自分を黒く塗れ!
「本当にごめんなさい! 私が気をつけているべきだったのに」
相手には見えてないかもしれないが、詩織は、キャップを取って、再度、頭を下げた。
「僕の方こそ申し訳ないです。街は夜でも明るいから大丈夫だと油断をしていました」
返ってきた言葉は、まったく怒っているようではなく、むしろ、詩織の気持ちを落ち着かせる穏やかな微風のように詩織の耳に入って来た。
男性は、身長こそ男性の平均的な高さではあったが、顔立ちは女性的で、体も華奢な感じがした。
顔の色は白人を思わせるほどで、月とネオンの明かりのせいか、どちらかというと青白いように見えた。髪はプラチナブロンドだったが染めているようには見えなかった。何より長い睫毛や薄い眉毛も黒くなかった。また、白のスタンドカラーシャツに黒のチョッキ、スリムなブラックジーンズに黒の靴というシンプルなモノクロ系ファッションが知的な雰囲気を醸し出していた。
男性に対してそれほど免疫がない詩織も、その中性的な魅力を放つ男性に思わず見とれてしまったが、怒りを含んだ声で我に返った。
「ちょっと、あんた!」
いきなり背中から怒鳴られた詩織が首をすくめながら振り向くと、長い黒髪をツインテールにした女性が腰に手をやり、詩織を睨んでいた。
女性は、身長は詩織と同じくらいで、男性と同じように白のブラウスと黒のカーデガン、そして白いミディ丈のフレアスカートに黒のショートブーツというモノクロ系のファッションを身にまとっていた。年齢も詩織と同じくらいではないかと思われた。
「お兄ちゃんに何したのよ?」
「はい?」
何をしたと言われても、誤って体をぶつけてしまったこと以外に、何もした覚えのない詩織は戸惑うほかなかったが、女性は、そんな詩織に構うことなく、ツカツカと詩織に詰め寄って来ると、人差し指を詩織の目の前に向けて突きだした。
「お兄ちゃんのファンかもしれないけど、今はプライベートなんだから、見境なく声なんか掛けないでよね!」
「えっと……」
「瞳」
金髪の男性が呼んだ「瞳」というのが、詩織に迫っていた女性の名前なのだろう。
女性は詩織をスルーして男性の前に立った。
「僕が誤って、その方にぶつかってしまったんだ。だから、その人を責めないで」
「向こうからぶつかって来たかもしれないじゃない」
「それでも僕に過失がないとは言えないよ。あの」
男性は「瞳」と呼んだ女性から詩織の方に顔を向けた。もちろん、真正面から詩織の視線を捉えてはいなかった。
「本当にすみませんでした。お怪我はないですか?」
「あっ、はい。こちらこそ申し訳ありませんでした!」
詩織は、再度、男性に向けて頭を下げた。
「では、失礼します」
男性は、詩織に会釈をすると、詩織に背を向けて歩き出した。
「あっ、お兄ちゃん、待って!」
その跡を急いでついて行った女性は男性の隣に追いつくと、男性の右腕を取って、自分の左腕に絡ませた。目が不自由な人をエスコートする方法だ。
「お兄ちゃん、ごめんね」
「気にしなくて良いよ」
男性の優しい口調に女性も嬉しそうに微笑むと、二人は、詩織のことなど既に忘れてしまっているように、ゆっくりと夜の街に消えて行った。
二人の後ろ姿をしばらく呆然と眺めていた詩織は、ハッと気がついて腕時計を見た。
午後六時に十分前だった。
ホッと息を吐いた詩織は、早足で午後六時から個人練習の予約をしているスタジオに向かった。
すぐにスタジオがあるビルに着いた。
正面玄関を入ると、そこはエレベーターホールになっていて、その手前に二階に昇る階段があった。その階段で二階に上がると、透明なガラスの扉があり、そこには「ビートジャム」とポップな字で書かれていた。その扉を開けると、正面に受付カウンター、そして左に待合室があった。
待合室の白と黒の市松模様の床が無機質な雰囲気を醸し出していて、六つの小さなテーブルの周りに置かれた丸椅子に座っている二人の客も、まるでマネキンのように見えた。
詩織が受付カウンターに向かうと、カウンターの中に立っていた女性が顔を上げた。
「いらっしゃい、おシオちゃん!」
ビートジャムの自称看板娘のミミだ。
ピンクに髪を染めて、両耳だけではなく小鼻の左にも一つピアスをしている派手な格好の女の子だ。もちろん、本名も年齢も知らない。
ミミが言った「おシオちゃん」とは、ミミだけが呼んでくれる詩織のあだ名であった。
「元気ぃ~?」
「は、はい」
正直に言って、詩織は、ミミの弾けぶりについて行くのは苦手だった。
「今日も個人練習だっけ?」
「はい。六時から予約が入っているはずですけど?」
ビートジャムの営業時間は、朝八時から二十四時までだが、当日までにバンド練習の予約が入っていない時間帯が一時間単位でもあれば、通常一時間三千円の料金が掛かるスタジオに一時間五百円で個人練習に入ることができた。
詩織は、毎朝、ビートジャムに電話をすることが日課になっていた。
もっとも、ビートジャムに十二ある練習スタジオの全部がバンド練習で埋まっていることが多くて、毎日、個人練習の予約を入れることはできなかったが、それでも平均すると三日に一回は予約を取ることができた。
「う~んと、……入ってるよ! 第六スタジオ! 前のバンドが入ってるから入れ替えね」
「はい」
前金で五百円を払うと、カウンターの左にある待合室に向かう。
空いているテーブルに着くと、詩織はマスクをして、イヤホンを付けた。
自衛のためだ。女の子が一人でいると必ず声を掛けてくる輩がいる。イヤホンはそれを無視するため、そして、マスクはできるだけ顔を見られないようにするためだ。まさか、こんな場所にかつてのアイドルがいると考える人はいないだろうが、ファンだった人が見れば、ばれてしまう気がした。
ミミは、昔から洋楽が好きで日本の歌手は全然知らないと言っていた。実際、このスタジオのスタッフの中では、一番、詩織の顔を近くで見ているわけだが、まったく気づかれてない。
ビートジャムは、待合室から二方向に伸びている通路の一つにつき六つのスタジオ、合計十二の練習スタジオを擁していた。六時五分前になると、練習を終えてスタジオから出て来たバンドメンバー達がその通路を通って待合室に入って来た。それまで閑散としていた待合室が一気に騒がしくなった。
普通の学生ぽい人から、いかにも「バンドやってます」というように髪をカラフルに染めてアクセサリーをじゃらじゃらと鳴らしている人、見た目は楽器をやっているようには見えないおじさんまで、いろんな人が音楽という趣味を楽しみに、あるいは、それを仕事にしようと頑張っているのかもしれないが、「音を合わせる」ためにここに来ているのだ。
一人でいる詩織にいくつもの視線が集まっているのが分かった。ショートカットにキャップをかぶり、マスクもしているが体型的に女性だと分かってしまう。スタジオで女の子が一人でいる以上、避けられないだろうなと思っていたが、いまだに慣れない。
誰かに話し掛けられたらどうしようと思って緊張する。
「おシオちゃん、どうぞー!」
ミミが大きな声で言ってくれた。
詩織はミミに手を振ると、ギターを背負って、第一から第六スタジオがある通路に入った。
通路の両側に赤や青、緑など派手な色でペイントされたドアが並んでいて、通路の一番奥にある黄色のドアに「6」と書かれているドアの取っ手を持って、中に押した。
重い防音扉を開けて、スタジオの中に入る。
少し蒸せているような空気。今まで練習していたバンドの熱気の残滓だろう。
とりあえず、エアコンを最大出力にしてから、セッティングを始める。
もちろん、家でもギターの練習はできるし、実際、詩織は毎日練習をしていた。しかし、アコースティックギターでもその音量が気になるし、エレキギターなら尚更で、必ず、アンプにヘッドフォンを繋いで弾くしかなかった。それで十分練習にはなるが、やはり、実際にアンプで鳴らすことで、耳だけではなく、全身でギターの響きを感じることができるのだ。
エフェクターのセッティングも終わって、立ち上がった詩織は、アンプのボリュームを上げて、ギターをひと鳴りさせた。ディストーションを効かせた歪んだ音が振動となってスタジオに響き、詩織の体を震わせる。
好きなフレーズを弾いてみる。
ギターを弾けない人が見ると、どうして、そんなに速く指が動くのか不思議に思われる程度にはスムーズに指が動くようになっていた。もう手癖のようになっていて、いちいち運指を考えることなく指が勝手に動いた。
一時間の練習時間のうち、前半の三十分を有名な曲のギターソロのコピーに、もう三十分は自分が作った曲を歌いながら演奏をする練習に費やすことが最近の練習メニューとなっていた。二年間も個人練習を黙々と続けてきて、ギターソロの聴かせどころがある曲は、洋楽・邦楽を問わず、ほとんどコピーしていた。
高校を卒業したら、必ずバンドを組むと心に決めて、それを夢見て、ずっとギターの練習を一人でしてきたが、それを苦に思ったことはなかった。ギターを弾いている詩織の後ろには、まだ見ぬバンドメンバーがいた。激しくも正確なビートを刻むドラム、お腹に響く重低音と抜けの良い高音で体を揺さぶるベース、虹のように色とりどりな音色で曲を彩るキーボード。そのメンバーとともに練習をしている感覚でいつも臨んでいた。
ギターを本格的に練習するようになってから曲作りも始めて、既に十曲以上を作り上げていたが、自信を持って人に披露できそうなのは、まだ、二曲くらいだった。詩織は、そのうちの一曲を自らの脳内バンドの演奏に乗せて演奏しだした。
マイクを通じて聴く自分の声。普段、しゃべっている時とはまったく違って、図太い低音から良く伸びる高音まで自分の思い通りの声が出た。
母親の勧めでボイストレーニングを小学生の時から始めて、プロデビューしてもレッスンは欠かさなかった。その成果が今につながっていると思うと、その点だけは母親に感謝をするしかなかった。
昔は、プロデューサーの要望で少し甘えたような声を出していた。もちろん、その声を望んでいたのはプロデューサーではなく、ファンの男性達だ。その頃は、人前で歌えることが単純に楽しくて、そしてその歌い方で観客が喜んでくれることが純粋に嬉しくて、何も疑問に思うことはなかった。
しかし、今、過去の曲を聴く気にもならなかったし、むしろ聴きたくなかった。
フェイク――偽物の感情。作られた可愛さ。
すべてを壊したかった。ギターをかき鳴らし自分の歌をシャウトすることで壊すことができるような気がして夢中で演奏をしていると、時間があっという間に経った。
スタジオの明かりが一瞬だけ消えて、すぐに点いた。
演奏に夢中になって終了時間を忘れているスタジオ利用者も多いことから、ビートジャムでは終了時間五分前になると、スタッフがスタジオの明かりを一瞬だけ消して、利用者に終了時間を知らせるシステムになっていた。
詩織もすぐに演奏を中断して、帰り支度を始めた。
「お疲れ様でーす!」
スタジオの男性スタッフが、次の利用者のための準備をするために、スタジオに入って来た。
「お疲れ様です」
キャップを深くかぶり直し、できるだけ目を合わさないようにして、詩織は軽く頭を下げた。
詩織は、ソフトギターケースを背負い、エフェクターケースを持つと、スタッフが開けてくれたドアから通路に出た。
そして、待合室に戻ろうとした時、隣の第四スタジオのドアが内側に開いた。
そこから出て来るであろう人を先に通してあげようと立ち止まった詩織の目の前に、男性が一人転がり出てきた。
通路に尻餅を着いた男性は、第四スタジオの入口を睨んだ。
そこには、長い黒髪の一部を赤くメッシュに染めている背の高い女性が仁王立ちしていた。