Act.050:まじないの真意
唇への突然の感覚。
驚いた奏が目を開けると、椎名の顔がすぐそこにあった。
目を開けた椎名と目が合うと、椎名はゆっくりと顔を離した。
「どうですか、このおまじないは?」
奏にそう呟いた椎名の表情は、したり顔でも、はにかんだ顔でもなく、撮影をしている時の真剣な表情のままであった。すぐ近くで見るその顔は、確かに、奏好みのイケメンだったが、何の断りもなくキスをする神経が理解できなかった。
もちろん、奏もキスは初めてではない。しかし、人が見ている前でキスされたのは初めてだった。
ふと、詩織達が視界に入って来た。みんな、唖然とした顔をしていた。
「な、何てことを!」
俄然、恥ずかしくなった奏は、反射的に椎名に手を上げた。
しかし、椎名の頬を打とうとした奏の腕は、椎名に掴まれてしまい、その目的を達することはできなかった。
「事前に言いましたよ。おまじないをすると」
「キスだなんて聞いてません!」
「椎名さん! どういうことなのか、説明してください!」
詩織も憤慨した様子で椎名に詰め寄った。自分が連れて来た椎名が奏に乱暴をしてしまって、責任感が強い詩織は怒らずにいられないのだろう。
「何度も言わすな。俺が、というか、カメラが気にならなくなるおまじないだと言っただろ」
「だけど、いきなりキスをするって酷いですよ!」
「ちょっと、待って!」
椎名に食って掛かろうとした詩織を、玲音が大きな声で止めた。
「とりあえず、PV撮影を再開しよう」
「玲音さん! 今はそれどころじゃなくて」
「おシオちゃん! このスタジオだって、借りていられる時間は決まってるんだぜ。とりあえず、今はPV撮影に全力をあげよう。椎名さん、準備をお願いします」
「分かりました」
椎名は何事もなかったかのように、カメラの準備を始めた。
「奏もおシオちゃんも、いろいろと言いたいことはあるだろうけど、とりあえず、協力してよ」
玲音が珍しく奏と詩織に頭を下げた。
その玲音の態度に、奏は何か引っ掛かったが、スタジオを借りていられる時間が有限なのは玲音の言うとおりで、椎名への文句も撮影が終わってから言えば良いのだから、ここは玲音の言葉に従うことにした。
「分かったわ。詩織ちゃんもやろう」
「奏さん、大丈夫なんですか?」
「うん、平気」
本当は、まだ、心の中で変な気持ちが渦巻いていて、かえって、PV撮影に集中できないのではないかと思ったが、詩織にも心配を掛けたくないという気持ちもあって、精一杯の笑顔を見せた。
詩織は、椎名を睨みつけてから、マイクスタンドの前に立った。そうやって、自分のことに本気で怒ってくれている詩織のことが愛らしかった。
一方で、いつも自分に絡んでくる玲音が、今は何も言ってくれないことが不思議だった。
玲音の性格からいって、詩織以上に椎名に食って掛かるはずなのに、達観しているかのような雰囲気すら漂わせていた。以前は、かつてのヒモ男に復讐まがいのことをしてまで、奏の気持ちを晴らしてくれたのにだ。
「じゃあ、やろうぜ」
玲音が冷静に告げた。
奏は、手に持ったカメラで自分の手元を撮っている椎名を見た。
椎名は、カメラの画面に集中していて、奏のことは、これっぽっちも気にしているようではなかった。そんな椎名の姿を見て、次第に、奏の中に椎名への怒りが湧いてきた。
あれがおまじないですって?
自分がイケメンだからって、気があるようなそぶりを見せていた私をからかっただけじゃないの?
もし、そうだとすると、何て性格の悪い奴!
そう思うと、奏の中から椎名への興味がなくなった。すると途端に、すぐ近くにいる椎名のことも気にならなくなった。
CD音源が流れ始めて、奏は「音が出ない」キーボードの演奏を始めた。
曲が終わった。
玲音が厳しい顔を詩織に向けた。
「おシオちゃん! 集中できてないぜ」
「だって、今、あんなことが」
「どんなことがあっても、ステージにいるときは、常にベストを尽くすべきじゃないのかい?」
「そ、それはそうですけど」
「なら、集中しようぜ。それと」
玲音が奏を見た。
「今度は、奏、良い感じだったぜ」
玲音が、詩織に対するのとは打って変わって、いつもの親しげな笑顔を奏に向けた。
「そ、そう?」
「ああ、その調子で行こうぜ」
玲音が詩織に近づき、その頭をポンポンと優しく叩いた。
「おシオちゃんも、いつものおシオちゃんでいようぜ」
玲音のその言葉に、詩織は、ぽかんとした顔で玲音を見つめていたが、何かを吹っ切ったように、大きくうなずいて、「はい!」と答えた。
「じゃあ、もう一回やろう! 椎名さん、お願いします」
「分かりました」
椎名が、また、奏の近くにスタンバイした。
「ちょっと、見てみますか?」
曲が終わった後、固定カメラの映像を確認していた椎名が、この日初めて、撮った映像を見てみるかと提案してきた。
「見てみよう!」
玲音がベースギターをスタンドに掛けながら、椎名の近くに寄った。
詩織と琉歌、そして奏も近寄ると、固定カメラを三脚から取りはずした椎名が、そのカメラの再生ボタンを押してから、それを詩織に渡した。
詩織を取り囲むようにして、メンバーがカメラの再生画面を見つめた。
後でCD音源を重ねるために、今は音が入っていない状態だが、実際に演奏をしているように思えた。
奏は自分の姿をじっと見つめた。
これまで、演奏をしている姿をビデオに撮られる経験などほとんどなくて、目の前の映像が少し照れくさかったが、カメラを意識することもなく、知らない間に演奏の様子を盗撮されていたかのような、自然な演奏風景であった。詩織も、玲音も、琉歌も、奏がいつもスタジオで見ている表情だった。
「うん! 良いんじゃないすか? どうよ、みんな?」
「良い……と思います」
興奮した様子の玲音に、詩織が少し戸惑ったように答えた。琉歌も「うんうん」とうなずいた。
「奏は?」
奏を見る玲音は笑顔だった。まるで、奏の答えが分かっているようだった。
「ええ、私も良いかな」
全員の意見が一致した四人は、目の前の椎名に視線を移した。
「俺もこれは今までのベストかなと思います。でも、まだ、時間、ありますよね?」
「あと三十分はありますよ。まだ、撮ってもらって良いですか?」
「ええ、もちろんですよ」
椎名の口調はいつもどおり冷静だったが、まだ、撮り足りないという気持ちが隠れていなかった。
スタジオを予約していた午後十一時まで、目一杯、撮影をしてから、奏達はビートジャムを出た。
椎名の「おまじない」の後、自分達でも納得できる映像が撮れるようになり、椎名を糾弾しようという雰囲気も消えてしまっていて、メンバーはそのまま奏屋に寄ることになった。
一方、椎名は、これから早速、編集作業をするからと、先に帰って行った。
奏屋にたどり着き、詩織以外のメンバーが缶チューハイを開けると、早速、奏は「ねえ、玲音」と、隣に座る玲音を呼んだ。
「椎名さんのおまじないのことだけどさ。あの時、玲音は冷静だったじゃない? 何か分かってたの?」
「何となくだけどね。椎名さんがキスした後の奏は、いつもの奏に戻った気がしたんだ」
「いつもの私?」
「ああ、それまで、椎名さんを前にして、奏、けっこう、猫、かぶってただろ?」
「そ、そんなことはないわよ! 確かに、カメラは意識していたけど、椎名さん自身が気になっていた訳じゃないから!」
奏がムキになって反論した。
しかし、もし、カメラを持っていた人が椎名ではなく、好みではない男性だったら、同じように緊張していただろうか?
「まあ、奏が気になっていたのが、椎名さん自身なのか、それとも椎名さんが持っていたカメラなのかは置いといて、椎名さんにキスされた後、椎名さんもカメラも気にならなくなったのは確かだろ?」
「それはそうね。いきなりキスされて、最初はびっくりしたけど、次第に腹が立ってきて、……まあ、最初に会った時から、椎名さんはイケメンだなとは思っていたけど、もう、どうでも良くなったってことはあるかも」
「もしかして、椎名さんは、わざと奏さんを怒らせたんでしょうか?」
詩織の疑問は全員が感じていたようで、玲音が「そうな気がするよな」というと、詩織と琉歌は納得したようにうなずいた。
「でもさ、玲音。私がもっと軽い女で、椎名さんにキスされて、ますます、椎名さんのことが気になって、逆に、撮影に集中できなくなるって可能性もあった訳じゃない?」
「奏が軽いのは体重だけだって、椎名さんも分かってたんじゃね?」
「今、ボケなくて良いから」
「全部、ボケって訳じゃないだけどな。少なくとも一時間以上、ずっと同じ空間にいて、椎名さんだって、奏がどんな人かくらいは分かったんじゃないのかな」
「そうなのかなあ?」
「まあ、ここでいろいろと推測しても埒があかないよ。今度、椎名さんに直に訊いてみれば良いじゃん」
「誰が?」
「とりあえず、おシオちゃんが、明日、会う訳だし、おシオちゃんが訊いてみる?」
「はい。私も椎名さんの考えを訊きたいなって思っているので、絶対、訊きます」
詩織は、まだ、少し憤慨しているようであったが、当の奏には、不思議と、椎名に対する怒りは残っていなかった。




