Act.001:お嬢様な学園生活とロックな放課後
詩織が乗った女性専用車両を最後尾に連結した電車が池袋駅に着いた。
ドアが開くと同時に、多くの乗客がホームに掃き出された。
詩織は、人の流れに逆らわないようにして改札を抜けると、ビルが建ち並ぶ通りを学校に向かって歩き出した。
春の優しい風が膝丈の黒いプリーツスカートをはためかせる。
襟も白いセーラー服の左腕には真新しいワッペンが貼り付けられていた。校章をかたどったそのワッペンには「ⅢB」と描かれている。今日から新学年が始まり、詩織は三年B組へと進級していた。
詩織が高校から編入した私立アルテミス女学院は、幼稚園から大学まである、この辺りでは屈指のお嬢様学校だ。
しかし、詩織の父親は、会社を経営している訳でも、親から莫大な遺産を相続した訳でもなく、普通のサラリーマンだった。
もっとも上場企業の会社員で、今は九州に一人で赴任しているが、一人娘である詩織の他に子供もいないことから、高額な入学金や授業料もそれほど負担ではないようだ。
そして、詩織がこの学校を選んだのは、父親の知り合いが教頭を務めていて、「もしも」の時に対応することを約束してくれたこと、そして何よりも、お嬢様方はテレビをかぶりつきで見ることが少ないというイメージがあり、昔の詩織のことに気づく人が少ないと思ったからだ。
学校が近づいて来ると、同じ制服を着た女子高生が多くなってきた。そこには髪を染めている生徒も、校則違反の制服を着ている生徒もいなかった。
「ごきげんよう、桐野さん」
声の主は、黒髪ロングが清楚さを感じさせる同級生の相良優花だった。
「ごきげんよう、相良さん」
中学時代は、二十四時間いつでも「おはようございます」と言っていた詩織は、「ごきげんよう」という挨拶に最初は戸惑ったが、二年も経って、自然と口に出るようになっていた。
それに考えてみると、「すごく良い言葉だなあ」と思うようになっていた。
朝、機嫌があまり良くなくても、「ご機嫌はいかがですか? もし良くなくても、今日、一緒に良くなりましょうね」と言われているみたいで、優しい気持ちで前向きになれる言葉だと思った。
一緒に歩き出した優花とは、優花が所属している吹奏楽部で演奏されているクラシック音楽の話をしながら学校まで歩いた。
ロックが好きな詩織にとって、クラシックは好きなジャンルではなかったが、自分で作曲もしている詩織は、クラシックに関する知識も十分に持っており、優花との話も普通にすることができた。
五分も歩くと、私立アルテミス女学院の洒落た煉瓦造りの校舎が見えてきた。都心のど真ん中でビルに囲まれてはいるが、広い敷地に植えられた木々が森のような一角を形作っている。
校舎は普通教室がある南校舎と、音楽室や理科実験室などの特殊教室やクラブの部室がある北校舎の二つが並んで建っていた。
優花と並んで校門を入った詩織は、南校舎三階にある三年B組の教室に入って行った。
お昼休み。
詩織は、教室の机を寄せ集めて、いつもの四人のグループでお弁当を食べた。
朝も一緒に来た相良優花は、中小企業ではあるが経営者の娘で、冷静な秀才タイプの女の子だ。
黒髪セミロングの広沢美千代は、家が何代も続く和菓子店をやっている、おっとりとした、いかにもお嬢様という言葉がぴったりの女の子で書道部に所属している。
黒髪をポニーテールにしている幸崎珠恵は、両親とも公務員で、テニス部に所属する元気な女の子だ。
他愛のない話をしながら時間は過ぎていく。
詩織にとっては幸いなことに、三年間、クラス替えがなく、一年の時から、この四人で仲良しグループを作っていた。
最初は退屈な時間だったが、今はもう慣れていた。おしゃべりを心から楽しんでいる訳ではない。かと言って、この四人の話の輪の中にいることが苦痛という訳でもなかった。
もっとも、中学時代に刷り込まれた「嬉しくなくても常に笑顔」という習性ができていて、ひょっとしたら、自分でも意識することなく演技をしているのかもしれなかった。
「相良さんは、ゴールデンウィークはどこかに出掛けられるのですか?」
「今年は久しぶりに海外に行こうかと父親が話しています。母親もその気になっているようですわ」
「良いですわね、海外! うちでは父親が飛行機嫌いなものですから箱根です」
「でも、毎年、行かれているのでしょう?」
「ええ、いつも来年の予約をして帰るのです」
この四人の中では、詩織は口数少ない大人しい女の子であった。基本的に自分からは話し掛けず、ニコニコと微笑みながら、三人の会話を聞いているというポジションを頑なに守っていた。
「桐野さんはどこかに行かれる予定があるのですか?」
「いえ、父親が赴任先から帰って来るくらいです」
これは事実であった。
二年前に福岡の支店に転勤した父親は、毎年、ゴールデンウィークやお盆休み、そして正月休みには、詩織の元に帰って来ていた。
「うちも家でゆっくりしたいですわ」
彼女達の言葉が皮肉に聞こえないのは、リアルお嬢様ならではであろう。
夕方のホールルームが終わると、部活をしていない詩織は帰路に着いた。
朝と同じコースを通って、家に帰り着く。
池袋駅から三駅目の江木田駅。都内とはいえ周りには住宅街が広がる小さな駅だ。
その駅から歩いて五分の所にある十二階建てマンションが詩織の家だ。
と言うより、家族とともに暮らしていた家で、母親が出て行って、父親が転勤になってからは、詩織が一人で住んでいる。
エレベーターで最上階に上がり、その端っこの部屋に入った詩織は、広いのに一足も靴が置かれていない玄関でローファーを脱いだ。
玄関から延びている廊下にはバスルームとトイレの他に二つの扉があったが、詩織は、廊下の突き当たりにあるリビングの扉を開いた。
「ただいま」
詩織の言葉に反応したように、ハムスターのペンタが回し車を高速で回転させる音がしだした。詩織に「おかえり」と言ってくれているようであった。
詩織がゲージに近づき、中をのぞき込むと、ペンタが回し車から降りて、詩織の前まで来て、そのつぶらな瞳で詩織の顔を見つめた。
「ただいま、ペンタ」
詩織は、ペンタがうなずいてくれた気がした。
一人暮らしを始めて、あまりの寂しさに同居人になってもらってから、そろそろ二年になる。ハムスターの寿命は二、三年と言われているから、着実に別れの時が近づいて来ているのだが、詩織はそんなことは考えたくなかった。
ゲージの格子から少し突き出したペンタの鼻先を指でつんつんとしてから、詩織はリビングから出て、廊下を少し戻り、自分の部屋のドアを開けた。
この家で生活感があるのはリビングと自分の部屋だけで、もう一つの部屋は、父親が帰って来た時の寝床となるだけの部屋であった。
詩織は、ドレッサーの前に座って、眼鏡をはずした。
伊達眼鏡ではなく若干の度が入っていたが、眼鏡をはずしていても普段の生活にはまったく困らなかった。
詩織は、この眼鏡のオンオフで自分の切り替えをしていた。眼鏡を掛けている時は、お嬢様学校に通う目立たない女子高生。そして、眼鏡をはずした時は――。
髪を少しブラッシングした後、詩織はセーラー服を脱ぎ、部屋の奥にあるクローゼットを開いた。
今日、詩織が選んだ服は、ロールアップしたチノパンと、英語で「BOY」と大きく胸に描かれたライトグレーのパーカー、そして、チェック柄のワンサイズオーバーのネルシャツをジャケット代わりに羽織った。
高校に入ってからスカートは買っていない。最近はパンツルックがお気に入りだ。自分でこだわっていたわけではなかったが、パンツルックを禁止されていた中学時代への反発のような気がした。
姿見で全身のバランスをチェックしてから、再びドレッサーの前に座る。
薄くリップを塗るだけの簡単なメイクをして、八分音符の形をしたピアス風イヤリングを付けた。本当はピアスをしたかったのだが、学校に行っている間は無理だ。
あれから二年以上経って、自分では顔が大人びてきていると感じていた。テレビに出まくっていた頃の桜井瑞希のイメージがこびりついている人ほど、同一人だと分かりにくいだろう。
立ち上がった詩織は、ギタースタンドに立てていた愛用のギターを持った。
フェンダーストラトキャスター。
白いピックガードに木目を生かしたチェリーサンバーストカラーのボディは、詩織のお気に入りだ。
ソフトギターケースにストラップとラインを入れ、それを背負う。身長百五十六センチとそれほど高くはない詩織は、ギターケースを背負うと余計に低く見えた。
メジャーリーグのマークが入ったキャップを目深にかぶり、黒のコンバースを履いて、アタッシュケースのような形のエフェクターケースを提げて、外に出た。遠目に見ると、小柄な中学生くらいの男の子に見えるだろう。
時間は午後五時過ぎ。少し暗くなってきている道を、会社帰りのサラリーマン達とすれ違いながら江木田駅まで戻った。
そして、また、電車に乗り、池袋駅に戻った。
池袋駅周辺は都内有数の繁華街だけに、バンドの練習スタジオも多くある。家に帰らずに行けると楽なのだが、ギターを持って、学校に行くわけにいかなかったし、通学定期の範囲内で電車賃の心配もいらなかったから、少々、面倒でも、一旦、家に帰り着替えてから、スタジオに行くようにしていた。
駅を降りて、学校がある方とは逆の出口から出て、ネオンが煌めく繁華街を歩く。
――早く、バンドをしたい!
詩織は、再び、わき上がってきたその欲望を押し止めることができなかった。
自分がライブをしている映像が頭の中で上映されていて、周りがよく見えてなかったのだろう。気がついた時、すぐ前に男性がこちらに向かって来ていた。詩織は、すぐに体を横にずらしたが、詩織の肩と男性の腕がぶつかった勢いで、詩織とその男性は、体を開くようにして向き合ってしまった。
「ごめんなさい!」
詩織がすぐにその男性に頭を下げた。
「こちらこそすみません」
顔を上げた詩織を金髪の男性が見ていた。
と思ったが、その男性の視線は詩織の瞳を見つめておらず、まるで迷子のように詩織の目の周辺を彷徨っていた。
その男性が目の悪い人だと分かった詩織は、罪悪感に苛まれた。




