Act.044:リアルとヴァーチャルの狭間で
詩織が瞳の家を訪れていた同じ日。
六月初旬の穏やかな晴天の日曜日。
秋葉原のとある会場で、この秋に大規模アップデートが予定されているネットゲーム「イルヤード」の「拡大オフ会」と称するファン感謝イベントが運営会社の主催で行われていた。
キャスケットを深くかぶり、背中には小さなリュックを背負い、長袖Tシャツの上に半袖Tシャツを重ね着して、いつものオーバーオールジーンズを履いた琉歌は、一人で会場を回っていた。
所属する戦闘集団「夕暮れ猫まんま」、略称「猫まん」の仲間から一緒に参加しないかと誘われていたが、バンドの予定がどうなるか分からなかったこともあって、「参加しない」と答えていた。もっともバンドのことを抜きにしても、実社会での人付き合いが苦手な琉歌は、人と一緒に出掛けることはできなかっただろう。
姉は別として、今のバンドのメンバーである詩織とは、自分でも驚くほど親しくなれた。スタジオで偶然出会った詩織に、珍しく琉歌の方から声を掛けた。それは、ずっと探していた女性ギタリストだったという事情もあるが、詩織から発せられている「人を惹き付ける魅力」のようなオーラが、琉歌に初対面の人に声を掛けさせる勇気をくれたような気がしていた。
後から、詩織が元人気アイドルだったことを知って、そのオーラの正体は分かったが、それからも自然と詩織と仲良くなれたのは、詩織の真面目で一生懸命な性格に、姉と通じるところを見つけたからかもしれない。
その姉は、最近は同じメンバーの奏を気に入っているみたいだ。大好きな姉を取られたみたいで、たまに奏に嫉妬することもあるが、奏と絡んで楽しそうな姉を見ていると、自分まで楽しくなってきて、そういう意味で、奏も大切な友人だと言えた。
しかし、詩織と奏以外の人、特に男性に対して、琉歌はまだ、まともに話をすることができなかった。
イルヤードのアバター「ルカ」は、高いレベルとスキルで、「猫まん」の実力ナンバーワン剣士であり、面白いことが言える人気者だったが、それは、相手の顔を見ないで「話」ができるからだろう。
さすが、アカウント登録人数二百万人と言われる大人気ゲームのイベントだけあって、会場は、多くの人で混雑していた。
広い会場のあちこちには、アップデート内容を説明する映像が流されていて、体験できるコーナーには長い行列ができていた。
また、開発・運営会社の担当者による「今後のゲーム展開」と題する説明会、戦闘集団対抗決闘大会やビンゴゲームなどのイベントも予定されていた。
琉歌は、午後二時から「猫まん」の仲間が出場すると聞いていた「サーバ別・戦闘集団対抗決闘大会」のコーナーに行ってみた。
向かい合った長机の上に、五台ずつのデスクトップパソコンが相対するように並べられていて、観客席の正面には、プロジェクターが、その決闘の様子を大きなスクリーンに映し出していた。
ステージでは、ちょうど、「猫まん」のメンバー五人が出場していた。もちろん、その人達の顔を知っている訳ではなく、スクリーンに「夕暮れ猫まんま」という戦闘集団名が表示されていたから分かったのだ。
画面に映し出されているアバターを見る限り、「猫まん」における実力者を集めているようで、琉歌も知っているアバターさんばかりだった。
てっきり女性だと思っていたアバターの中の人が、少しむさ苦しい男性だったことに軽いショックを受けながらも、琉歌は心の中で「猫まん」メンバーの応援をした。
琉歌の応援が通じたのか、「猫まん」チームは順調に勝ち進んだが、決勝戦で、同じサーバー内でも強豪と噂の戦闘集団「一年干しサバ帝国」のチームに敗れ、準優勝となった。きっと、今晩のチャットではこの話題で盛り上がるだろうし、来年は「ルカ」に出場してもらいたいとお願いをされるかもしれない。
ステージから降りてくるメンバーに、心の中で、ねぎらいの言葉を掛けてから、琉歌は、自身も興味がある新機能体験コーナーに行ってみた。
そこには、いくつかの長テーブルの上にパソコンが置かれ、そのパソコン一台に一人、背広を着た運営会社の担当者と思われる男性が付いて、実際にゲームを体験している観客に説明をしていた。そして、説明を受けている観客の後ろにも多くの観客が群がって、パソコンの画面に注目していた。
その観客のほとんどは男性で、その中に入り込む勇気がなかった琉歌は、その更に後ろから、背伸びをしたり、人と人の間からのぞき見たりしていた。
しかし、そこそこ名の知れた女性アイドルも参加してのトークショーが開かれるとアナウンスされると、来場者の多くがその会場に移動して行き、ちょうど、琉歌が見ていた新機能体験コーナーも一気に人が減った。
自分の周りの人が一斉にいなくなったことで、パソコンの画面を見ていた琉歌は、そのパソコンの近くに立っていた、背広を着た男性と目が合ってしまった。
身長百六十センチの琉歌より少しだけ高い身長で、男性としては小柄で童顔なその男性は、丸い縁無しフレームの眼鏡を掛けていて、見るからに人の良さそうな雰囲気だった。
背広の胸には運営会社「イルヤード・ジャパン」のロゴが入った名札を付けていて、その名札には「楢崎」と書かれていたが、琉歌は「楢」の字の読み方が分からなかった。
「遊んでみませんか?」
その社員は、愛嬌のある笑顔を見せて、琉歌にパソコンの前に座るように誘った。
「ア、アカウントを持ってないので~」
話し掛けられるとは思っていなかった琉歌が焦って嘘を吐いた。
「大丈夫ですよ。仮アカウントで遊べます。いかがですか?」
その男性の穏やかで人なつっこい笑顔は、琉歌の警戒心のレベルを下げてくれた。何よりも、自分が大好きなゲームの話だ。好奇心が更に警戒心を下げた。
そして、何より、琉歌はその顔に見覚えがあった。
もちろん、目の前の男性とは初対面のはずで、憶えているということではなく、「似ている」だけだ。
辛い想い出がフラッシュバックしてくるかと思ったが、意外と冷静な自分に、琉歌自身が驚いた。
琉歌は左右を見渡してみたが、今までの混雑が嘘のように、琉歌の周りには誰もいなかった。
「じゃ、じゃあ、ちょっとだけ~」
琉歌の返事を聞いた、その社員は、パソコンの前に座ると、キーボードを素早く操作して、アバターを画面に出した。それから立ち上がった社員は、自分が座っていた椅子を琉歌に勧めた。
「どうぞ! 体験用のアカウントですから、好き勝手操作してもらって良いですよ」
琉歌がその椅子に座ると、社員がすぐ隣に立ち、パソコンの画面を指差した。
「では、イルヤードの説明からさせていただきます」
琉歌がアカウントを持っていないと言ったことから、最初から説明しようとする社員に、琉歌は「すみません~」と言って、説明を止めた。
「友達が遊んでいるのを見ているので~、だいたいは分かってますぅ~」
「そうですか。申し訳ありません」
「い、いえ、こちらこそ、ごめんなさいですぅ~」
社員の腰の低い態度に、自分の方が恐縮してしまい、琉歌は頭を下げた。
「いえいえ、とんでもないです。では、新機能の説明からでよろしいですか?」
無言でうなずいた琉歌に、社員が新機能の説明を始めた。
その社員の説明はすごく分かりやすく、また、その優しげな雰囲気から、琉歌も疑問に思ったことを何度か質問をすることができた。
初対面の人と、しかも男性とこうやって話をしたことは、高校を中退した時以来だ。
一時は、ずっとネットに引き籠もっていたが、姉が救い出してくれて、そして今、詩織と出会い、それまで停滞していたバンド活動が、すごい勢いで前に向いて動き出したことも関係しているのかもしれない。
「他に何か質問はございませんか?」
「あ、あの、もう一つだけ訊きたいことがあるんですけどぉ~」
「何でしょう?」
「その名札の字は何と読むんですか~?」
「はい?」
社員は顔を下げて、自分の名札を見ると、琉歌の疑問がすぐに分かったようで、微笑みながら「『ならざき』と読みます」と答えた。
「ならざきさんですか~。すみません~。その字が読めませんでした~」
「いえいえ、私の方こそ、読めない漢字を使っていて申し訳ありません」
「ボクの頭が悪いからですよぅ~」
「ボク?」
楢崎は、困ったような顔をして、琉歌の全身を見渡した。
「あ、あの、女性の方だと思っていたのですが、もしかして男性の方ですか?」
楢崎を困らせてしまって申し訳ないと、琉歌も両手を振りながら、「一応、女ですぅ~」と答えた。
「で、ですよね。可愛い方だと思っていたのに、男性だったら禁断の恋に陥ってしまうって思ってしまって」
そう言ってから、楢崎は、ハッと何かに気づいたように、琉歌に深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません! いきなり馴れ馴れしい口をきいてしまって」
「全然、気にしてないですぅ~」
琉歌は、そう答えながらも、「可愛い方だと思っていた」と言われたことに、少し動揺していた。
二人は、お互いの顔を、少しの間、見つめ合ってしまった。琉歌は、照れてしまい、楢崎から視線をそらしながら、「楢崎さんの説明が分かりやすくて、よく分かりました~。ありがとうございました~」と、とりあえず、ここから立ち去る流れにもっていった。
「そう言っていただくと私も嬉しいです。ありがとうございました」
「どうも~」
琉歌が踵を返して離れようとすると、「あの」と楢崎が声を掛けてきた。
自分では、それを待っていた訳ではないと思っていたのに、思いの外、素早く、琉歌は楢崎の方に向き直った。
「ぜひ、イルヤードで遊んでみてください! 私も、今、遊んでいるアルガルド・サーバーなら、すぐに入れるはずです」
アルガルド・サーバーは、琉歌が遊んでいるサーバーだった。
「楢崎さんは、何というアバターなんですか~?」
「名前から取った『ナラン』という魔術師をしています。もし、アスガルド・サーバーに登録をしたら、探してみてください」
「それは、社員さんだからプレイしているんですか~?」
「いえ、社員としての義務ではなく、私は、イルヤードが本当に好きなんです。ナランだって、学生時代から、すっとプレイしているアバターで、私はイルヤードが好きすぎて、今の会社に入ったくらいですから!」
楢崎の話しぶりから、社命でしぶしぶ仕事をこなしているようではなく、本当にイルヤードが好きで、その仲間を増やしたいという熱意が感じられた。
「イルヤード、やってみます~」
「ええ! ぜひ!」
楢崎の愛嬌のある笑顔に会釈をして、琉歌は踵を返した。
少し離れてから立ち止まった。自分をまた呼び止めてくれるのだろうかと期待をしていた自分に気づいた。
振り向いて、楢崎を見ると、楢崎は既に別の客に説明を始めていた。
楢崎とは、イルヤードのことで、もっといろいろと話をしてみたくなった琉歌は、今夜、早速、「ナラン」という魔術師を探してみようと思った。




