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Act.043:存在意義

「い、いえ、私の方こそ、よろしくお願いします」

 年上のひびきから丁寧にお辞儀をされて、詩織しおりは慌てて頭を下げた。

「でも、桐野きりのさん。いきなり、ひとみから絡まれるようになって、びっくりしたのではないですか?」

「正直に言って、それはあります。どうして、私なんだろうって思ってます」

「瞳は、きっと、友達が欲しかったんだと思います」

 先ほど、瞳は詩織のことを「初めて家に来てくれた友達」と言った。詩織は、その時、瞳には訊けなかった疑問を、響に投げ掛けた。

「でも、瞳さんは学校でも人気者ですし、友達も大勢いらっしゃると思いますけど?」

「瞳は言っています。桜小路さくらこうじなんて名字は珍しいから、自分が桜小路響の関係者だと、すぐにばれると。そして、自分に近寄って来るのは、自分が桜小路響の妹だからで、桜小路瞳に近づいて来ているのではないのだと」

「そ、そんなことはないと思います! 体育祭の時も、ぐいぐいと、みんなを引っ張っていました。瞳さんには、それだけの実行力と魅力があると思います」

「僕もそう思います。でも、瞳はそう思っていないのです」

 瞳の態度や言動は自信に満ちあふれていたが、それも桜小路響という大樹に寄り掛かっていられるからなのだろうか?

「瞳は、僕の妹としてしか、自分の存在意義を見いだせないのです。桐野さんが言っていただいたように、瞳自身には素晴らしい魅力があると思います。でも、瞳は、その自分の魅力を認めることができないんです」

「そ、それは、どうしてなんでしょう?」

「僕と瞳は六歳も離れているんですけど、僕は中学校の頃も虐めに遭っていて、その姿を小学生だった瞳も見ていました。瞳は、その頃、僕みたいな兄なんていらないと言っていましたよ」

「……」

「瞳自身も僕のせいで虐められていたらしいんです。外人の妹とか、お前は髪を黒く染めているのか、とか」

「そ、そんな」

「瞳は、僕と違って勝ち気な性格ですから、そんな同級生達にも言い返していました。あいつは私のお兄ちゃんじゃないって」

「……」

「でも、そんな瞳が変わったのは、僕が高校生になって、その時の恩師の助言もあり、将来は小説家になろうと努力を始めた頃からなんです。僕は、その頃には次第に目も見えなくなっていたので、原稿用紙に顔をくっつけるようにして、とにかく、がむしゃらに書きました。そんな僕の姿を見ていたからか、瞳も次第に打ち解けてくれて、小説を書く手伝い、つまり、文字起こしや朗読推敲の手伝いをしてくれるようになりました。僕が大学生の時に、そんな作品の一つが賞をもらった時には、僕以上に瞳が喜んでいましたよ」

兄妹きょうだいの共同作業で掴んだ賞だったのですね」

「ええ、本当にそうなんです」

 響が少し誇らしげな顔をした。

「しかし、僕が小説家としてデビューして、作品がいろいろと注目されるようになると、今まで瞳をさんざん虐めていた同級生達もコロリと態度を変えたらしいんですよ。その時以来、瞳は『桜小路響の妹』になってしまったんです」

 虐められているという状況を自分では覆すことができなかったのに、兄が売れっ子小説家になった途端にその状況は消え去ってしまった。瞳は、嫌というほど自分の非力さを思い知らされたのではないだろうか?

 そして、一方で、兄の側にいる限り、自分が再び虐められることはない、むしろ、桜小路響の妹だと持ち上げてくれる。そんな瞳が兄にべったりになることは誰も責めることはできないだろう。だからこそ、瞳は、学校でも、自ら桜小路先響の妹だと積極にアピールしているのかもしれない。そうすることで、瞳は自身の存在意義を確かめることができるのだ。

「そんな瞳から、友達を家に呼びたいと言われた時、驚きもしましたが、僕もすごく嬉しかったのです。そして、瞳に訊きました。その友達のどこが好きになったのかって」

「……」

「瞳は、こう答えました。僕に会わせてあげると言って断られたのは初めてだったけど、その後も、瞳のことを毛嫌いすることなく、普通に話してくれた桐野さんに興味が湧いたと」

 体育祭のリハーサルの時、確かにそんなやりとりはあった。

「その時に思ったそうです。この人は、桜小路響の妹としてではなく、桜小路瞳の相手をちゃんとしてくれる人なんだなって」

「瞳さんがそんなことを?」

「ええ」

 響が、まるで詩織の顔が見えているかのように、詩織の目を真正面から見つめた。

「桐野さん、お願いです。瞳を『桜小路響の妹』という呪縛から解き放つために協力していただけませんか?」

「協力……ですか?」

「はい。先ほどのお話の中でも、桐野さんは瞳の魅力を分かっていただいていた。そんな桐野さんとおつきあいをさせていただいていると、瞳は自分自身にもっと自信が持てると思うのです」

「……」

「瞳が、少し強引な言動をするのは、自分に自信がないことの裏返しなんです。それを気づかれたくないから、無理してでも自分を強く見せているんです。でも、桐野さんの前では、瞳はそんな強がりを見せる必要もなくなると思います。すごく身勝手なお願いだとは思いますが、これからも桐野さんとおつきあいをさせてください」

「桜小路先生」

 詩織の声が少し低くなっていることに響も気づいたようだ。

「先ほど協力とおっしゃいましたけど、そういうお願いであれば、私はお断りいたします」

「……」

「でも、瞳さんは同じ学校の生徒です。そして、自分の意見をはっきりと述べる素敵な女性だと思っています。そんな瞳さんとは、桜小路先生からお願いなどされなくても、これからも友人として、おつきあいをさせていただきます」

「桐野さん……。いや、瞳が言ったとおりだ。あなたは本当に変わった方ですね。何と言うか、真面目で真っ直ぐで、邪な心をまったく持っていないように感じます。そして、それがとても魅力的です」

「そんなこと、ありません! 邪だらけです!」

 詩織が焦って言うと、響は、思わず見とれてしまうような笑顔を詩織に見せた。

「桐野さん、僕も、あなたの声だけではなく、あなたという人にかなり興味が湧きました。ぜひ、また、話をさせてください」

「あ、あの、時間が合えば」

「そうですね。そのためには、次回作も早く上げなくては、ですね」

 バンド活動の支障にならない程度にという意味で詩織は言ったのだが、響は、原稿の執筆に追われる自分の時間のことと誤解したようだ。

「新作も期待しています」

「ありがとうございます。新作は、桐野さんに捧げるために書きましょう」

「はい?」

「ははは、僕が桐野さんと会える時間ができますようにとの願いを込めてですよ」

「お兄ちゃん、もう、そろそろ限界」

 響が穏やかな笑い声を上げたタイミングで、瞳が少し疲れた様子でリビングに入ってきた。

「あれっ、話が弾んでた? もうちょっと、頑張って来ようか?」

 響が思いの外、楽しげな顔をしていたのか、瞳が響に言った。

「もう良いよ。桐野さんとは十分話ができて、僕も楽しかったよ。ありがとう、瞳」

 響からねぎらいの言葉を掛けられただけで、今まで見せていた瞳のくたびれた様子が吹き飛んでしまった。

「では、桐野さん、僕はこれで失礼します。これから書斎に缶詰にされてしまうので、お見送りもできないと思いますが、時間が許す限り、ゆっくりとしていってください。今日は本当にありがとうございました」

 響は立ち上がり頭を下げた。

「い、いえ、こちらこそ、ありがとうございました」

 詩織も立ち上がってお辞儀をすると、響はにっこりと魅力的な笑顔を見せて、「じゃあ、桐野さんを瞳に返すよ」と言い残して、ゆっくりとした足取りでリビングから出て行った。



 その後、小一時間ほど、瞳と他愛のない話をしてから、おいとまをすることにした。

 リビングを出て、玄関までの途中にあるドアの前を通り過ぎる際、響の声が聞こえた。きっと、そこが響の書斎で、出版社の担当者に口述をしているところなのだろう。

「池袋駅まで送るよ」という瞳とともに、マンションを出て、駅まで並んで歩いた。

「ねえ、詩織。私がいない間、お兄ちゃんと、何、話してたの?」

 瞳のことをお願いされたなどと話す訳にいかない詩織は、「学校のこととか、いろいろと」とお茶を濁した。瞳もそれ以上は突っ込んで訊いてこなかった。

「詩織、これからも、ときどき遊びに来てね」

「は、はい」

「でも」

 珍しく、瞳が少し言いにくそうにしていたが、すぐに詩織に視線を向けた。

「私と仲良くすることで、詩織が学校で困るようなら言ってね」

「えっ?」

「ほらっ、私って、いろいろと有名人みたいだからさ」

 響が言った「強引な言動は自分に自信がないことの裏返し」ということが分かった気がした。

 瞳は、同級生達に自分がどう思われているのか分かっているのだ。でも、そうやって強がっていないと、瞳の心はポッキリと折れてしまうのだろう。

 そんな瞳の弱い一面を垣間見た気がした詩織は、体育祭のリハーサルがあった日の放課後、優花ゆうか達と一緒に帰っていて、瞳が男性と言い争いをしていた場面に遭遇したことを思い出した。あの一件でも、同じ学校の生徒の瞳に対する印象は更に悪くなったはずだ。

「瞳さん、体育祭のリハーサルがあった日の放課後なんですけど、瞳さんが通学路で男性と言い争っているところを見たんです」

「ああ、あれね。何だ、見られてたんだ」

 瞳もすぐに分かったようだ。

「何か困ってることでもあるのではないですか?」

「心配してくれるんだ? 詩織はやっぱり優しいな」

「い、いえ、そんな」

「ありがとう。でも、大丈夫。あいつはさ、グラビアアイドルなんかの写真集を出版している会社の営業だったんだけど、いきなり声を掛けて来て、お兄ちゃんの写真集を出さないかって言ってきたのよ」

「桜小路先生の写真集?」

 確かに、先ほどまで目の前にいた響の女性的な顔立ちはアップでも十分に魅力的で、その写真集なら若い女性を中心にかなりの需要がありそうだ。

「お兄ちゃんのマネジメントをしている会社の事務に掛け合ったんだけど、けんもほろろに断られたから、妹の私にお兄ちゃんを説得してもらいたいって来たみたいね」

「そうなんですか」

「うん。それでもさ、その写真集にお兄ちゃんのどんな魅力を込めたいのかの話から入ってくれたら、私もちょっとは話を聞く気になったと思うけど、初めからお金の話ばかりするものだから、さすがに頭に来ちゃったのよ」

 こうやって、ちゃんと話を聞くと、瞳がそれほど傍若無人な人間ではないことは分かるのだが、アルテミス女学院の生徒達には誤解されたままであろう。

 詩織は、響からお願いされたことを思い出した。

 もちろん、その時に反論したように、お願いされたから、瞳とこうやってつきあっているつもりはない。詩織は、そのことを瞳にちゃんと伝えようと思った。

「瞳さん」

 立ち止まって瞳を見た詩織を、瞳も立ち止まって正面から見つめた。

「私は、人の意見は参考にしますけど、それだけで自分の考えを変えることはしません。私の友人は私が選びます。だから、人が何と言おうと気にしません。逆に、私が無理だと判断すれば、瞳さんとおつきあいすることもしません」

 はっきりと自分の考えを述べた詩織を、少し驚いた表情で見つめていた瞳は、すぐに笑顔に変わった。

「うん、分かった。ありがとう、詩織」

 他の生徒が何と言おうが、詩織がその意見に流されて、一方的に自分を見捨てるようなことはしない。そんな安心感が瞳の表情ににじみ出ていた。


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