Act.036:五月晴れでの再会
体育祭のリハーサルから一週間が過ぎた五月三週目の土曜日。
その日は、私立アルテミス女学院の体育祭本番が開かれる日で、朝から爽やかな五月晴れであった。
校舎を背にして、運営本部席や校内放送席、来賓席などの集会用テントが張られ、校庭に描かれた楕円形のトラックを挟んで反対側に生徒達の席があった。そして、トラックの周りには多くのレジャーシートが敷かれ、カメラを持った父兄が座って、体育祭が始まるのを待っていた。
詩織の父親は、結局、体育祭に一度も来ることができなかったが、小学生の時ならいざ知らず、高校生にもなって、親が見に来られないから悲しいという気持ちにもならなかった詩織が、そんな校庭の風景をぼんやりと見つめていると、突然、生徒達から歓声が上がった。
詩織が、みんなの視線の先にある来賓用テントを見つめると、瞳に先導されて、モノクロ系のシンプルなファッションの響が来賓席に着いているところだった。
二か月ほど前に夜の池袋で会って以来だったが、遠目に見ても、響の金髪は目立っていた。
響が来賓席のパイプ椅子に座ると間もなく、校長と理事長の二人が、響の近くにやって来て、挨拶をしていた。
理事長の梅田は、入学式と卒業式の時しか顔を見せなかったが、アルテミス女学院の創設者の一族ということで尊大な態度が目についていて、詩織も顔を憶えていた。
そんな理事長なのに、自分よりもはるかに若い響にペコペコと頭を下げていた。
今をときめく人気作家が見に来るということは、学校の宣伝にもなるからか、理事長も響にかなり気を使っているようだ。
一方の響は、その人気に天狗になっているような傲慢な態度を見せることなく、一旦、座った席から立ち上がり、きちんと挨拶を返していた。
その姿を嬉しそうに見ていた瞳は、校長と理事長との挨拶が終わり、響が再び席に座ると、校庭を回り込んで、自分の席に戻って来た。
クラスごとに椅子をまとめて置いていることから、同じ白組とはいえ、瞳の席は詩織の席とは少し離れていたが、瞳は詩織にニコニコと手を振ると、自分の席に座った。
瞳のクラスメイトが、すぐに瞳の周りに集まった。
「桜小路先生、来たんだ!」
「うん、高校最後の体育祭だからって、来てくれたの」
瞳は笑顔でクラスメイトに話した。
間もなく、体育祭開始のアナウンスがあり、生徒達は校庭に整列して並んだ。そして、校長の開会の挨拶で体育祭は幕を開けた。
競技のプログラムは順調に進み、詩織と瞳が出場する大玉転がしの番となった。
校庭の隅に作られた選手の入場ゲートに整列した詩織に、隣に立っている瞳が声を掛けた。
「詩織、頑張ろうね! まあ、リハーサルどおりで良いから気楽に行こう!」
「はい」
詩織は、音楽以外のことで珍しく自分が燃えていることに気づいた。
前の競技の選手が退場するのと入れ替わりに、大玉転がしの出場選手が小走りに校庭の中に出ていき、スタートラインの前に整列した。
リハーサルの時と同じく、紅、白、青の三組の対抗戦で、各組一学年四人の二チーム、三学年で十二人六チームのリレーだ。詩織と瞳は、これもリハーサルの時と同じく白組のアンカーになった。
「みんな、気楽にね! 楽しくやろう!」
三年生の瞳が同じチームのメンバーに声を掛けた。特に下級生の緊張を解きほぐそうとしていることは明らかだった。
詩織の同級生達も瞳のことを要注意人物のように言っていたが、こういう細やかな心配りもできる人だということは知られていないのだろうか?
三年間もクラス替えがなかったことの弊害がこんなところにも出ているのかもしれなかった。
準備が終わると、すぐに競技が始まった。
号砲とともに一年生のチームがスタートした。どのチームも本番ということで緊張しているのか、リハーサルの時より大玉の扱いに苦労しているようであったが、その中でも白組のチームが一歩前に抜きん出た。
「その調子! 頑張れ!」
詩織の横で瞳が大きな声で声援を送っていた。それを聞いていると、普段、学校では大声を出すことのない詩織も影響されて、知らず知らずのうちに大きな声で応援をしていた。
その後も白組はトップをキープして、いよいよアンカーの番となった。
詩織と瞳がスタートラインに立った。前からはトップで折り返ししてきた同じ三年生のチームがどんどんと近づいて来ていた。
「詩織!」
呼ばれた詩織が隣の瞳を見ると、瞳は詩織に向けて拳骨を突き出していた。
「思い切りやろうね」
「はい!」
瞳とグータッチをした詩織は、すぐに前を向いた。
大玉がスタートラインに着くとすぐに、詩織と瞳が力を併せて大玉を押し出した。
どうしても二人の力の入れ具合が違うから、大玉は真っ直ぐには進まない。しかし、自分の方に大玉が曲がった者が少し前に出て、大玉のコースを元に戻すことを素早く行うことで、できるだけ最短コースを進ませることができた。
詩織と瞳のチームは他のチームとの差を更に広げながら、折り返し点も綺麗に曲がると、一気にラストスパートを掛けた。
あとは大玉をスタートラインに押し込めば良いだけだ。詩織と瞳は力を込めて大玉を押し出すと、それを追い掛けるようにしながら全速で走り、ぶっちぎりのトップでゴールした。
すぐに白組の選手が詩織と瞳の周りに集まってきて、肩を抱き合いながら勝利を喜んだ。
「詩織! やったね!」
「はい! やりました!」
瞳は詩織に抱きついて喜びを爆発させていた。詩織も飛び跳ねながら喜びを表した。一年と二年の時には、綱引きとか玉入れといった大人数が出場する競技にだけ出て無難に済ませていたが、今回のように体育祭で熱くなったのは初めてであった。それは、瞳のせいだろう。
「はい! ちゃんと整列して!」
あまりの喜びように教師から注意されると、瞳はチロッと舌を出して詩織にウィンクした。
整列して退場をすると、瞳が詩織に腕を絡めてきた。
「やっぱ、詩織は頼りになるよ」
「いえ、大玉転がししか一緒にしてないですよ」
「人が頼りになるかどうかは、その人の身のこなしを見ていれば分かるって! それは体力だけじゃなくて、頭の良さも関係していると思うし」
詩織は少し照れてしまった。
「私ねえ、けっこう気が短くて、人がのんべんだらりと行動するのを見てると腹が立ってくるんだよね。大きな声じゃ言えないけど、クラスメイトとか文芸部員にもそんな人が多いんだ」
リハーサルの時に、兄の目が悪いことを言ったクラスメイトに対して怒った場面が思い出された。以前に職員室ですれ違った時には、先生に対しても物申していた。どうやら、瞳は、腹の中に溜めきれない怒りを、相手が誰であれ、そのままぶつけてしまう性格なのだろう。
「前にも言ったけど、詩織のことで、私はイライラしないんだよね。だから、詩織とはもっと仲良くなれると思うんだ。三年生になるまで知り合えなかったのは悔しいよ」
詩織も瞳のシャキシャキと行動するところとか、その反面で他の人の心をしっかりと読んで行動しているところが、玲音に似ていると思って、瞳と仲良くなれるかもと考えた。
「詩織! この後、しばらく競技はないでしょ?」
「はい」
「お兄ちゃんを紹介するよ!」
そう言うと、瞳は、半ば強引に詩織の手を引っ張って、校庭をぐるっと回り、来賓席まで連れて行った。
来賓席は、前後二列の長机とパイプ椅子で八人ほどが座れるようになっていて、その後ろの席の端っこに響は座っていた。
「お兄ちゃん!」
後ろから響に近づいた瞳が声を掛けると、響は穏やかな微笑みを浮かべて振り返った。もちろん、その瞳は妹の方を向いてはいたが、真っ直ぐには見つめていなかった。
「私のチームが一番を取ったよ!」
「そうみたいだね。おめでとう。頑張ったね」
兄のその一言で、瞳の顔がこれ以上ないくらいにデレデレになっていた。
「一緒に競技をしてくれた桐野詩織ちゃんも一緒にいるよ」
「あ、あの、こんにちは」
詩織がお辞儀をしながら響に言うと、響は立ち上がり、ちゃんと詩織の方に向いた。
「こんにちは。いつも瞳がお世話になっています」
「い、いえ! こちらこそです」
ネットで調べた情報によると、響は詩織より五歳上の二十三歳。大学在学中に、とある小説新人賞を獲得してプロデビュー。その後に発表した小説がいずれも高評価を得て注目を集めていたが、昨年、発表した「恋人たちの風」という恋愛小説が大ヒットして、今や押しも押されもせぬ人気作家の仲間入りをしていた。
「実は、詩織とは最近知り合ったばかりなんだけど、ずっと前からの親友って感じで仲良くなってるの! もっとも、私が一方的に思ってるんだけどね」
「瞳がそんなことを言うのは珍しいね」
「そうなんだよね。私も百合の趣味が芽生えちゃったのかなあ?」
「えっ?」
詩織が焦って瞳を見たが、瞳はケラケラと笑っていた。
「冗談だよ~。私は普通に男性が好きだから! でも、お兄ちゃんみたいな人が理想だから、なかなか、良いと思う男性がいないんだよね」
「は、はあ」
響に詩織の話をするのが嬉しくてたまらないようで、その後もしばらく、瞳は一方的にしゃべった。
「桐野さん」
瞳の話をニコニコと微笑みながら聞いていた響が詩織を呼んだ。
「妹は、こんな性格で、ずかずかと人の懐に入り込んでいくものですから、不快に思うこともあるかもしれませんが、どうかよろしくお願いします」
年上でもあり、地位も名誉もある響から丁寧なお願いをされて、詩織は恐縮してしまった。
「い、いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
詩織は、響が少し戸惑った表情に変わったことに気づいた。
「桐野さん、以前にどこかでお会いしましたか?」
「い、いえ」
夜の池袋で肩をぶつけてしまったことがあったが、瞳も憶えていないようだし、目が悪い響が憶えているとも思えなかった。
「そうですか。桐野さんの声に聞き覚えがある気がしたのですが……」
目が見えない分、耳から入った記憶は、より強く残るのだろうか?
詩織は、夜の池袋で出会っていることを正直に話そうかと思ったが、その前に響が口を開いた。
「すみません。以前にお会いしているのに、初対面のような挨拶をして、失礼だったかなと思いまして」
「あ、あの、お互いに気づかないでお会いしているのかもしれませんが、たぶん初対面です」
「そうですよね」
響の表情も元の穏やかな表情に変わっていた。
「ねえ、お兄ちゃん。今度、詩織をうちに呼んでも良い?」
「もちろん良いよ」
「やった! 詩織! 今度、うちに招待するから、絶対、来て!」
大喜びする瞳の方を見つめる響の優しい微笑みに、瞳が言った「綺麗」という言葉がしっくりときた詩織であった。




