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Act.035:男の価値

「そろそろ、次の生徒さんが来てしまうので」

 食事が終わってからも、榊原さかきばらは、次から次にかなでに話を振って来た。話題も豊富で、巧みな話術と相まって、奏も退屈することがなかった。それで気がつくと、あっという間に時間が過ぎていて、次のレッスンが始まる時間が迫っていた。

「ああ、それはいけませんね。すみません、引き留めてしまって」

 榊原は頭がテーブルに着きそうなほど深くお辞儀をした。

「い、いえ、私もすごく楽しかったです」

 奏は、話の中でさりげなく、榊原の個人データを聞き出していた。

 榊原さかきばら翔平しょうへい。三十四歳。大学を卒業してすぐに結婚した妻と四歳の娘がいる。

 もともとは大手レコード会社の社員で、上から命じられるままに担当となったアーティストの営業をしていたが、自分で見込みのある若いミュージシャンを発掘し、育て上げて、日本の音楽シーン全体を盛り上げていきたいとの野望がわき上がって来て、そのレコード会社を退職して、音楽芸能事務所「エンジェルフォール」を立ち上げたとのこと。

 そして、若者を中心に、所属ミュージシャンもある程度の人気を博しており、それなりの収益を上げているが、企業としての更なる成長を遂げるための起爆剤となるアーティストを探しているとのこと。

 自分の夢を語る時の榊原の瞳はキラキラと輝いており、奏の榊原に対するイメージはかなりプラスに振れた。

 ――こんな男の人に出会ってたら、私の人生も変わってたのかなあ。

 音大を卒業してからつきあってきた男どもは、そこそこの会社でそこそこの役職まで出世して世間一般並みの幸せを感じられる家庭を築いてから一生を終えたら上出来みたいな考えを持っている男が多かった。「平凡な幸せ」と言えば聞こえは良いが、要は夢を見ることを諦めた一生を送るということだ。奏自身も音大時代に「著名なピアニストになる」という夢が崩れ去り、しがないピアノ講師を始めて六年も経って、あとは結婚をして家庭に収まって子育てをして、という未来しか見えなくなっていた。

 それを打ち破ってくれたのが詩織だった。

 唐突に声を掛けてくれて、バンドに誘ってくれた。詩織の素晴らしいボーカルとメンバーの卓越した演奏技術は、バンドの未来を明るいものにしてくれていた。

 このバンド「クレッシェンド・ガーリー・スタイル」で、きっと良い夢を見ることができる!

 奏は確信にも似た感覚を覚えていた。そして、それを追い掛けるようになってから、今までの自分がすごく狭い視野でしか男を見ていなかったことが分かった。

 榊原もバンドのメンバーと同じく、夢を追い掛けている人だ。似た者同士として、これからもつきあいがあるかもしれないし、何と言っても、音楽芸能事務所の社長である榊原との間にせっかくできたパイプは、つないでいた方が良いだろう。

 奏は、榊原に請われるままに、携帯のアドレスを交換してから楽器店に戻った。



 午後八時に今日の分のレッスンを終えると、奏は楽器店を出た。

 自宅は、歩いて十分ほどという所にある賃貸マンションだ。

 池袋駅までの徒歩圏内ということで家賃もそれなりにしたが、通勤が楽ということで、就職してすぐに入居して、それからずっと暮らしている。

 繁華街で大勢の人が歩く中で、見覚えがある男が前を歩いているを見つけた。

 聡史さとしだ。奏の知らない女性を連れていた。

 新しい彼女だろうか? いや、被害者と言った方が良い。

 奏は、その女性に「目を覚ませ」と言ってやりたくなったが、余計なお世話かもしれないとも思った。少なくても、聡史とつき合っていた最初の頃には、奏も良い夢を見せてもらったことは確かなのだ。

 聡史と女性は、奏の前で信号が変わるのを待っていた。奏は、少し距離を置いて、その後ろで信号が変わるのを待った。

「奏じゃん、何してんの?」

 脳天気な台詞にびっくりするとともに、目の前の嫌な景色を吹き飛ばしてくれそうな気がして、少しだけ無意識に微笑んだ。

 振り返ると、玲音れおがいた。

「そういうあんたこそ何してんの?」

「山田楽器で買い物してたんだよ。お客様だよ、お客様」

 玲音は、おそらくベースの替え弦だと思われる小さな包み紙を見せびらかせた。

「はいはい。お買い上げありがとうございました」

「心がこもってないなあ」

「ベース弦代相当の心はこもってたでしょ?」

「何だよ、それ?」

「それはそうと、池袋駅はこっちじゃないでしょ?」

「奏を見掛けたから、跡をつけて、びっくりさせてやろうと思ってさ」

「ストーカーか?」

 玲音は四歳も年下なのにタメで奏に絡んでくるが、今となってはそれも心地良く感じられていた。

 信号が変わり、信号待ちをしていた人達が一斉に動き出した。

 横断歩道を渡ると、聡史は奏の自宅がある方向に曲がった。自宅に帰るのに遠回りをするのも癪で、奏も仕方なく聡史の跡をついていくことになった。別に未練もなかったが、視界に入ってくると何となく注目してしまった。

「何を見てんだ?」

 玲音が奏の視線の先を探るようにして言った。

「前に知り合いでもいるのか?」

「どうして分かったの?」

「奏の行動は分かりやすいんだよな。見失わないように、キョロキョロしてたじゃん」

「まったく、そんなところだけは察しが良いのね。前に言ったかもしれないけど、少し前までつき合っていた男よ」

「ああ、聡史とかいう酷い奴かあ」

「……私、そこまで話した?」

「べらべらとな。どいつだよ?」

「ほら、女性を連れて歩いている、背の高いスーツの男よ」

「ああ、あれ?」

 目の前にスーツを着た男性は聡史しかいなかったから、玲音が指差しているのは聡史で間違いないだろう。

「ええ、そうよ」

「じゃあ、隣を歩いている女は、奏と同じように騙されているんだな?」

「たぶんね」

「じゃあ、助けなきゃいけないじゃん」

「……もう、関係ないよ。ほっときなさいよ」

「でもさ、癪じゃん! そんな男がのさばってるのがさあ。奏は、そう思わないのかよ?」

「思うけどさ! でも、……もう良いよ」

「駄目だよ! そういう奴は懲らしめてやらないと!」

 そう言うと玲音は小走りに聡史に近づいて行った。

「ちょっと! どうするつもり?」

「良いから、奏は隠れてろよ」

 次第に同じ方向に歩いている人が脇道に入るなどして、聡史と奏達との間には誰もいなくなっていた。

 奏がビルの影に隠れるのを確認してから、玲音は後ろから聡史に近づき、その腕を絡めた。

「さ~と~し~! 何してんの~?」

 驚いた聡史と女性が振り向くと、玲音は、今、女性に気づいたという振りをした。

「あれえ、誰? この人?」

「そういうお前こそ誰だ?」

 聡史が怒りを込めた声で訊いた。

「何? 忘れちゃったの? カエデだよ、カエデ」

 きっと奏の名前から咄嗟に思いついた名前なのだろう。

「カエデ? 知らねえよ!」

「え~、昨日、あんなに激しく愛してくれたのに?」

「な、何を言ってるんだ?」

「若いのに健忘症?」

 連れの女性は徐々に腰が引けて、今にも去って行きそうになっていた。

「宏美! 何かの誤解だ。こいつは気が触れているに違いない。俺の全然知らない奴なんだ!」

 女性は顔を歪めながら「いやいや」というように、ゆっくりと顔を左右に振った。

「何、言ってるのよ、聡史? そう言えば、アタシが貸した十万円、まだ返してもらってないんだけど、いつ返してくれるの?」

「だから、何を言ってるんだ?」

 聡史は、大声を上げて、玲音の腕を振りほどいた。

「それはアタシの台詞だよ。ねえ、あんたも聡史にお金を貸した?」

 玲音が女性を見ながら訊くと、女性は「うんうん」とうなずいた。

「そうなんだ。それ、絶対に返してくれないよ。こいつはヒモだからね。それでも良いって覚悟がないのなら、つき合うの止めときなよ」

 女性は、もう一度、うなずくと、走って逃げて行ってしまった。

「いい加減にしろ!」

 聡史が玲音にビンタをしようとしたが、玲音は冷静に聡史の腕を掴んで、それを止めた。

「すぐに女に手も上げるのかよ。最低だな、お前」

「くそっ!」

 聡史は、掴まれていない方の手を上げて、玲音を殴ろうとした。

「きゃー! 助けてー! 痴漢!」

 しかし、それよりも早く、玲音が大声を上げた。人通りは少ないが、何人かの人が何事かと近づいて来た。

 それを見た聡史は、焦って玲音の腕を離すと、走って逃げて行った。

「大丈夫ですか?」

 駆け寄って来てくれた何人かの男性が玲音に尋ねた。

「はい、ありがとうございます。痴漢は逃げました」

「警察、呼びますか?」

「いえ、大事おおごとにしたくないので」

 世の中、捨てたものではない。ああやって助けに来てくれる男性もいるのだ。ビルの影から一部始終を見ていた奏は、何だか救われる気がした。

 男性達が離れていくのと入れ違いに、奏は玲音に近づいて行った。

「無茶しないでよ。見ててハラハラしちゃったじゃない」

「へへっ、男との修羅場は慣れてんでね」

「そんなの自慢にならないから! でも、……ありがとう。私も何かすっきりしたよ」

「奏のためにやったんじゃねえよ。ああいう男がアタシは大嫌いなだけだよ」

 玲音の照れ隠しのような気がしたが、奏もそれ以上は突っ込まなかった。

「奏もさ、いつもアタシに浴びせているみたいに、男にもバシッって言ってやりなよ」

「私は、あんたとは違うの! それに体も小さいから、私が言っても迫力はないわよ」

「いや、アタシに罵詈雑言を浴びせ掛ける時の奏は、けっこう迫力があるぜ」

「うるさいわよ!」

 奏は、「へへへ」と笑う玲音に、お礼の気持ちを表したくなった。

「玲音、もう、晩ご飯は食べたの?」

「うんにゃ、こんな時間だから、家に帰って作るのもしんどいし、牛丼屋にでも入ろうかって思ってた」

「あんた、牛丼屋に一人で入れるの?」

「へっ? 普通だろ?」

「普通じゃないと思うけど……」

 ファッションモデルだと言われても不思議ではない玲音なのに、気取りもせずに牛丼屋に入るのも玲音らしいと思った奏だった。

「私もまだだから、一緒に食べる? さっきのお礼に奢ってあげるわよ」

「マジで? 酒付きでも良い?」

「はあ~、下手したてに出たら、つけ上がるってことを忘れてたわ」

「良いじゃん。せっかくなんだからさあ」

「分かったわよ。でも、私は、明日も仕事だから、遅くまではしないわよ」

「でも、この前はそんなに酔ってなかっただろ? ずっと、愚痴を吐き出していたから」

「私、あんたに愚痴とか言ってないでしょ?」

「いや、礼儀を知らない会社の若い女性社員のこととか、微笑みの裏に優越感を隠そうとしない弟の嫁のこととか、三時間くらいはしゃべってたぜ」

「……行こう! 今日は、とことん、やろう!」

「よっ、奏さん! 素敵!」

「調子良すぎるのよ!」

 そう言いながらも、奏は今日は気分良く飲めそうだと思った。


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