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Act.034:遅いランチ

 玲音れお琉歌るかがゲーム「イルヤード」のオープニングテーマ募集の話題で盛り上がっていた頃。

 土曜日の午後三時。

 山田楽器店にもう一人いるピアノ講師が体調不良で休暇を取ったことから、急遽、かなでがその代役として、自分の受け持ち分との時間を調整しつつ、もう一人の受け持ちの生徒のレッスンも担当していた。

 バンドを始めたことから、今まで自分が受け持っていたレッスンを、少しその講師に担当してもらうようにシフトを変えてもらっていたから、その恩返しという意味もあった。

 ということで、午前十時から昼休みを取る暇もなく、三十分単位でずっと続いていたピアノレッスンが一区切り付いて、生徒をレッスン室から送り出した奏は一息吐いた。

 次の生徒のレッスンは一時間後で、実質、この午後三時から四時までの一時間が遅いお昼休みということになる。

 奏が近くのコンビニに行こうとレッスン室を出ようとすると、内線電話が掛かってきた。出ると店長からで、五階の事務室に来てほしいとのことだった。

 四階のレッスン室から階段で一階上まで昇り、事務室に入ると、店長は応接室にいるとのこと。事務室の一角にある応接室のドアをノックして中に入ると、店長と体格が良い男性が向かいあってソファに座っていた。男性は、ノーネクタイだが、仕立ての良いスーツを着ていた。

「先生、休憩時間にどうもすみません」

 店長がソファに座ったまま、奏に頭を下げた。すまないなんて、これっぽちも思っていない顔だった。

「いえ、何でしょうか?」

「こちらの方なのですが、音楽芸能事務所『エンジェルフォール』代表の榊原さかきばら翔平しょうへいさんです」

 榊原と紹介された男性は立ち上がり、「榊原です」と低くて図太い声で名乗り会釈をした。

 榊原は背が高く、小柄な奏の頭は、榊原の胸辺りまでしかなかった。清潔そうに短くカットされた髪、ほどよく日焼けした顔の太い眉毛の下に意外に大きな目と筋が通った鼻、そして、顎には短く切り揃えた髭を生やしていた。

 男臭いイケメンと言えば良いだろうか。草食系男子がはびこっている昨今、珍しいタイプと言えそうだ。

 ただ、奏の趣味的には、どちらかというと優男やさおとこが好みで、今まで好きになった男性もそんなタイプが多かった。だからか、イケメンであるにもかかわらず、榊原の第一印象に奏の胸はときめかなかった。

「こちらでピアノ講師をしております藤井ふじいかなでと申します」

 奏は榊原にしなやかにお辞儀をした。

「先生、こちらにどうぞ」

 奏が店長の隣に座ると、正面の榊原も座った。

「榊原さんが率いるエンジェルフォールは、将来が有望なバンドやミュージシャンを積極的に発掘しているそうなのですよ。それで、うちに出入りしているミュージシャンにめぼしい者がいないかとリサーチされに来られたのです。念のため、先生のお知り合い、例えば、生徒さんとかで有望な人材はいないかをお訊きしたいと思ってご足労願ったのです」

「私のレッスンを受けている方は趣味でされている方がほとんどですから、ご希望には添いかねると思います」

 奏の生徒にプロを目指しているような人がいないことは、店長だって知っているはずだ。きっと、店としては榊原に恩を売っておきたいが、他の店員達からもめぼしい情報が得られなかったことから、ここまで誠心誠意、努力をしているところを榊原に見せつけるため、奏にも訊いたのだろう。

 店長の希望を一刀両断した奏だったが、そこは社会人として空気が読めるところを示すため、榊原に話のきっかけを振った。

「私の不勉強で申し訳ないのですが、エンジェルフォールさんには、どのようなミュージシャンの方が所属されているのですか?」

 自社の活動内容を訊かれて、榊原も嬉しそうに話し出した。

「いやいや、まだ、胸を張って紹介できる連中がいなくて困ってます。最近、一押しなのは、マカロンゼリーというバンドです。先生はご存じではないですか?」

「申し訳ありません。存じておりません」

「ははは、そうでしょうな。今、うちでプッシュしているのですが、いまいち人気が出なくて、少し焦っているのですよ」

「どんなバンドなのですか?」

「路線的にはアイドルですな。バンドとアイドルの融合を目指して、萌え仕様の衣装を着て、オリジナル曲を演奏するというコンセプトだったのですがねえ」

 ――それって、結局、どっちつかずなんじゃない?

 そう思った奏であったが、それを口に出して言うことはなかった。

「先生も最近バンドを始められたのですよね?」

 ――余計なことを!

 奏は笑顔のままで店長を睨んだ。

 シフトを変更してもらったから、当然、店長も奏がバンドをやり始めたことを知っていた。

「え、ええ。でも、結成したばかりで、まだまだ、これからですけれども」

「どのようなバンドなのですか?」

 榊原が食いついてきた。

「女性ボーカルのロックバンドです」

「先生のバンドはプロを目指しておられるのですか?」

「もちろんです。うちのメンバー全員が惚れ込んでいるボーカルは、プロでも十分やっていけると思っています」

 実際にプロでやっていたんだけどね、と奏は心の中でほくそ笑んだ。

「そうですか。それは、ぜひ拝見させていただきたいですね」

「先ほどもお話したとおり、結成したばかりで、まだ、バンドの音もできていません。ある程度まとまってから、榊原さんに見ていただきたいです」

 バンドの形ができるまでに詩織のことがばれると、実力よりも評判が先行してしまい、結局、イロモノバンドとしか見られないことになってしまう。それは、詩織はもちろん、メンバー全員が避けたいことだった。

「では、その節には、ぜひ、そうさせてください。先生のようにお美しい方がメンバーであるだけで、もう魅力的です」

「お上手ですね」

「いやいや、本当のことですよ」

 きっと社交辞令だ。そうに違いない。

 と分かっていても、面と向かって「美しい」と言われると嬉しいものだ。

 それに、マイナーな音楽芸能事務所とはいえ、その社長と接点ができたことは、将来のためになるだろう。

「いや、どうも、休み時間に申し訳ありませんでした。他にこれはというミュージシャンを思いつかれましたら、こちらまでご連絡をお願いします」

 奏は榊原が差し出した名刺を受け取った。

「分かりました。私のバンドも時期が来ればお伝えいたしますので、その節には、ぜひ、ご覧になってください」

「はい。楽しみにしております」

 立ち上がり、榊原に一礼をして応接室から出ようとした奏の背中に、榊原が声を掛けて来た。

「先生は、これからレッスンですか?」

「いえ、四時まで空き時間なので、遅いお昼休憩です」

「そうですか。いや、私も昼飯を食い損ねていましてね。よろしければ、ご一緒にいかがですか?」

「はい?」

「本音を言うと、先生のような美しい女性と食事をすることが私の趣味なのですよ」

「は、はあ」

 好きなタイプではなかったが、爽やかな話し方から、榊原と一緒に食事をしても嫌悪感を抱くことはないと思った奏は、その申出を受けることにした。

「店長、先生をちょっとお借りします」

「ええ、どうぞ!」

 ――私は、あんたの持ち物かよ!

 また、笑顔で店長を睨んだ奏は、榊原と一緒に楽器店を出た。

「先生は、どこか、行く店は決めていたのですか?」

 背の高い榊原が、隣を歩く奏を見下ろすようにして訊いてきた。

「この時間帯では準備中になっている店も多いので、コンビニで何か買ってこようかと思っていました」

「ああ、なるほど。確かにそうですね。そうすると店の数が限られますかね?」

「そうかもしれません」

「私の行きつけのイタリアレストランがこの近くにあって、この時間帯もやっているはずです。やってなくても無理にでも開けさせますけどね」

「強引なんですね」

「少し強引なくらいでないと、会社はやっていけませんよ」

 そういえば、今までつき合ってきた男性の中に経営者はいなかった。まだ、マイナーとはいえ、音楽芸能事務所の社長であれば、それなりの収入を得ているのではないだろうか?

 実際、榊原がはめている腕時計は何十万円もする海外の高級ブランド品だ。

 奏の頭に「玉の輿」という言葉が浮かんだ。

 恋愛は恋愛、結婚は結婚。結婚と恋愛は別。

 奏もその考え方も有りだとは考えていたが、奏自身は、どうせ、結婚するのなら愛されて一緒になりたいと思っていた。

 そして、三十路を控えても、そんな理想的な結婚をすることだけを夢見ていたが、詩織達とバンドを組んで、結婚とは別の目標ができると、今までの自分が馬鹿みたいに思えてきた。

 役所に届け出を出して、親戚一同にお披露目をする。「たった」それだけのことに、どうしてこんなに固執する必要があったのだろう?

 ――ほんと、詩織ちゃんに感謝ね。

 これほどまで自分が変われるとは思っていなかった。

「こちらですよ」

 榊原は、奏を優しくエスコートするようにして、繁華街の中を歩いていった。

 榊原は、その間にも携帯電話を取り出して電話をしていた。話の内容からして、相手は行き先のレストランのようで、まだ営業しているようであった。

 榊原は、とあるビルの前で立ち止まった。

「ここの九階にあるんです」

 エレベーター前に各階の店の看板が掲げられており、九階には、イタリアレストラン「ヴェネチアの風」という店があるようだ。

 エレベーターで九階に昇り、ドアが開くと、すぐに店のカウンターがあった。

「これは榊原様! いらっしゃいませ」

 カウンターに立っていたタキシード姿の男性が深くお辞儀をして、榊原と奏を出迎えた。おそらく、この店のマネージャーだろう。

「どうぞ」

 マネージャーの先導で席に行くと、そこは窓際の四人席で、部屋には他に客の姿は見えなかった。

 マネージャーが奏の椅子を引き、奏を座らせた。その正面に座った榊原は、マネージャーにスペシャルランチを二つ注文した。

 奏が窓の外を眺めると、池袋のビル群が見えた。昼間見ると殺風景だが、夜はネオンが煌めいて綺麗なのだろう。

「ここにはよく来られているのですか?」

「ええ、二週間に一回くらいでしょうか。主に商談で利用するのですが」

「私は商談相手ではありませんよ。榊原さんに買っていただく物もないと思います」

「いえいえ、十分に投資価値がある物件だと思いますが?」

 自虐的な奏の台詞を、榊原はニコニコとしながら否定した。

 相手は会社社長で、最近つきあってきた男どもと違い、金の無心をすることはないはずだ。

 しかし、榊原がテーブルの上で組んでいる左手薬指にはダイヤが埋め込まれた結婚指輪がつけられていることを、奏は見落とさなかった。

 奥さんがいるのに、ビジネスとは関係なく、他の女性を食事に誘うことはどうなのだろうと思う奏であった。

 

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