Act.029:新たな結び目
連休明けの五月の第二週目。その金曜日に私立アルテミス女学院高等部では体育祭のリハーサルが行われていた。
私立アルテミス女学院高等部は一学年六クラスしかない。体育祭は、すべての学年のA組とD組が紅組、B組とE組が白組、C組とF組が青組に別れて競うことになっていた。
もっとも、お嬢様学校ということで、基本的に体育系クラブもそれほど強くはなく、スポ根とは無縁の世界で、体育祭も何となく、ほんわかとした雰囲気で毎年行われていた。
生徒は、教室から持ち出した椅子を組ごとにまとめて校庭に置き、出場競技ではない生徒はそこに座って、本番さながらに進行する競技を見つめていた。
部活をしていない詩織は、クラスメイト以外に知っている人もいなかったことから、優花、美千代、そして珠恵の三人と一緒に座っていたが、優花達も、出場する競技の順番が回ってきたり、それぞれのクラブの友人や後輩と話し込んだりして、いつの間にか、詩織の周りには誰も知っている人がいない状態になっていた。
自分が出場する大玉転がしは次の次で、今、校庭で繰り広げられているムカデ競争が終わってから、出場ゲートに集合すれば間に合うはずだ。
そのムカデ競争を何となく見つめていた詩織の後ろが少し賑やかになった。
振り向くと、一番後ろの席に桜小路瞳が座っていて、そのクラスメイトらしき女生徒が瞳を取り囲んでいた。
瞳はE組で、B組の詩織と同じ白組だった。
「瞳! 今度、桜小路先生と会わせてよ」
「駄目よ。それは文芸部だけの特典なんだから」
「え~、良いじゃない! 桜小路先生のファンだけど、文芸部とは別のクラブをしている人だって、いっぱいいるんだからさ」
「それはそうだけど……。あっ、でも、体育祭の本番には来るかも」
「本当に?」
「うん。まだ、不確定だけど」
「そうなんだ。でも、桜小路先生って、瞳が競技しているところ、分かるの?」
「どう言う意味?」
瞳の怒気を孕んだ言葉に、同級生は首をすくめた。
「お兄ちゃんは、目は見えなくても他の五感を使って、私なんかが気づかないことも感じることができる人なのよ!」
「ご、ごめん! ちょっと、デリカシー欠いてた」
相手が同級生であっても本気で怒る瞳だったが、それだけ、兄のことを大切に想っているのだろう。
詩織がじっと瞳を見つめていたからか、ふと、瞳と目が合った。
詩織は焦って、すぐに前を向いた。
以前、眼鏡を外してギターケースを背負っている時に、詩織は瞳と会っている。いかにもバンドやってますという格好をしていた女の子と詩織が同一人だと気づくと、瞳はどんな行動を取るだろうか?
バンドをしていることは学校のあずかり知らぬことになっていて、まだ、知られる訳にいかない。詩織は、瞳から声を掛けられたらどうしようかとビクビクしていたが、そのうち、ムカデ競争が終わったことから席を立ち、集合場所に向かった。
頭には白いはちまき、じっと座っているとまだ少し肌寒くて、上半身には長袖ジャージ、下半身にはハーフパンツという格好の生徒達が既に集まっていて、詩織は指導の先生の指示に従って、白組の列に並んだ。
「はい! じゃあ、同じ学年の人同士でペアになってください!」
学年ごとにジャージの色も違っていて、生徒達はとりあえず一番近くにいた同じ色のジャージの生徒とペアを組んだ。詩織も横にいた生徒に声を掛けようと思ったら、向こうから声を掛けてきてくれた。
「一緒にやろうか?」
「はい」と詩織が返事をしてから、その相手を見ると、瞳だった。
自分が先に席を立ったから、瞳も同じ競技に出るとは、まったく分からなかった。
かと言って、今さら断る訳にもいかない。
「私、E組の桜小路瞳よ。目の中にある瞳ね。よろしく!」
ジャージの胸の所には名字だけが書かれていたから、瞳は名前の漢字を説明したのだろう。
「あ、あの、B組の桐野詩織です。『詩集』の『詩』に、『機を織る』の『織る』の字を書きます。よろしくお願いします!」
「ああ、タメで行こうよ、同じ三年生なんだし」
「いえ、私、普段から、こういう話し方なものですから」
実際、この学校では、瞳のような砕けた話し方をする生徒の方が少なかった。
「あっ、そう。まあ、私はどっちでも気にしないけど」
瞳は詩織の顔をマジマジと見つめた。
「桐野さんは高等部から?」
「は、はい」
「そっか。私もそうだけど、桐野さんとは初めて会った気がするからさ」
「そ、そうですね」
「やっぱり、三年間もクラス替えがなかったせいだろうね。桐野さんみたいに可愛い人が今まで噂にならなかったのは不思議だよ」
「そ、そんなことはないです」
詩織も初めて瞳をすぐ近くで見たが、ツインテールの黒髪に、目が大きく睫毛も長い顔立ちは、いかにも女の子らしい顔立ちと言え、兄の響と似ているような気もした。
「まあ、頑張ろうね」
「はい」
出場するのは一学年四人ずつの合計十二名の六組。三年生の詩織と瞳はアンカーになった。
指導教師が空に向かって鳴らした号砲とともに大玉転がしが始まった。
自分達の身長ほどもある、ぶよぶよの大きなゴムボールを、二人で協力しながら転がしていき、折り返し点に置かれた旗を回ってスタートラインまで戻り、次のペアにバトンタッチしていくというシンプルな競技だ。
下級生達が頑張ってくれて、トップで大玉を受け取った詩織と瞳は、勢いよく大玉を転がしながら走った。打合せをしていた訳でもないのに、お互いが相手の動きをよく見て、自分がどう動けば良いのかを瞬時に判断しながら、スムーズに大玉を転がして行った。
小学生時代からダンスの練習をしていた詩織は、平均以上には運動神経が良いと思っていたし、瞳のしなやかな体の動きを見れば、瞳も運動神経が良いことが分かった。
詩織と瞳は、二位との距離を更に広げてトップでゴールした。
大喜びする白組のチームメイトとハイタッチをしていた瞳が、詩織の近くに戻ると、詩織の手を両手で握った。
「桐野さん、やるじゃない! 眼鏡っ子だから、運動が苦手なのかなと思ってたけど」
「いえ、桜小路さんに助けていただいただけです」
「またまたあ、そうやって謙遜するところなんか、本当にお嬢様だね」
今まで瞳の怒ったところしか見たことがなかった詩織は、瞳が意外に砕けた性格で話しやすい人だと思った。
「桐野さん、本番でもペアを組もうね」
「は、はい」
一番遅かった組もゴールすると、整列して集合場所に戻り、そのまま解散となった。
詩織は、瞳と一緒に自分達の席に向かった。
「瞳! 速い! さすが!」
入れ違いに集合場所に向かう同級生らしき女生徒達がすれ違いながら瞳に声を掛けてきた。瞳はクラスでも人気者のようだ。
それにしても、瞳は、夜の池袋で詩織に会ったことを、まったく憶えていないようだった。
変に隠し立てや不審な行動を取れば、逆に怪しまれるかもしれないと考えた詩織は、クラスの友達と同じように、瞳とは自然につき合っていった方が良いと考えた。
「あ、あの、桜小路さん」
詩織が呼び止めると、瞳が笑顔を見せて、立ち止まった。
「瞳で良いよ。友達はみんな、そう呼んでるし。それに、桜小路って、長ったらしいから呼びにくいでしょ?」
「そんなこともないですけど、……でも、はい」
「私も詩織って呼んで良い?」
「は、はい」
「ふふふ、それで何?」
優花達からも「桐野さん」と呼ばれることに慣れていて、いきなり名前で呼ばれた詩織は、少しくすぐったくて、自分で話を振っておきながら、話を続けることを忘れていた。
「あ、あの、さっき、席で少し話を聞いちゃったんですけど、瞳さんのお兄さんって作家さんをされているんですよね?」
「うん、そうだよ。桜小路響っていう本名で本を書いているんだけど、知らない?」
「もちろん、知ってます! 『恋人たちの風』を書かれている方ですよね?」
「そうなのよ! もう読んだ?」
新入生勧誘活動の時みたいに、瞳が一気に盛り上がった。兄の話をされることが嬉しくてたまらないようだ。
「い、いえ。でも、今、読んでいる小説を読み終えたら、次に読もうかなって思っていました」
「そうなんだ。面白いよ! 絶対!」
「はい。楽しみにしています。でも、桜小路先生は目が不自由なのに、その障害を跳ね飛ばして作家になった、すごく努力の人という印象です」
詩織が響自身のことを褒めたことで、瞳のスイッチが入ったようで、瞳の顔が更に輝いた。
「そう! そうなのよ! お兄ちゃんが人一倍努力をしていることは本当のことだよ! 私なんて足元にも及ばないくらい!」
興奮して話す瞳が何となく可愛く思えて、詩織は思わず、くすっと笑った。
「瞳さんは本当にお兄さんが好きなんですね」
「うん! 大好きだよ! 兄妹じゃなかったら結婚したいくらい」
「えっ?」
「冗談だよ~」
おどける瞳だったが、冗談に思えなかった詩織であった。
「ねえ、詩織」
「はい?」
「お兄ちゃんに会いたい?」
「えっ?」
「詩織が望むのなら会わせてあげるよ」
文芸部に新入生を勧誘する時もそんなことを言っていた。詩織が「会いたい」と言えば、本当に会わせてくれるはずだ。今をときめく人気作家であり、その容姿から「小説界の王子様」とも呼ばれている響には誰しも会いたいだろう。
しかし、かつて自らも芸能人であった詩織は、芸能人や著名人であれば誰でも良いから会ってみたいという、ミーハーな趣味は持ち合わせていなかった。
とは言っても、きっぱりと断るのは、せっかく誘ってくれている瞳にも悪いと思った。
「あ、あの、先生の本もまだ読んでないのにお会いするのって、すごく先生に失礼な気がします。先生の本を読ませていただいてから、その感動をお伝えしたいです」
詩織の答えが予想外だったのか、瞳は、少し呆然としているようだった。
「詩織ってさ、変わってるね」
瞳がぽつりと呟いた。




