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Act.027:懐かしい笑顔

 五月に入り、最初の土曜日。

 ゴールデンウィーク後半の四連休が始まったこの日、羽田空港は、連休を東京で過ごそうとする人や、連休前半を故郷で過ごした人のUターンで混雑していた。

 白いボタンダウンシャツの上にライトグレーのパーカーを着て、ロールアップしたブルージーンズに白のスニーカーという、いつもの少年のような格好で、キャップを目深にかぶった詩織しおりは、到着口の前で、午後三時着の福岡便の乗客が出て来るのを待っていた。

 父親が赴任先の福岡から帰って来るのは正月以来だ。

 羽田空港の到着口には、飛行機から降りて来る芸能人を待ち構えている芸能リポーターもよくいることから、詩織は、福岡からいつも飛行機で帰って来る父親を空港で出迎えたことはこれまでなかったが、今回は、早く父親に会いたくて、ここまで出て来てしまった。

 四月上旬に結成されたクレッシェンド・ガーリー・スタイルの週に二回のスタジオ練習も一昨日の木曜日で五回目となり、メンバー四人は、初めて会った時から意気投合していたが、ますます息が合ってきたと感じていた。そんなメンバーのこと、バンドで演奏している曲のこと、アルバイトをやり始めたことなどなど、父親に話したいことがたくさんあった。

 福岡からの到着便の乗客がぞろぞろと出て来ると、あちこちで久しぶりの再会を喜ぶ姿が見られた。乗客がまばらになった頃、チェックのネルシャツにジーパン、そしてリュックを背負った、カジュアルな服装の父親が出て来た。

 詩織が思わず駆け寄って「おかえりなさい!」と声を掛けると、父親も懐かしい笑顔を見せて、「ただいま」と言った。



 詩織と父親は、電車を乗り継いで江木田駅まで帰って来た。そして、家がある南口ではなく、北口から出ると、詩織は父親をカサブランカの前まで連れて行った。

「へえ~、こんな所にレンタルDVD屋があったなんて、まったく知らなかったなあ」

 父親は、カサブランカの中には入らず、大きな窓から店内を覗き見ながら言った。

 父親が今のマンションを買ったのは、詩織が生まれて間もなくの頃だと聞いている。つまり、父親も十七年近く前からこの街に住んでいたのに、駅の北口には、ほとんど行くことがなかったようだ。

「昨日もバイトだったのかい?」

「うん! それで四月分のお給料をもらったの。初めて、自分で働いてお金をもらったって思うと、何だか嬉しかった」

 詩織は、中学生の時には芸能界で働いていたが、歌が大好きだった詩織にとって、それは「労働」という感覚ではなかった。また、今回もらったアルバイト代とは比較にならない大金を稼いでいたが、ギャラや印税は母親が管理する口座に振り込まれていたから、実際に詩織がその金を手にすることはなかった。

 カサブランカのアルバイト代は、月が変わって最初のバイトの日に、前月分を現金で手渡されることになっていて、封筒に入った現金を見た詩織は、初めてのアルバイトを無事に行えたことを実感したのだった。

「だから、今日の晩御飯は、私が御馳走してあげる!」

「えっ、大丈夫かい?」

「へへへ、と言っても、お弁当屋さんのお弁当だけど」

「お弁当屋さんの?」

「うん! 一緒にバイトをしている人から教えてもらったんだけど、そこのお弁当は、作りたてのおかずに、ほかほか御飯を入れてくれて、すごく美味しいんだよ」

「ふ~ん。じゃあ、御馳走になろうかな」

「うん、任せて! でも」

 詩織は、父親の気持ちを探るように、上目遣いで父親を見た。

「本当は、私の手作りが良かった?」

「詩織が料理をするのかい?」

 父親があからさまに心配そうな顔をした。

「あ~、酷い! 私も、最近、メンバーの人にお料理も教えてもらってるんだよ」

「そうなのかい?」

かなでさんという一番年上の人と、玲音れおさんという、この北口に住んでいる人に。二人とも女子力が高いんだ」

「詩織も女子力が高くなりたいのかい?」

「お父さんはどうなの? やっぱり、娘には、ちゃんとお料理やお裁縫ができてもらいたい?」

「まあ、できないよりはできるに越したことはないけど、詩織は、人の奥さんに収まるような人生は望んでいないんでしょ?」

「今のところは」

「もし、詩織に大好きな人ができて、その人のために美味しい料理を作ってあげたいという気持ちになってからでも遅くはないんじゃないかな?」

「そうかな?」

「そう思うよ。それとも、もう、そんな人ができたのかな?」

「いないよ! 今の私の恋人はバンドだから!」

「それを聞いて、僕も安心したよ」

 父親は、ほっとしたように笑った。



 椎名しいなに教えてもらった弁当屋で「ほかほか弁当」を買い込んで、詩織と父親は自宅に帰った。

 詩織がお茶を入れて、夕食の準備ができたところに、自分の部屋に荷物を置いた父親がリビングにやって来た。

「お父さん、今日はお酒を飲まないの?」

「今日は良いかな。お弁当だしね。じゃあ、いただこうか?」

「うん! いただきます!」

 二人して手を合わせてから、弁当を食べ始めた。

「御飯もほかほかだし、値段のわりには、おかずも美味しいね」

「でしょ! 最近、私もここのお弁当をよく買ってるの」

「一緒にバイトをしている人に教えてもらったって言ってたけど、昔の詩織に会っていたという人だっけ?」

「うん。でも、秘密にしてくれているの」

「バンドのメンバーもそうだし、巡り会ったのが、そういう人ばかりで良かったね」

「本当にそう思う! お父さんには、バンドのメンバーに会ってほしかったけどな」

 詩織は、父親にバンドメンバーと会ってもらいたくて、そのことを電話で話したが、父親は会わないと言った。

「メンバーの人に未成年の娘のことをよろしくと僕が言うことは、親の責任をそのメンバーの人に押し付けているような気がするんだよ」

 父親の言うことも、もっともだと思った。

「それに、詩織は、バンドでは他のメンバーに子供扱いされている訳じゃなくて、一人前として扱ってくれているんだろう?」

 バンドメンバーの間に年上も年下もないという玲音の考えに深く共感している詩織は、「うん」と答えた。

「ということは、詩織は、バンドの中では大人と同じということだから、もう、親が出る幕はないよ」

 バンドは、自らの意思に基づいて、詩織がこれから仕事にしようとしていることだ。アイドルの時のように、親に言われたからではない。だから、いくら父親であっても、バンドに関しては部外者でしかないのだ。

 それに、父親が挨拶をすると言えば、玲音達に余計な負担を掛けるかもしれないとも思い、詩織も、父親がメンバーと会う段取りは取ってなかった。

「まあ、来年には東京に帰って来られると思うから、それから何かの折に挨拶をすることにするよ」

「本当に? 本当に東京に帰って来られるの?」

「福岡も三年目だからね。順当に行くと帰してくれるはずだけどねえ」

 詩織が芸能界を引退した中学三年の冬に母親が家を出て行った。そして、その春に父親が福岡に転勤になった。父親と一緒に福岡に行くことも考えたが、父親の親友である土田が教頭を務めていて、何かがあった場合には対処をすると約束してくれたことから、既に編入試験に合格していた私立アルテミス女学院にそのまま通うことにしたのだ。



 弁当を食べ終わって、お茶を飲んでいると、父親が湯飲みをテーブルに置いて、詩織を見た。

「詩織」

 その視線に、いつもの穏やかな父親はいなかった。

「実はね、母さんから連絡があったんだ」

「……」

 詩織は言葉を発することができなかった。

 当時、人気絶頂であったにもかかわらず、バンドをしたいと言って、詩織が強引にアイドルを辞めた時、母親は激怒した。

 スーパーアイドル桜井さくらい瑞希みずきは自分が育てたという自負を持っていて、その後見人兼付き人として、常に詩織の隣にいて、自らも芸能界という華やかな世界にいることに酔っていた母親には、詩織の気持ちは伝わらなかった。

 しかし、昔、バンドをしていた父親は理解をしてくれた。そして、父親と母親は喧嘩をして、結局、離婚をし、詩織は父親と一緒に暮らすことになった。その時から、母親は、詩織と父親の前から消えて、音信不通になっていた。母親は、詩織が芸能生活で稼いだお金のすべてを管理していて、その通帳も自分のものとしていた。

 詩織は、そのことでも母親を許せなかったが、決定的だったのは、いくら自分の想いを訴えても、それを理解してくれなかったことだった。母親の言葉の端々に垣間見えた「芸能界への未練」は、母親自身が華やかな芸能界から去りたくないと言っていた。本当にやりたい道を見つけた娘を応援することなく、自分の欲望のことを優先して考えていることが我慢できなかった。

 それから二年も経った今頃、何を言ってきたのだろう?

「お母さんは、何て言ってきたの?」

「まあ、寄りを戻したいというようなことだよ」

「お父さんはどうするの?」

「今は考えられないな。でも、詩織がそれを望むのなら、考えてみようかと思ったんだ」

「私も今は駄目! 二年以上も音沙汰無しで自分勝手すぎるよ!」

「そうか。……詩織の気持ちは分かったよ」

「お父さんはどうなの? 本当は、お母さんと仲直りしたいの? もし、そうなら、私に遠慮なんてしなくて良いよ」

「僕達が別れた原因は、詩織のこれからのことについて意見が合わなかったからで、母さん自身のことを嫌いになった訳じゃない。でも、元どおりにしましょうと言われても、今すぐには、そんな気持ちにはなれない。これは僕の本心で、詩織に遠慮なんてしてないよ」

 詩織も自分のことで父親と母親が仲違いをしてしまっていることが心苦しかった。しかし、だからといって、できてしまった溝をすぐに埋め戻すことはできなかった。

「でもね、詩織」

 父親が身を乗り出して、テーブルの上で両手を組んだ。

「母さんだって、最初から、詩織を芸能界に縛り付けておこうと思っていた訳じゃないんだよ」

「でも、本当は、自分がアイドルになりたかったのになれなかったから、代わりに私をアイドルにしたって自分で言っていたんだよ」

「それは、週刊誌のインタビュー記事で、母さんがそう言ったことになってるんだろう?」

「違うの?」

「どうだろう? 僕は、詩織の芸能活動には一切関わらなかったから、それを本当に母さんが言ったのかどうかは分からないよ」

 詩織が芸能活動を始めると、詩織と母親は事務所が用意した都心のマンションに暮らすようになったが、父親は、その間も桜井瑞希の父親だとは誰にも明かさずに、このマンションで一人、暮らしていた。

「でも、最初は、母さんだって、詩織のことを思って、詩織を歌手にしたんだ。だって、小さい頃の詩織は本当に歌が大好きだったから、思い切り歌わせてあげたいって、母さんも考えたんだよ。そして、その考えには僕も賛成したんだ」

 小学生の頃、ボイストレーニングやダンスのレッスンをしている時、本当に楽しかったことを、詩織は思い出した。

「でも、詩織があんなに人気者になるとは、正直、僕も母さんも思ってなかった。詩織の人気がどんどんと大きくなると、詩織は、僕達の娘ではなくなってしまったんだ。自分の娘のことなのに、芸能プロダクションやレコード会社を通さないといけなくなった。母さんもそんな詩織を守ろうとして、ずっと詩織の側にいるようにしたんだ。これは、僕と母さんが話し合って決めたことだから嘘ではないよ」

「……」

「さっき、詩織が言ったように、母さんの心の中には、芸能界への憧れはあったんだろうね。でも、最初からそう思って、詩織の近くにいたんじゃないんだ。その華やかな世界に身を置いていて、いつの間にか自分を見失ってしまったんだろう。だから、むやみに母さんを憎まないでほしい。だって、親子の縁は切ろうとも切れないんだからね」

「……お父さんらしい」

 いつも温和で、滅多なことでは怒らない父親らしいと感心する一方で、父親が言うように、今すぐに母親のことを許すことはできなくて、逆に母親が何を考えて、今、連絡をしてきたのかと訝しむ詩織であった。

 

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