Act.026:楽しい時間
次の週の木曜日。時間は午後八時に少し前。
奏は、帰りの支度を済ませると、いつも通勤に使っているトートバッグを肩に掛けるととともに、家から持って来ていたソフトキーボードケースを背負って、ピアノレッスン室を出た。
「お先に失礼します」
「あれっ、先生! キーボード、どうしたんですか?」
たまたま通路にいた楽器店の若い店員が声を掛けてきた。
「私、バンドをすることにしたんです。今日は、これから練習があって」
「へえ~、ジャズですか?」
「いえ、ロックです」
「そ、そうなんですか」
――え~え~、この歳でロックしてたらおかしいですよね。そうですよね。
奏は、心の中で悪態を吐きながらも、顔は笑顔で店員に会釈をして楽器店を出た。
楽器店の前に、詩織、玲音、そして琉歌が立って待っていた。
「お待たせ」
「いえ、全然、待ってません!」
約束の時間よりは五分ほど遅れていたが、詩織がすごく嬉しそうに庇ってくれた。
もう本当に可愛い! 男を諦めて百合に走っちゃおうかなと真剣に思うくらいだ。
「でも、ここで働き始めて五年は経ってるんだろ? 何でビートジャムを知らないかな?」
いつもの調子の玲音には、一言以上言い返さないといけないという使命感すら湧いた。
「私はピアノ講師なの! バンドは新潟にいた時以来やってないから、バンド練習用のスタジオには行ったことないの!」
「でも、そのキーボードは? それも新潟にいた時のやつ?」
「社員割引で三年前に買ったやつよ」
「社員割引! それって、アタシも使えるの?」
「あんたは社員じゃないでしょ!」
「でも、アタシの代わりに、奏が買ってくれたら良いんだよな。今度、アタシが新しいベースを買う時、奏に買ってもらって良い? お金はちゃんと出すから」
「詩織ちゃんや琉歌ちゃんならまだしも、可愛くない玲音のために何で私が骨を折らなきゃいけないのよ」
「奏さん! 奏様! 奏閣下! キーボード重くないっすか? お持ちしますよ」
「見え透いてるのよ!」
「ねえ~、早く行こうよ~」
さすがの琉歌も玲音と奏との痴話喧嘩につき合っているより、早くスタジオに入りたいと思ったようだ。
「おお! そうだった! 急ごう!」
今日は四人揃っての、クレッシェンド・ガーリー・スタイル初練習の日だった。
玲音が先頭に立って歩き出し、琉歌がその隣を、奏と詩織はその後を並んで歩いた。
「今日は、スタジオで詩織ちゃんの歌が聴けると思うと、朝からすごく楽しみだったわ」
「私も、奏さんのキーボードで、思い切り歌えるのが、すごく楽しみです」
その屈託のない笑顔に頬をすりすりしたいほどだった。
ビートジャムに入ると、待合室には年配の男女のグループもいて、若者ばかりで疎外感に包まれるのではないかと心配していた奏は少し安心した。
「ああやって、歳を取っても音楽を楽しめるなんて素敵ね」
待合室のテーブルに四人並んで座った奏は、目の前にテーブルに座っている年配の人達を見て呟いた。
「奏もすぐに仲間入りだろ?」
「玲音、しばくわよ!」
「暴力反対!」
「あんたの言葉の暴力の方がずっと酷いわよ!」
「でも、奏さんの相手をしているお姉ちゃんって楽しそうだね」
「えっ?」
唐突な琉歌の言葉に、玲音が固まった。
「ま、まあ、あれだ。いろんな鬱憤を晴らすことができるからだよ。琉歌とかおシオちゃんを罵るのは忍びないからさ」
「ちょっと! 私なら罵って良いという理由は何?」
「突っ込みどころ満載だからかなあ」
「あんたねえ」
「奏さん」
詩織が二人の話に割って入ってきた。
「それは、奏さんが話しかけやすい人だからと思います! 私だって山田楽器でいきなり声を掛けてしまったんですけど、それができたのは、奏さんだったからだと思うんです。ねっ、そうですよね、玲音さん?」
「ま、まあ、それは否定しない。奏をいじった時の反応も面白いしな」
玲音が照れたように後頭部をかきながら言った。
――何、こいつ。けっこう可愛いじゃない。
憎まれ口ばかり叩くが、それは心を割ってつき合ってくれていることと裏腹なのだと奏も理解していた。
タメで言いあうようなことは、社会に出てからやっていない。玲音との他愛もない言い争いは、仕事で貯まったストレスを吐き出させてくれる。それは否定できないことだ。
バンドメンバーとして集まった四人だが、普段から気兼ねなくつきあえる仲間になりそうな気がする。社会人になっても、そんな仲間ができるとは思ってもいなかった。
「玲音さん! 第九スタジオ空きましたよ! どうぞ!」
カウンターの中から、ミミが大きな声で告げた。
待合室から第九スタジオに移動した四人は、素早くセッティングを済ませた。
奏が三年前に社員割引で買ったのは、ローランドジュノー。コンパクトで持ち運びやすい機種だが、音源はなかなかの出来だと奏も思っており、半分は社員としての義務感だったが、何となくピアノ以外の音源も弾いてみたいと漠然と思って購入したものだ。もっとも、これまで電源を入れるのは、週に一回あるかないかだった。
いつもは座って演奏する奏も、「ロックバンドだとキーボードも立って演奏してるだろ!」という玲音の希望を入れて、立って演奏できる高さでセッティングした。立って演奏するのは、高校でバンドをしていた頃以来だ。
「よし! やろうか!」
玲音が気合いを入れるように言った。奏も大きくうなずいた。
まずは、結成式の日に詩織が歌った、ホットチェリーの「君の瞳に映る僕」をすることにした。奏も、きっちりとした伴奏で、マイクを通した詩織の歌を聴いてみたかったのだ。
まずはキーボードのアルペジオから。
久しぶりにスタジオの中で聴く、自分のキーボードの音に自分自身で少し酔いしれた。生ピアノの音色には、当然、敵わないが、伴奏という目的からいうと十二分なクオリティだ。
スタジオの中で輪になって立っているメンバーの顔が見えた。みんな、嬉しそうだ。
プロになりたいと思っている人の中にも、音楽の道を極めたいというよりは、目立って人気者になりたいという邪な考えの人もいる。でも、ここにいるメンバーは違う。みんなが半端なく音楽が、ロックが、バンドが好きなんだと分かる。
詩織のボーカルが入ってきた。
琉歌の部屋で聴いた時より何倍も素晴らしいのは当然だが、あの時よりも集中して歌っている詩織の感情が、そのまま、ぶつけられてきているように感じた。アイドルグループとはいえ、そのセンターで歌っていただけのことはある。いや、アイドルで終わらせることなど、もったいない歌声だ。引退したことは正解だと奏も思った。
Aパートが終わると、ギターとベース、そしてドラムが加わった。スローテンポのバラードだったが、どれもツボを押さえた演奏で、詩織の歌を邪魔することなく、それでいてアンサンブルもしっかりとしていて、ところどころ、個人技が光るフレーズを難なく演奏していた。
面白い! このバンド、本当に面白い!
音を楽しむ! そうだよ! これが「音楽」だよ!
サビに入ると、伴奏も盛り上がったが、それ以上にシャウトする詩織のボーカルに、奏は押し潰されそうな感覚を覚えた。それだけ圧倒的だった。バックの演奏も正直すごいと思うが、その伴奏に負けていない声量、正確な音程、そして、これでもかというくらいに込められた感情の発散! いや、爆発と言った方が正確かもしれない。詩織の目ににじんでいる涙は、その溢れてくる感情を抑えきれない証拠だろう。
曲が終わっても、誰も言葉を発しなかった。いや、発することができなかった。
「気持ち良いー!」
しばらくしてから、玲音が身悶えながら叫んだ。
「何回聴いても、おシオちゃんのボーカル、最高だ!」
「あ、ありがとうございます」
「今だけは玲音と同意見よ」
奏も同意せざるを得なかった。
「今だけって何だよ。あっ、ついでに奏のキーボードも最高だったぜ」
「ついでって何よ!」
「おシオちゃんのボーカルの前には霞んでしまっていたけど、奏のキーボードも良かったぜってことだよ」
「な、何よ? 褒めたって何も出ないわよ」
「照れるなよ」
「照れてないし!」
もう、玲音の奴! 茶化すなっての!
と思いつつも、玲音に褒められたことが、素直に嬉しかった奏であった。
楽器店の店員から、「素晴らしいです、先生!」と何度も言われていたが、その感情が込められていない褒め言葉に、いつもうんざりとしていただけに、尚更なのかもしれない。
「じゃあ、次は『扉を開いて』をやってみようか」
「扉を開いて」は詩織が作っていたオリジナル曲だ。三日前にメールで楽譜と音源が送られてきたが、奏にとって、コピーは一日もあれば十分だ。
演奏していると、先ほどのホットチェリーの曲である「君の瞳に映る僕」と比べてしまって、どうしても編曲の荒削りな感じが目立ってしまった。今日初めてバンドとして演奏するオリジナル曲と完成されたプロの曲を比べるのだから、当然と言えば当然のことだ。
奏も編曲を専門的にしたことはなかったが、一応、音大を出ていて、音楽理論もそれなりに理解しているつもりだったから、演奏中にも、いろんな編曲のアイデアがわき上がってきた。音大卒業後はピアノ講師として、人の曲を演奏することしかしてなかったが、今、「自分達の曲」を作り上げていくという作業を楽しみたいと思った。
曲が終わると、奏は、みんなを見渡しながら言った。
「この曲は、もうちょっとポップな感じが良いような気がする。キーボードもストリングス系からピアノ系の音に変えて、少し跳ねる感じにしたいんだけど、どうかな?」
「ちょっと弾いてみてよ」
玲音もすぐに食いついてきた。
「玲音もそう思ってたの?」
「て言うか、アタシ、馬鹿だからさ、頭の中でいくら再現しようとしてもできないんだ。実際に音を出してみないと分からねえよ」
「まあ、馬鹿なのは知ってるわよ」
「うるせえ! 早く弾いてよ」
奏が、音色を変えて跳ねるリズムで同じフレーズを弾いてみると、玲音は嬉しそうな顔をした。愛想笑いではない。そもそも玲音は愛想笑いができる奴ではない。
「何か良い感じじゃね? どう、おシオちゃん?」
「はい! すごく良いです!」
「じゃあ、琉歌もちょっと軽めにな!」
「おっけい~」
本当にこいつらプロを目指しているのと疑問が湧いてしまうほどのユルさだったが、「扉を開いて」を、再度、演奏してみると分かった。一回目とはまったく別の曲と言って良いほど、ポップな曲に変わっていた。
全員が自分のすべきことを理解していて、口角泡を飛ばしながら言いあう必要がないだけなのだ。
ここにいることが心地良い。
三時間の練習時間がすごく短く感じられた奏だった。




