Act.025:夢の始まり
「はあ~、頭、痛っ」
日曜日の午前。山田楽器店のピアノレッスン室。
あと十分もすると、今日、最初の生徒がやって来るというのに、奏はズキズキと痛む頭を抱えていた。
昨日の夜、琉歌の家で行われたクレッシェンド・ガーリー・スタイル結成式に参加をした奏が目を覚ますと、なぜか玲音と抱き合って寝ていた。
玲音の腕をふりほどいて立ち上がり、周りを見渡すと、詩織も琉歌も、そのまま床に横になっていた。お酒を飲んで雑魚寝なんて学生の時以来だ。
高校生の詩織を朝帰りさせてしまって大丈夫かと焦って、詩織を起こしたが、よく考えてみると今日は日曜日だった。
目を擦りながら顔をしかめる詩織だったが、その顔も可愛いと思ってしまう奏だった。
奏は、この桐野詩織という女の子と出会ったことで、これまで常に感じていた閉塞感とか焦燥感という呪縛から解き放たれた感じがしていた。
楽器店で声を掛けてきてくれた詩織のことが気になって仕方がなくなり、他のメンバーのことも、そもそもバンドの音も聴いたこともないのに、誘われるままに、この結成式に出席した。バンドメンバーと会ってからでも、自分が乗り気にならなければ、「やっぱり参加しない」と言えば良いのであるから、奏としては、気軽な気持ちで、この席に臨んだつもりだった。
結成式はなごやかに進んでいたが、詩織が元アイドルだと分かったことから、本音や本心のぶつかり合いとなった。
詩織の熱い気持ちが伝わってきた。詩織の歌も奏の心を震わせた。今、音楽を仕事にしているのに、忘れていた音楽に対する情熱を、学生の頃に戻ったかのように取り戻してくれた。
「音楽は文字どおり、音を楽しむことが大切ですよ」
奏がピアノレッスンの生徒にいつも言っていることだ。しかし、奏自身がそれを忘れていたようだ。
次の木曜日には、四人揃っての初めてのバンド練習が予定されている。奏はそれが楽しみでならなかった。
せっかくだから朝御飯も一緒に食べていったらという玲音の勧めにしたがって、朝御飯も四人で食べることにした。
奏は起きた時から頭痛がしていたが、玲音は、隣の自分の部屋から食材を持って来ると、平気な顔で朝食の準備を始めた。結成式の料理も少し残っていたので、卵焼きと味噌汁を作ることになった。
もちろん、玲音一人にさせる訳はいかないと、全員が朝食の準備を手伝った。
料理が得意ではない詩織は御飯を研いで炊く係を、琉歌は空いた酒缶が散らばるローテーブル付近を整理して綺麗にする係をすることになり、玲音と奏が料理係になった。
「玲音、あんた、平気なの?」
奏が、ネギ、豆腐、油揚げといった味噌汁の具を切り分けながら、隣で卵焼きを焼いている玲音に訊いた。
「何が?」
「二日酔いよ」
「アタシは今まで二日酔いってしたことないんだよね」
「どんな奴……」
「そう言う奏だって、けっこうイケる口じゃんか」
「私は頭がガンガンしてるわよ。って、呼び捨ては止めなさい」
「もう『奏』って呼び慣れちゃったから良いじゃん」
「良いじゃんじゃないわよ」
「しかし、奏もけっこう料理やってんだな。未来の旦那様のためか?」
「決まってるでしょ。料理ができるってことは、女にとってアドヴァンテージなのよ!」
「昨日の話によると、そのアドヴァンテージを生かし切れてないよな」
「うるさいわね! 痛っ!」
「ほい。後はアタシがやるから、座ってなよ」
玲音は、奏をクッションに座らせると、一人で料理を続けた。
御飯が炊けるタイミングで卵焼きと味噌汁ができあがると、ローテーブルの周りに四人が向かい合うようにして座り、朝御飯を食べた。
詩織が「何だか、ピクニックみたいで楽しいですね」と嬉しそうな顔で言った。
「頭さえ痛くなかったらね」
しかし、朝御飯を胃の中に入れると少し楽になった気がした。
「今日は日曜日だから、詩織ちゃんはお休みだよね?」
「はい」
「いくら一人暮らしでも高校生を朝帰りさせちゃって、親御さんに申し訳ないわ」
「大人だなあ。奏は」
「茶化すな! って、呼び捨ては……、どうせ、もう止めるつもりないんでしょ?」
「ど、どうして分かった?」
大袈裟に驚いてみせる玲音を、奏はジト目で見つめた。
「はあ~、本当に変な奴」
「でもさ、奏だって、アタシ達といる時には、ピアノの先生らしくないじゃん」
確かにそうだ。
会社でも彼氏にも丁寧な話し方が自然にできていたけど、四歳も下なのにタメで話す玲音に対して、そんな話し方をすることが馬鹿らしくなっていた奏だった。
「そうね。あんたには目上の人に対する礼儀とマナーを叩き込んでやるわよ」
「他の目上の人には、ちゃんとしてるって。でも、奏は同じバンドのメンバーだから、こんな話し方をしてるんだよ」
玲音が、ただの傍若無人で礼儀知らずな女ではないことは、奏だって分かっていた。朝御飯を作る時も率先して動いていたし、さっきも調子が悪い奏に座って待っているようにと気を使ってくれた。
「バンドを一緒にやっていく上では、年上だろうが、アタシはこれまでズバズバ言ってきたし、奏に対しても遠慮せずに言うつもりだから」
こんな雰囲気は久しぶりだった。そして、少し嬉しかった。
山田楽器店の若い店員達も、ピアノ教室の先生だから、あるいは年上だからということで、奏と少し距離を取って接してきていた。仕事だから仕方がないといえば仕方がないことだが、少し寂しいと思うこともあったし、同じ会社の社員なのに疎外感をずっと感じていた。
しかし、スタジオで音を出す前にもかかわらず、一番年下の詩織とは十歳も年齢差があるが、クレッシェンド・ガーリー・スタイルというバンドのメンバーであるとの一体感が、今こうして、みんなで朝御飯を食べているという状況でも感じられるのは確かだ。それには、玲音の少し度を外した親密さも、実は役立っているということも分かるのだった。
その後、奏は江木田駅まで詩織と一緒に帰った。
駅までの途中にあるレンタルDVD屋でバイトをしていることとか、詩織の家は駅の反対側にあることを、詩織は嬉しそうに語った。
昔、テレビで見ていた元アイドルと一緒にいることが不思議に思えたが、隣にいるのは、桐野詩織という普通の女子高生だった。
江木田駅で詩織と別れて、池袋にある自宅に戻ったのが二時間前。
シャワーを浴びて、着替えてから出勤したが、酒の匂いが残ってないか不安だった奏は、そろそろ生徒を案内すると伝えに来た店員がレッスン室を出て行くと、バッグから口臭予防の錠剤を取り出して口に入れた。
ずきっと頭が痛んだ。
「玲音め! うわばみか!」
奏と別れて、家に帰り着いた詩織がシャワーを浴びると、途端に睡魔が襲って来た。ベッドに横になると、結成会のことが思い出されてきた。既に夢を見ているようだった。
自分が元アイドルだったことを自分の言葉でメンバーに伝えた。
これから、ずっと一緒にやっていきたいメンバーに嘘は吐きたくなかった。そして、みんなは詩織の気持ちを分かってくれた。このメンバーだからこそ、一緒にできると確信できた。
メンバーと一緒に朝御飯も食べた。
家では、いつも一人で食事をしていて、人と他愛のない話をしながら食事をすることも久しぶりで、それだけで、仲間と一緒にいるんだという安心感と幸福感に満たされた。
昔の自分のことを知られなくない一心で、高校の友達とは、一緒に遊びに行ったり、お互いの家でお泊まりをするような深いつき合いはしてなかった。中学時代は、そもそも学校の友達とそんなつき合いができる時間すらなかった。
玲音と琉歌と奏は、隠し事もすべて吐き出した詩織に初めてできた「仲間」と言って良かった。運命的としか言いようがない出会いだったが、それだけに壊したくない、失いたくないとの想いが強かった。だから、詩織はすべてを吐き出したのだ。
もっとも、玲音達だって、まだ、みんなに言っていないこと、内緒にしていることがあるだろう。しかし、いくらバンドのメンバーであっても、そのプライバシーのすべてをさらけ出す必要はないはずだ。バンドの活動に支障があることができれば、その時に、みんなで話し合えば良い。
また、玲音の奏に対する態度は、一番年下の詩織が他の三人に対して、変な遠慮はしなくて良いということを示していてくれているような気がした。そして、口では止めろと言っている奏も、実はそれほど嫌がっていないことも何となく分かった。
だからだろうか、詩織は、朝御飯を食べている時に、ふいにわき上がって来た不安を思わず口にした。
「皆さんに昔の私のことがバレバレだったってことは、ひょっとして、学校のみんなにも本当はばれているのでしょうか?」
「ばれてたら、今頃、大騒ぎになってるんじゃね?」
詩織の疑問に、玲音が慰めるような顔をして答えた。
「ボクがおシオちゃんのことを分かったのは、やっぱり、スタジオでおシオちゃんの歌を聴いたからだよ~」
「ああ、私もそうだった。詩織ちゃんの顔、どこかで見たことあるなあって、ずっと思っていたけど思い出せなかった。だけど、詩織ちゃんの歌を聴いて、こいつはただ者ではないと思うと、身近で会った人ではなくて、テレビとかで見た人じゃないかなって、記憶を探る領域が変わったのよ。そしたら、もしかしてってなったの」
琉歌や奏も、詩織が桜井瑞希だと分かった決め手は、歌だったようだ。
「そもそもさ、テレビでしか見たことのない元超有名アイドルが身近にいるとは、誰も思ってもいないはずだぜ。それに、最近は、アイドル顔負けに可愛い女の子だって、街に行けば、いくらでもいるからさ。おシオちゃんがこんだけ可愛くても、すぐに桜井瑞希と結びつける人はいないんじゃないかな」
そういう玲音も、黙っていたら、ファッションモデルだと勘違いされるのではないかと思った詩織だった。
そして、バイトを一緒にしている椎名にも、バイト初日にばれてしまったが、椎名は昔の詩織に実際に会っていて、自分の記憶として鮮明に残っていたのだろう。
「詩織ちゃんは学校でも歌ったりしてるの?」
「いいえ、音楽の時間はピアノとバイオリンは必須なんですけど、歌はないです」
「じゃあ、安心じゃないかな。私達は、音楽という枠で詩織ちゃんを見たから分かったんだと思う。そんなことのない学校では大丈夫だよ。きっとね」
奏の言葉を聞いて、詩織も少し安心できた。
そこまで思い出すと、詩織は本当に夢の中に落ちていった。




