Act.021:届いた気持ち
山田楽器店のピアノ講師は、奏の他にもう一人いて、二人でローテーションを組んでレッスンを担当していた。
平日の昼間は、定年で仕事を辞めた年配の男性や暇を持て余しているマダムが多く、夕方以降になると、学生、仕事帰りのサラリーマンやOLが多くなる。年齢層も下は幼稚園児から上は八十歳代のお年寄りまで様々だった。
金曜日の今日も夕方までのレッスンが終わり、夜の部が始まる前の一時間ほどの休憩時間に入った。
山田楽器店に勤めだした頃は、休憩時間でも、美味しいと評判の店をよく食べ歩きしたものだが、最近はコンビニのお弁当で済ませることが多くなっていた。今日も山田楽器店のすぐ近くのコンビニで、お握り二個とペットボトルのお茶を買ってきた奏は、社員用の休憩スペースで早めの夕食をとっていた。
胸がいっぱいで、ひょっとしたら二個も食べられないかもしれない。
昨日、桐野詩織という女の子にいきなり告白をされた。
――一緒にロックバンドしませんか?
前日に、デモ演奏を聴いて感激したと言われて、奏も詩織のことを憶えていた。しかし、たったそれだけの繋がりで、いきなり一緒にバンドをしようと誘ってきた詩織の真意が見えなかった。
いや、それは何か裏があると、うがった見方をするからそう思うだけで、本当に詩織の真意なのかもしれない。人との繋がりの強さは、それまでのつき合いの長短がすべてではないはずだ。一目惚れという言葉もある。詩織は、奏に一目惚れしたのではないだろうか?
そう思うと、奏は嬉しかった。
三十歳まであと二年という年齢になって、結婚に焦りを覚えてくると、少しでも脈がありそうだと思った男性に奏の方から猛烈にアタックをしたが、そういう男性に限って振り向いてくれなかった。
一方で、奏に言い寄ってくる男性もけっこういた。しかし、それは世間体を気にして、とりあえず結婚をしようという考えの男性達であって、奏を見る目に純粋な愛情を感じることはなかった。
とことん、自分を愛してくれる男性を求めている一方で、世間体を気にして三十歳までには結婚をしたいと焦る。自分でも矛盾をしていることは分かっていた。それが悪循環となって、結局、聡史のようなどうしようもない男につかまってしまうこともだ。
そんな時にされた詩織からの告白は、ため息しか出なかった気持ちをリセットしてくれて、ロックバンドをしていた中学高校の頃のような、ワクワクする気持ちを与えてくれた。
それに、詩織は、見た目、高校生くらいだった。自分より十歳ほども若い子からバンドに誘われたことも、会社でおばさん扱いされて、若い子から相手にされなかったことで貯まっていたイライラも吹き飛ばしてくれた。
気分を一新したい今、奏の気持ちは、詩織と一緒にバンドをしたいという方向に振れていた。
しかし、詩織達のバンドの音もまだ聴いていない。プロになりたいと言っていたが、高校生バンドに毛が生えた程度のバンドなど今さらするつもりはなかった。バンドをするようになると、担当するレッスンの数を減らす必要がある。頼めば他の講師に割り振りすることは可能だが、それだけ奏の収入は減る。だから、自分が夢中になれるだけのバンドではないと、やる意味はない。
聡史も去って行き、今は、男のことや結婚のことは忘れようと思った。心のリハビリが必要だ。詩織のバンドがそうなってくれるかもしれない。
気がつくと、夜のレッスンが始まる時間が迫っていた。
気持ちを、一旦、ピアノ講師に切り替えた奏は、夜の部のレッスンが終われば、詩織からもらったメモに書かれていたアドレスにメールをしようと決めた。
――彼女の音を聴いてみたい!
まずは、それからだ。
人生初めてのアルバイトを終えた詩織は、江木田駅を横切り、南口から出て、自分の家まで歩きながら、椎名に話した、自分がバンドをやりたくなった決定的な出来事を思い出していた。
詩織がバンド活動を決意した時、それは椎名にも告白したとおり、ホットチェリーのスタジオライブを見た時だった。
それまでアイドルとして、すべてをスタッフに準備をしてもらい、自分はその上に乗っかかっているだけで良かった詩織は、本当に自分がやりたいことは、こんなことだったのだろうかと迷い始めていた。
小さな頃から歌うことが大好きで、のど自慢に出まくっては賞を総ざらえしていた。「アイドルになれば思う存分に歌うことができる」という母親の言葉を信じて、ボイストレーニングやダンスといった訓練を重ね、デビューをした。
確かに、コンサートで歌うことはできたが、見せることが主で、歌うことは従であった。メンバーも大勢いて、センターと言ってもワンオブゼムでしかなかった。
そんな時、キューティーリンクが出演した歌番組に、ホットチェリーも出演していた。
熱い童貞!
結成されて二十年以上の活動歴を誇るベテランロックグループで、メッセージ性の高いオリジナル曲を、ボーカルの芹沢勇樹が鬼気迫る迫力で歌い上げ、主に男性に絶大な人気を誇っていた。ライブ活動に力を入れていて、テレビには、それほど出演しなかったが、その日は特番だったこともあり、特別ゲストして、ホットチェリーが出演していたのだ。
そして、スタジオで生演奏を披露したのだが、司会者の後ろの出演者席でそれを聴いた詩織は衝撃を受けた。歌がこんなに心を打ち振るわせるものだということを思い知らされた。
自分達のファンは、本当に自分達の歌を聴きに来てくれているのだろうか? 単にその姿を見たいだけではないのだろうか?
詩織は、自分の存在意義を問わざるを得なかった。自分は何のために歌っているのだろうか? 本当に歌いたいのは、こんな歌だったのだろうかと。
自分のやりたい道を突き進むという椎名の言葉に、自分の気持ちを改めて認識した詩織が、そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、小さなショルダーバッグに入れているスマホにメール着信があったことを知らせる短い音が鳴った。急いでスマホを取り出した詩織は、スマホを操作してメールを表示させた。
立ち止まり、じっくりとメールを読み終えた詩織は、スマホを顔に近づけて、間違いではないかと二度見してしまった。
玲音と琉歌にあらかじめ電話をしてから、詩織は玲音の部屋のインターホンを鳴らした。
すぐに玲音がドアを開けてくれて、詩織が中に入ると、既に琉歌も部屋の中にいた。
詩織は、部屋の真ん中にあるローテーブルを挟んで、玲音と琉歌と向き合うようにして座った。
「山田楽器の人、キーボード、承知してくれたんだって?」
「はい! とりあえず、スタジオ練習の時に見学に来て、音を聴いてみたいって、メールがあったんです!」
「よく承知してくれたよな」
「私も駄目元とは思ったのですが良かったです」
「おシオちゃんって、見た目はお淑やかな女の子って感じだけど、ときどき、弾けるよね」
「普段しゃべっている時と歌っている時のおシオちゃんも、全然、違うもんね~」
「本当だよ。だから、アタシらも最初におシオちゃんの歌を聴いた時は、ぶっ飛んだんだけどね」
「あ、あの、私のことより藤井さんのことを」
あまり自分のことを目の前で話されると照れてしまう詩織が話を元に戻した。
「ああ、そうだった。それで、その藤井さんがスタジオに来られる時間は?」
「ピアノレッスンは午後八時までには終わるそうなので、どの曜日も午後八時以降なら大丈夫だそうです」
「そっか。とりあえず、次回は、来週の木曜日の六時から予約していたけど、それを八時からに変更できるかなあ」
「実は、さっき、ビートジャムに電話して確認してみましたけど、まだ、変更できるみたいです。玲音さんと琉歌さんに訊いてから変更しようと思って、まだ変えてないですけど」
「それじゃあ、アタシが電話をして変えておくよ! でも、ほぼ一週間待ちかあ。できれば、もっと早く藤井さんと会って、音を合わせてみたいな」
「そうですよね」
「来週の木曜日までに予約できるスタジオがあるかどうかをアタシが調べてみるよ」
「お願いします」
「それかさあ~」
琉歌が詩織と玲音の顔を見渡した。
「明日の夜、バンドの結成会をするじゃない。ちょっと開始時間を遅らせて、それに呼んだら~?」
「いきなり、もう、メンバーにしちまうってことか?」
「それでも良いけど~、前回のスタジオ練習を録音した音源もあるから~、それを聴いてもらっても良いし~、ボクの部屋だと、夜、少々騒いだって平気だから、ライブもできるよ~」
「部屋でライブですか?」
詩織は、琉歌の突飛もない言葉に、頭に疑問符を浮かべた。
「ボクの部屋には電子ドラムがあるし、お姉ちゃんの部屋にはシンセもアンプも、それに小さいけどミキサーもあるでしょ~」
「ヘッドホンライブか?」
マンションの角部屋である琉歌の部屋の真下は夜には営業していない美容院で、隣は玲音の部屋だ。上の階に音が漏れない程度であれば、少々、音を出しても大丈夫だ。そこで電子ドラムを始め、ギター、ベース、キーボードをすべてラインでつないでミックスして、ヘッドホンで音を聴くということだ。
「そう言うこと~。音はしょぼくなるけど、とりあえずは、おシオちゃんの歌を聴いてもらいたいし~」
「そうだな。アタシらだって一発でKOされた、おシオちゃんのボーカルを聴かせるだけで十分な気がするな」
「うんうん」
「その藤井さんって人も、誘ってくれたのがおシオちゃんだったから、話に乗ってくれたんじゃないかな。ピアノ講師とかしてる人だから、おシオちゃんのボーカルのすごさは、歌を聴くまでもなく、話をしただけで分かったのかもね」
「そ、そんなことないですよ! 私があまりにも必死だったので、仕方なくだと思います」
「それは、おシオちゃんの熱い気持ちが伝わったということだよ」
自分が熱くなっていたことは否定できない。一歩間違うと危ない子だが。
「とりあえず、今、藤井さんにメールしてみれば。もう明日の話だし」
「そうですね」
詩織は、早速、明日夜の結成会のことを奏にメールした。




