Act.017:ぶつけられた熱い想い
山田楽器店で、この春いち押しのシンセサイザーの新商品発表キャンペーンの初日。
この日最後のデモ演奏も無事に終わり、奏は、観客からのまばらな拍手に冷めた微笑みを浮かべながらお辞儀をして、実質的な楽屋となっているピアノレッスン室に戻った。
すぐに赤いジャンパーを着た店長代理がノックをして部屋に入って来た。
「先生、どうもお疲れ様です! 新製品の魅力が十二分に伝わったって、メーカーさんもご満悦でしたよ」
「それは良かったです」
そうだ。今回の演奏は、新しいシンセサイザーの魅力をどれだけ観客にアピールできるかがキモであって、奏者である自分が目立ってはいけないのだ。そういう意味では、あのまばらな拍手は成功の証と言って良いだろう。
もう、スポットライトを浴びることもない。まるで自分の人生と同じかもしれないと、奏は、また、冷めた微笑みを浮かべた。
「では、失礼します」
奏は、通勤でいつも使っているトートバッグを肩に提げると、店長代理に頭を下げ、ピアノレッスン室を出た。
店内には、まだ大勢の客がいた。
今まで奏が試奏していたシンセサイザーの新製品がイベントコーナーにそのまま置かれていて、客からの質問にメーカー担当者が丁寧に答えていた。それを横目に見ながら、店の正面出入口に向かうと、一人の女の子が走り込んできた。背中にソフトギターケースを背負い、息を切らして大きく肩を揺らしていたが、奏の顔を見て、満面の笑みを見せた。
記憶も鮮明に残っている、昨日、声を掛けてくれた女の子だった。そして、自分の顔を見て笑顔を見せてくれたことが、理由もなく嬉しかった。
飾り立てない自然な笑顔。最近、つきあった男達は、ついぞ見せてくれなかった笑顔だ。
女の子は、その魅力的な笑顔を奏に向けたまま近づいて来た。まだ、息は切れているようだったが、奏の前まで来ると、きちんとお辞儀をした。
「こんばんは!」
「こ、こんばんは」
「もう、デモ演奏、終わっちゃったんですか?」
「え、ええ。つい、さっきね」
「ああ、残念です。聴いてみたかったのに」
社交辞令ではなく、本当に残念がっていることが分かった。
「あ、あの、それで、ですね」
意を決したように、大きく息を吐き出した女の子を、奏は何事かと首を傾げて見た。
「今、ちょっとだけ、お話させていただいてよろしいですか? それともお急ぎですか?」
聡史と会う約束があったが、その時間まで、まだ少し余裕があった。
それに今日は遅れても良いと思っていた。
「特に急いではいないけど……。話って何かしら?」
奏の返事を聞いて、その女の子は息を整えようとしたのか、深く呼吸をした。奏より少しだけ身長が高いが、ほぼ、同じ目線の高さだ。
「わ、私、桐野詩織と言います!」
唐突に自己紹介されて、奏も面食らったが、すぐに「私は藤井奏です」と自らも名乗った。
「藤井さんは、ここでピアノかエレクトーンを教えられているのですよね?」
「ええ、あなたもピアノ教室に興味があるのかしら?」
「い、いえ、私は藤井さんに興味があります!」
「はい?」
びしっと言い切ったが、奏に誤解されたのではないかと思ったのか、詩織は手を振り回しながら、慌てて言った。
「あっ、いえ! 藤井さんに興味があるというのは、その、人間的な意味ではなく、あっ、それはそうなんですけど、やっぱり、キーボードが素敵で」
テンパって話す詩織が可愛くて、奏は思わず吹き出してしまった。
「桐野さん、落ち着いて。ちゃんと話を聞くから」
「す、すみません。私、知らない方にいきなり声を掛けるの初めてで」
何かの勧誘でもない限り、知らない人に突然話し掛けることなど誰もしないだろう。
――怪しい宗教の勧誘かな? それともマルチ?
奏の頭に、一瞬そんなことが浮かんだが、詩織の真剣な眼差しは、そんな詐欺まがいのことなどではないと教えてくれていた。
「それで、興味があるという私に言いたいことって何かしら?」
「はい」
詩織は、すう~と大きく胸に息を吸い込むと、しっかりと奏の顔を見た。
「一緒にロックバンドしませんか?」
「……はい?」
「す、すみません! 本当に唐突ですみません! 私、プロになりたくて、やっと気が合う人達とバンドを組むことができたんですけど、キーボードの人を探しているんです。でも、これという人もいなくて……。その時に、私、藤井さんのことを思いだしたんです。昨日の藤井さんの演奏を聴いて、すごく感動をしたんです! 藤井さんのキーボードで歌えたら幸せなんだろうなって思ったんです! 私には、きっと、藤井さんのキーボードが必要なんです!」
「……」
「あ、あの、本当にすみません! でも、私の夢だったんです! 絶対、叶えたいんです!」
――熱い!
奏がはるか昔に忘れ去ってしまった音楽に対する情熱を真っ直ぐにぶつけられて、奏は狼狽えてしまい、何も言葉を発することができなかった。
「これ、私の携帯のアドレスです! 無視してもらっても良いです! 破って捨ててもらっても良いです! でも、少しでも興味があれば連絡をください!」
「……」
詩織が差し出したメモ用紙を奏が受け取ると、詩織はこわばっていた顔を緩ませて、深くお辞儀をした。
「変なこと言って、本当にすみませんでした! 失礼します!」
嵐のようにやって来て、嵐のように去って行った詩織を、奏は呆然と見送った。
山田楽器店を出て、奏は待ち合わせの約束をしているコーヒーショップに向かった。
時間は、約束していた午後十時を既に超えていた。
これまでの奏なら、遅れまいと必死に駆けていたはずだが、今日は、朝から自分の気持ちを決めていたこともあり、走る気にもならなかった。
そして、さっきの突然の告白。
昨日、少しだけ自分の演奏を聴いただけで、お互いに名前すら知らなかった間柄だったのに、一緒にバンドをしようって、どういうことなのか?
からかわれているのかと少し疑ったが、詩織のあの真剣な眼差しはそうではないと確信できた。
コーヒーショップに着くと、案の定、聡史はまだ来てなかった。
注文したコーヒーを持って、空いているテーブルに座った。もう十時を二十分ほど過ぎている。いつもなら、来てくれないのかと不安になったり、このまま来ないでほしいと願ったりと心が不安定になっていたが、今、奏の頭の中には、もう聡史はいなかった。詩織の笑顔と真剣な眼差しが充満していた。
「奏!」
詩織のことを考えていて、聡史が近くに来るまでまったく気がつかなかった。聡史はコーヒーも待っておらず、奏の前の席に座ることもなかった。
「どうしたんだよ? ぼ~として」
「ご、ごめんなさい!」
すぐに謝るのは、もう癖になっていた。でも、……もう、お終い!
「昔のことを、ちょっと考えてて」
「昔のこと?」
「バンドをしていた頃のこと」
「奏もバンドをしてたのか?」
「うん。中学高校の時だけどね」
「へえ~、その頃の奏は、すごく輝いていたんだろうな」
――過去形? 今は輝いていないみたいな言い方だ。
「そ、そんなことないよ」
「じゃあ、行くか」
聡史は、奏に背中を見せて、コーヒーショップの出口に向かって歩き出した。
出会った頃は、手をつないだり、背中を押しながら優しくエスコートしてくれたのに、あれは何だったのだろう?
「聡史」
コーヒーショップを出ると、奏は聡史を呼び止めた。
「何だ?」
「今日、聡史が勤めているって言ってた会社に電話したんだ」
「……」
「そんな社員、いないって言われたよ」
――分かってた。分かってたよ。
「……」
「ねえ、教えて! 本当は、どこに勤めているの?」
「どうして、そんなことをしたんだよ?」
聡史が語気を強めて、奏を睨んだ。
「だって、携帯にかけても全然出てくれないから! だから」
「俺のことが信じられなかったってことか?」
「……」
「会社に連絡しなきゃいけないような緊急の連絡って何だよ?」
――何で、あんたがキレてるのよ! キレたいのはこっちよ!
「そ、それは……」
「もう、俺達も終わりかな」
覚悟をしていても、面と向かって言われると、少しだけ心が痛かった。
「お互いのことを信じ合えなくて、恋人とか無理だろ?」
――そうよ。無理だったのよ。最初から。
「じゃあな!」
聡史は、言い訳もせずに、逃げるように早足で去って行った。
――貸したお金は?
言ったところで返ってくるはずもない。結局、それだけの関係でしかなかったということだ。
馬鹿みたい。涙だって出てこない。終わってしまえば、思っていたより冷静だった。
それは、きっと、詩織のお陰だ。
何かが始まるかもしれない笑顔をもらった。ちゃんと目を見て、本音でぶつかってきてくれた。自分が必要だと言ってくれた。それなら、私のお金にしか用がない男なんて、こっちから願い下げだ。
奏は、詩織に感謝した。そして、更に興味が湧いた。
まだ、詩織のバンドのメンバーも知らないし、そもそも、歌も演奏も聴いたことがない。しかし、詩織という女の子のことをもっと知りたかった。
――あんな子となら一緒にやってもおもしろいかもね。
聡史と別れたことは、蚊に刺された程度にしか痛くないようにしてくれた、あの笑顔。きっと、自分を変えてくれる力を持っている。
奏はそう信じたかった。




